25 「スターダスト」
Star dust
And now the purple dusk of twilight time
Steals across the meadow of my heart
Love is now the stardust of yesterday
The music of the years gone by
(そして今、黄昏の紫色の翳が僕の心の草原に忍び込む
愛は今、昨日の星屑、去った年月の音楽となる)
Sometime I wonder
why I spend the lonely nights
Dreaming of a song
The melody haunts my reverie
And I am once again with you
When our love was new
And each kiss,an inspiration
(時々、僕は不思議に思う
なぜ僕は孤独な夜々を過ごすのか
一つの歌を思いながら
そのメロディは僕の空想に付きまとう
そして再び、僕は君と共にいる
僕たちの恋が新しく
すべてのキスが霊感だった頃の君と)
Beside a garden wall
where stars are bright
You are in my arms
A nightingale sing its fairy tale
Of paradise where roses bloom
(庭園の壁のそば
星は明るく輝き
君は僕の腕の中に
ナイチンゲールは御伽噺の曲を歌う
薔薇の咲く天国の曲を)
Though I dream in vain
In my heart it will remain
That stardust melody
The memory of love‘s refrain
(その夢は空しい夢だが
僕の心の中にまだ残っている
その星屑のメロディ、それは
繰り返す愛の思い出)
ホーギー・カーマイケルの有名なスタンダードナンバーで、ビング・クロスビー他、多くの歌手が歌っている。年配の人には、「シャボン玉ホリデー」のエンディングテーマとして覚えている人も多いだろう。
通俗的道具立てで構成された詩の代表のようなものだが、しかし、庭園の壁のそばで見上げる星空の輝きのイメージだけでも、永遠のスタンダードナンバーとなる資格がある。
甘い悲哀というものが歌の一番の要素であるというのは不思議な気がするが、我々は失恋など経験したいとは思わなくても、歌となると、なぜか失恋を好んで歌う、あるいは好んで聞くのである。それによって、一種のカタルシスが得られるのだろうか。
第一連の「meadow」は、ポップスに頻出する言葉だが、「そうげん」ではなく、「くさはら」の草原である。林にでも囲まれた、居心地のよいスポットくらいの感じだろう。だから、「心の草原」という表現にもなるわけだ。サバンナ的な大草原では、黄昏の紫色の翳が忍び寄るイメージにはならない。
ナイチンゲールも西欧の文学にはよく出るが、どんな鳴き声なのかは想像もつかない。まあ、人それぞれに適当に想像すればいいだけだ。詩や文学の鑑賞とは、読む人聞く人がめいめいの想像力で心の中に二次創作をすることなのである。