最近、西洋史、特にフランス革命のあたりの本やネット記事を読むことが多いが、そこから惹起された思想が
1:不徳義漢こそが歴史を動かす
2:英雄とは、ほとんどが大量殺人者である
の2点であるが、まだ思想が熟していないので、メモだけにする。
1:不徳義漢こそが歴史を動かす
2:英雄とは、ほとんどが大量殺人者である
の2点であるが、まだ思想が熟していないので、メモだけにする。
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潜在意識が「これから死ぬぞ」という信号を出し、これまでの「どうでもいい些事(仕事含む)への懸念」を消去した結果、脳が明晰になるのかもしれない。
有名人でも、かなり明晰な意識のまま死んだ例はけっこうあるはずだ。「コレデオシマイ」と言って死んだのは誰だったか。森鴎外は「くだらない」だったか。これも明晰な意識の事例だろう。
(以下引用)
Terminal lucidity(Paradoxical lucidity)と呼ばれる現象 theguardian.com/society/2021/f 終末期明晰。何年も認知症だった人が死ぬ直前(数時間~数日)に首尾一貫した会話ができるようになるケースあるのだそうだ。脳が突然正常に戻るしくみ不明。これまで全然研究されてなかったが米国で研究プロジェクト開始
私は日本の現代小説、特にSF小説は初期の御三家(小松、星、筒井)とその少し後の広瀬正や半村良以外はほとんど読んでいないので、山本弘の作品は当然読んでいない。そもそも日本の今のSF小説が好きという人は珍しいのではないか。
下の記事の中で山本弘が書いていることは、そういう「SF外」人間から見ると、ずいぶんな自惚れだなあ、と思えるのだが、彼の作品は自分で言うほど「面白い」のだろうか。もし面白いなら、ある程度のベストセラーになったはずだが、彼の本が売れたという話は一度も聞いたことが無いのである。そもそも、SF小説でベストセラーになった例はここ十年いや、二十年ほど無いのではないか。
それに、「と学会」を自分のファンクラブと思っているところが凄い。外部の人間から見れば、「と学会」は冗談半分の学会であり、特に誰が中心ということはない集団というイメージで、山本弘がその会長であるというのは、一部の人間しか知らないと思う。
作品を読んだことが無いので文章の印象から憶測で言うのだが、この人は「お勉強」的な意味で頭が良くて記憶力や論理構築力、整合性を緻密にして何かを組み立てることが得意なタイプではないかと思う。その反面、大胆な構想や破天荒なユーモア(つまり、小松左京、筒井康隆的ユーモア)とは無縁の人のように思える。つまり、視野がひどく狭い、小動物的なタイプに思える。
(以下引用)
下の記事の中で山本弘が書いていることは、そういう「SF外」人間から見ると、ずいぶんな自惚れだなあ、と思えるのだが、彼の作品は自分で言うほど「面白い」のだろうか。もし面白いなら、ある程度のベストセラーになったはずだが、彼の本が売れたという話は一度も聞いたことが無いのである。そもそも、SF小説でベストセラーになった例はここ十年いや、二十年ほど無いのではないか。
それに、「と学会」を自分のファンクラブと思っているところが凄い。外部の人間から見れば、「と学会」は冗談半分の学会であり、特に誰が中心ということはない集団というイメージで、山本弘がその会長であるというのは、一部の人間しか知らないと思う。
作品を読んだことが無いので文章の印象から憶測で言うのだが、この人は「お勉強」的な意味で頭が良くて記憶力や論理構築力、整合性を緻密にして何かを組み立てることが得意なタイプではないかと思う。その反面、大胆な構想や破天荒なユーモア(つまり、小松左京、筒井康隆的ユーモア)とは無縁の人のように思える。つまり、視野がひどく狭い、小動物的なタイプに思える。
(以下引用)
読者投稿欄の写真はコピーしていないが、それを見ると、後にプロになった二人が掲載者の中では模写(似顔絵)が一番下手であるところが面白い。つまり、(年齢的なこともあるだろうが)個性が強くて、模写には向かないのだろう。ついつい、自分好みの顔にするのだと思う。
或る種の長所は短所でもあり、短所は長所でもある、という人生訓になりそうだ。
ツィッターでよく見るが、異常に精密な絵(まあ、写真を下敷きに描いたのだろうが)を描ける人の数はかなり多いのだが、そうした人が画家になっても「魅力的な絵」は描けないだろうな、と思う。
(以下引用)
松苗あけみ先生の話題の新刊「松苗あけみの少女まんが道」に“1970年頃の少年サンデーに似顔絵投稿が載った”という件があり、家にあるかもと思って探してみたら… 1970年10月4日号に、当時14歳になる前の松苗先生の投稿が そして左下は、当時13歳の魚戸おさむ先生?(出身も北海道で合ってるし)
或る種の長所は短所でもあり、短所は長所でもある、という人生訓になりそうだ。
ツィッターでよく見るが、異常に精密な絵(まあ、写真を下敷きに描いたのだろうが)を描ける人の数はかなり多いのだが、そうした人が画家になっても「魅力的な絵」は描けないだろうな、と思う。
(以下引用)
松苗あけみ先生の話題の新刊「松苗あけみの少女まんが道」に“1970年頃の少年サンデーに似顔絵投稿が載った”という件があり、家にあるかもと思って探してみたら… 1970年10月4日号に、当時14歳になる前の松苗先生の投稿が そして左下は、当時13歳の魚戸おさむ先生?(出身も北海道で合ってるし)
これは、すべての小説に当てはまる言葉ではないだろう。確かに、内面描写の多い小説はつまらなくなりがちだとは思うが、小説の最大の長所は「心理描写ができること」と、「現実では不可能な空想が書けること」だと私は思っている。後者に関しては、映像より優れていると思う。簡単な話、確か、三島由紀夫が言っていたと思うが、ある人物を「美女(美男)である」と書けば、何も特別に描写しなくても、読み手それぞれが勝手に自分の好きな美男美女を想像してくれるが、映画だとどんな俳優が演じても、「これは私の想像とは違う」と思う人が大半だろう。
なお、漫画の創作法で、「キャラが一番大事」という考え方にかなりな支持者がいると思うが、話がつまらないとどんなキャラを出してもやはりつまらない漫画にしかならないと思う。よくある「日常もの」の漫画でも、実はそこに高度な物語(あるいはギャグや着想)が高度な技法で描かれている場合に名作や傑作になるはずだ。
そもそも、面白いキャラ(読み手に愛されるキャラ)を「作る」ほうが、面白い話を考えるより困難なのではないだろうか。低レベルな漫画の「面白いキャラ」と作者が思っているのは、単に非常識なだけの変人であり、高レベルな漫画になると、そこに「愛される要素」が入ってくる。たとえば、漫画だと「見かけ」だけでも愛される要素になる。これは小説ではできない、漫画だけの利点だろう。最近のライトノベルの表紙や挿絵が萌えキャラばかりになった理由はそこにある。安易と言えば、実に安易だが効果的なのだろう。
(以下引用)
なお、漫画の創作法で、「キャラが一番大事」という考え方にかなりな支持者がいると思うが、話がつまらないとどんなキャラを出してもやはりつまらない漫画にしかならないと思う。よくある「日常もの」の漫画でも、実はそこに高度な物語(あるいはギャグや着想)が高度な技法で描かれている場合に名作や傑作になるはずだ。
そもそも、面白いキャラ(読み手に愛されるキャラ)を「作る」ほうが、面白い話を考えるより困難なのではないだろうか。低レベルな漫画の「面白いキャラ」と作者が思っているのは、単に非常識なだけの変人であり、高レベルな漫画になると、そこに「愛される要素」が入ってくる。たとえば、漫画だと「見かけ」だけでも愛される要素になる。これは小説ではできない、漫画だけの利点だろう。最近のライトノベルの表紙や挿絵が萌えキャラばかりになった理由はそこにある。安易と言えば、実に安易だが効果的なのだろう。
(以下引用)
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