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「シロクマの屑籠」という精神科医か何かのブログの一節だが、この書き方だと「自己家畜化」という概念(本自体を読んでいないのでその概念は不明だが、言葉どおりに解釈する。)を筆者は肯定的に使っているようだ。つまり、「自己家畜化はけっして悪いことではないですよ~」と患者を猫なで声でなだめる手法のひとつとして使う意図ではないか。

(以下引用)

この本の前半では、人間が進化の過程でみずから起こしてきた自己家畜化という(生物学的な)変化・進化について解説しますし、それこそが人間を地球の覇者たらしめた生物学的な鍵ではあるでしょう。とはいえ、自己家畜化を遂げた人間といえども、誰もが・どんな文化や環境にも適応できるわけではありません。文化や環境の変化がもっともっと加速していくとしたら、より多くの・より新しい不適応が私たちを待ち受け、将来の私たちを疎外するのではないでしょうか。

(以上引用)


で、私がこの「自己家畜化」という言葉を聞いて即座に連想したのがエーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」という言葉と著作だが、20代のころに読みかけてすぐに放棄したので内容が分からない。おそらく、ドイツ国民がなぜナチスとヒトラーを受け入れた、あるいは国民自ら国家統率の中心として彼らを選んだのか、ということを精神分析的に解明しようとしたものだろうと想像している。
まず、ウィキペディアで調べてみる。と思ったが、下のサイトのほうが分かりやすいようだ。

(「哲学ちゃん」というサイトから転載)

自由からの逃走

フロムは著書『自由からの逃走』の中で、人間が自ら自由を放棄してしまう心理的メカニズムを明らかにしました。

フロムによれば、人間はもともと自己決定の自由(=自身の運命を自分で決める能力)を持っています。

しかし一方で、人間は自由になることで孤独感や無力感を抱えてしまい、結果として逆に自由から逃避してしまう傾向も持っています。

自由からの逃避は「権威主義への逃避」「破壊主義への逃避」「機械的画一性への逃避」という3つの形となって表れます。

それぞれ詳しく見ていきましょう。

権威主義への逃避(依存)

「権威主義への逃避」とは、他人を自分の権威の支配下に置いたり、他人の権威に自分の自由を託すことによって、身の安全を求める心理です。前者はサディズム、後者はマゾヒズムの心理につながります。

例えば、自分でビジネスを起こした方が自由になれるにも関わらず、事業の失敗を恐れるあまり、敢えて会社に支配されるサラリーマンとして働いてしまうことが挙げられます。

破壊主義への逃避(破壊)

「破壊主義への逃避」とは、他者や自分自身を攻撃することによって不安から逃れようとする心理です。

例えば、恋人の心が自分から離れることを恐れるあまり、恋人の浮気を疑ってしまったり(他者への攻撃)、フラれたショックをごまかすために暴飲暴食をしてしまったり(自分への攻撃)することが挙げられます。

機械的画一性への逃避(同調)

「機械的画一性への逃避」とは、周囲の人と合わせることによって、自分が自由に発想することを放棄してしまう心理です。

例えば、「ダサい」と思われることを恐れるあまり、無難な服装や髪型を選んでしまうことが挙げられます。

(以上引用)

フロムの3つの分類は、まあ、ほとんど無用の分類で、政治的には「権威主義への逃避」がほとんどだろう。しかもそれは日常生活の「組織」においても同じである。組織内の権力者への反抗は困難であり服従は容易だ。一番の要点は、「自由は面倒くさいし、責任を追及されるし、下手をしたら権力者に処罰される」ということではないか。そこで近代社会では人は自由から逃走し、自分の「決定権」を権力に委譲する。要するに、「権威主義への逃避」ではなく、「権力への恐怖」がその正体だろう。つまり、自ら権力を持つ者はけっして自由から逃走などしない。これは、最近問題化したジャニーズ事務所問題や松本人志問題の起源的原理だ。

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「日本人の英語」で名前を知られるようになったと思われるマーク・ピーターセンの「英語の壁」という新書(これは本の種類のことだ。いわゆる新書版の本ということ。)を読んでいて、ある部分でひとつの謎にぶつかったのだが、私は謎解きが好きなので、しばらく考えて、正解と思われる解答に達した。その「謎」をここに載せて、少し空白部をあけた後で、その解答を載せることにする。
まあ、「頭の体操」と思っていい。これは、中学生レベルの英語(英文)が題材だが、高校生や大学生、いや、学校の英語の先生でも問題の意味が理解できない気がする。むしろ学校秀才のほうが首をひねるのではないか。逆に、一読で問題の意味が分かった人は、素晴らしい言語感覚があるか、あるいは米国人と日本人の言語感覚や人間性の違いを知っていると思う。私は留学体験は無いが、英語圏への留学体験がある人は即座に分かるのではないか。ただし、それは私の解答が正解だとしての話だ。
以下がその「問題」の文章だ。引用文は赤字にしておく。括弧内は私の補足。

(willという語の)和訳に「でしょう」を使った用例は一つだけあったのだが、それは「You'll be in time if you hurry.急げば間に合うでしょう」となっていて、この「~でしょう」は、単なる誤訳による「~でしょう」だ。

さて、この和訳がなぜ誤訳なのか、というのが問題である。
ヒントにはならないかもしれないが、続く文章は、こうである。

"You'll be in time if you hurry."という英語は「急げば間に合いますよ」ということを言っているのである。

さて、なぜ前者が誤訳で、後者が正しいとなるのか、説明できるだろうか。私は10分程度で解答を出したので、それくらいの制限時間にしよう。





(解答)?

実は、これは著者のピーターセンの「言語感覚」と日本人の「言語感覚」の違い、あるいはアメリカ人と日本人の人間性(民族性)の違いから来た「断層」だと私は思っている。つまり、日本人的な感覚では、ふたつの和訳の前者が間違い(誤訳)だとは感じないと思う。
フェアを期するために、問題文に先立つ記述も書いておく。
それは、

はっきり言えば、willには『~だろう、~でしょう』という意味は無いのだ。

というピーターセンの発言(文章)だ。ところが、日本語辞書の「will」の意味(訳)として、「~だろう、~でしょう」は当たり前にある。それに慣れている日本人は、前の「問題」の何が問題なのか、分からないわけだ。むしろ、ピーターセンのほうがいい加減なことを言っているのではないか、と思う人すらいるだろう。それほど、willに「だろう」「でしょう」を訳語として当てるのは日本人には普通のことなのだ。

実は、ここに日本人の民族的個性がある。ピーターセンは「will」の示す意味は「未来」である、としか考えないのに対し、日本語の「だろう」「でしょう」は、実は「婉曲」の意図があるのである。それを未来形の訳語にするのは、英語ネィティブの人には、耐えがたい誤りだ、と思われるだろう。
さて、ここで、"You'll be in time if you hurry"に対するピーターセンの訳文である「急げば間に合いますよ」を見てみよう。それと「急げば間に合うでしょう」の違いが日本人にはピンと来ないのではないか。どこが違うの? むしろ、ピーターセンの日本語訳のほうが変じゃないの? と思う人がいると思うが、それは、それが「日本人的という点では自然な感覚」だからだ。つまり、少しでも未来のことなら、ある予定や予期が100%実現するとは限らないから、婉曲に「だろう」「でしょう」を使うわけだ。それが欧米人的感覚ではないのではないか、というのが私がここで主張していることである。欧米人は、自分が正しい(かなりな蓋然性で、あることが実現する)と思えば、それが100%でなくても主張する。日本人はそういう場合には「だろう」「でしょう」と婉曲に言う。これがwillの「誤訳(ピーターセン流に言えば)」になるのだと思う。そういう「主張や表現の曖昧さ」を欧米人は卑怯卑劣だと感じるのではないだろうか。







何十年も昔、好きで、自分でも日本語訳しようとしたこともあるジュディ・コリンズの「青春の光と影(原題の直訳は「今、両面を」)」を、今朝の散歩の時に思い出して、頭の中で繰り返し鑑賞したのだが、歌詞を正確には思い出せなかった。
しかし、昔覚えた歌、あるいは、(そういう題名の古いポップスもあるが)「昔聞いた歌」というのが、突然頭の中に甦るのは面白い。何も、再生装置などなくても、脳そのものが過去を再生する再生装置なのである。同じく散歩の伴奏として、前には「軍艦マーチ」がなぜかリピートされたこともあり、頭の中で演奏を聴いていると、この曲がいかに優れたメロディと構成を持った曲かがよく分かった。次から次へと曲想が変化するのである。「響けユーフォニアム」で、ださい新曲など作らなくても、「軍艦マーチ」のほうが凄い感動を呼んだのではないか。まあ、今ではパチンコ屋のBGMとしか思われていないが、我々が子供のころは、それを全曲通して聴く経験を何度か持ったものである。というのは、運動会の定番BGMだったからだ。

それはさておき、「青春の光と影」を思い出せるかぎりで日本語訳してみる。まあ、ネットを探せば日本語訳も原詩もあるだろうが、面倒くさいので、記憶に頼る。たぶん、中学生くらいのころの記憶だ。途中の忘れた部分は適当につなげる。最後の部分は「人生の両面」のことだが、ほとんど忘れたので省略。

「青春の光と影(今、ふたつの面から)」

天使の髪の房や流れ
空に浮かんだアイスクリームのお城
そして、あちらこちらに羽毛が積もる谷間

私は雲をそんなふうに見ていた
だけど今、それは太陽の光をさえぎるだけ
どこにでも雨と雪を降らせるだけ

私は雲を両面から見た
上からも下からも
でも、今もまだ何となく
思い出すのは雲の幻
私は雲を本当には知らないのでしょう、ほんの少しも

月に宝石、妖精のお話
誰かと踊る時のめくるめく気持ち
「あなたを愛しています」とまっすぐ高らかに言うこと

私は恋をそんな風に見ていた
でも今は雲が私の前をさえぎり恋は別の面を見せた
苦痛に悲しみーーー
もしもあなたが私を愛してくれるなら、
私から去らないで

私は恋の両面を見た
ーーー
でも、今もまだ何となく
思い出すのは恋の幻想
私は恋を本当には知らないのでしょう、ほんの少しも






「壺斎閑話」記事の末尾で、中村某という者が、ドストエフスキーは生涯にわたって精神病者だったという説を出していることについての文章である。まあ、その当否は別として、下の部分は面白い。

四年間の監獄生活の時期が、精神的にもっとも安定したいた

という部分である。「したいた」は「していた」のタイプミスだろう。
これは、精神病を考えるうえで、面白い話である。つまり、「自由こそが精神を病ませる」という仮説だ。監獄や病院にいる時は拘束状態だから、「自由をあきらめる」。それが精神の安定をもたらすのではないか。あるいは、「自由」の代わりに「夢」や「希望」を置いてもいいかもしれない。夢や希望を失った状態こそが精神が一番健全に働くのではないだろうか。
そこで想起するのが、「冬の散歩道」の中の

when I look about my possibility (訂正:「look around」が正しいと思う)
I was so hard to please

という一節だ。この「気難しさ」が、精神の不健康さの徴候だろう。青年期が精神の危機の時であるのも、まさに夢や希望や可能性の中で迷いに迷うからではないか。つまり、カフカ的迷宮の中にいるのである。

(追記)「look around」は、対象だけでなくその周辺も見るわけで、「自分の可能性だけでなく、その周辺も見る」わけだ。言い換えれば、「キョロキョロしている」のである。

(以下引用)


そんなドストエフスキーだが、不思議なことに、四年間の監獄生活の時期が、精神的にもっとも安定したいたと中村は言う。じっさいドストエフスキー自身も、「懲役のほうが気持ちが穏やかだった」と口癖のように言っていたそうである。なぜ彼がそんなふうに思ったのか、それについては詳しく立ち入って考えていない。監獄のなかでは、他人との関係が単純化されるので、精神的なストレスも緩和され、異常な精神状態に陥ることが少なくなった、あるいはなくなってしまった、ということだろうか。もっとも、この懲役中に癲癇の発作が始まったわけで、それをどう考えるかは、また別の問題である。
いずれにしても、ドストエフスキーが統合失調をほぼ生涯にわたって患っており、その症状を直接描写することで、かれの作品世界が形成されたとする中村の推論は、その有効性はともかく、面白い試みである。
「復讐」について考えてみる。
現代社会では、復讐は禁じられている。復讐をしたら、法的に処罰されるわけだ。しかし、上級国民は権力制度 と暴力装置で守られているから、法では裁かれない。
つまり、現代で復讐が禁じられているのは、究極的には上級国民や権力にいる側の人間を守るためであって、人権とは無関係だということだ。
論理的に言うと、法による処罰(刑罰)自体が復讐である。つまり、個人の復讐の権利がいつのまにか権力に取り上げられたわけである。それは、私人が復讐権を持つと、彼らを害した側(たいていは権力側)が復讐されるから、それをあらかじめできないようにしたわけだ。
その結果、人民は人間ではなく羊になった。

まあ、権力との関係は不問としても、我々は「復讐権」を取り戻すべきだろう。そうすれば、悪の側にいる人間も弱者においそれと手を出せなくなる。つまり、「復讐は無罪」というように法を変えるべきである。その仔細は法学者に考えてもらえばいい。たとえば詐欺犯罪は被害者には生命に関わる重大犯罪だが、「目には目を」方式だと復讐が不可能なので、「相手の財産と被害金額の割合」に応じて、復讐の度合いを決めるわけだ。財産の半分以上を奪ったら、加害者を殺してもいい、とする。等々。とすれば、たとえば安倍狙撃犯とされている山上容疑者は無罪となる。つまり、安倍は総理大臣が統一教会を許容し、利用していたわけで、統一教会の存在の大きな要因だったからだ。まあ、この事例は論理的に極端だが、とにかく「復讐は無罪」論を推進しないと世間の悪ははびこり続けるだろう。
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