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漫画に限らず、娯楽系フィクションによくある欠点だと思うので、参考までに転載。

(以下引用)

https://myjitsu.jp/enta/archives/94415

打ち切り漫画のあるあるネタ

<1>設定を盛りすぎる
壮大なスケールの作品によって、読む人をワクワクさせたい…。そんな夢を抱く作家は多いようだが、大量に設定を盛り込むのは典型的な打ち切り作品の特徴だ。肝心のストーリーがごちゃごちゃして、「何がしたいのか分からない」と読み手を混乱させてしまうだろう。

<2>難解な造語
こちらはファンタジーやSF系の打ち切り漫画に多い特徴。作中に登場するモノに対して、聞きなれない独自の造語がくまなく付けられているというパターンだ。話のエッセンス程度なら問題ないだろうが、多すぎると読者が置いてきぼりになってしまう。

<3>文字で説明しがち
推理漫画や設定の凝った漫画にはよくあることだが、文字に頼りすぎる表現は「絵」しか見ない一般読者には受けにくい。長文をサラッと流す人もいるので、ストーリーの重要な部分でも「よくわからない」と理解を放棄されてしまうことも。また、キャラクターのセリフまで説明調だと〝言わされている〟感が出るため、読者の没入感を損なう恐れがある。

<4>展開が遅い
心理描写や世界観を丁寧に描くことはとても重要。だがそこにページ数を割きすぎるとテンポが悪くなり、ストーリーが進まなくなるのもよくある失敗だ。序盤で読者の心をつかんだとしても、だらだらと動きがない展開が続くとすぐに飽きられてしまうだろう。

<5>お色気・下ネタ頼り
ギャグ漫画やラブコメにおいて、お色気・下ネタは強い武器になる。しかし諸刃の剣でもあり、それだけに頼っているとすぐにマンネリ化してしまう。過剰な女性キャラの露出や下ネタの連発は、引き出しの少なさや中身の薄っぺらさを露呈しているようなものだ。

<6>オマージュが多すぎる
名作のオマージュは近年増えつつある表現だが、あまりにも別作品に似ていると人気は出づらいだろう。徐々に小ネタを盛り込んでいく程度なら問題ないが、1話目からオマージュを連発すれば二番煎じの作品にしか見えない。人気が出始めたあとに過度なオマージュが判明すると、盗作扱いされたり、「作者が自分で考えることを放棄した」と思われて人気が急落するリスクも。

<7>面白い部分を出し惜しむ
物語の構成でもっとも重要なのは、起承転結の「転」にあたる部分。このパートを引っ張りすぎると、読者が先に興味を失ってしまうかもしれない。連載終了が決定した直後に、新要素や新キャラがドバドバ出始めるのは打ち切り漫画ではよく見る光景。最初からその要素を出せば面白くなったのに…と、残念な気持ちになってしまう。

<8>キャラクター設定に難アリ
登場人物の魅力が足りないのも、打ち切り作品の典型例。外見の魅力だけで内面が空っぽだったり、生い立ちや性格に共感しにくかったりすると、人気を失いがちだ。また、キャラクター設定の矛盾も気をつけるべきポイント。「IQ180」の知的キャラが読者よりも知能が低い、強キャラなのに噛ませ犬になる…など、描写に矛盾があると読み手が白ける原因となる。

<9>ニッチ・場違いなテーマ
打ち切り漫画の中には、根強いファンを生み出す作品も。そうした漫画にありがちなのは、作者のこだわりが強すぎて一般読者は振り落とされる…という特徴だ。また掲載誌と作風が大きく異なっている場合は、たとえ良作でもしかるべき読者に発見されないまま打ち切られてしまうことがある。

<10>作者に向いていない作風
編集部の指示によって、作者が自分に向いていない題材を選ぶケースは多い。たとえばSF作品なのに科学的な説明がでたらめ、ミステリーなのにトリックが穴だらけ、料理漫画なのに料理がマズそうなど、挙げていけば枚挙にいとまがない。いくら売れ線のテーマであっても、作者が上手に扱えなければヒット作は生まれないので、身の丈にあった題材を選ぶべきだ。
 
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ここのところずっと「涼宮ハルヒ」シリーズを読み続けていたが、「驚愕(前後編)」で一応終わりのようだ。と言うか、その後は出ていないのではないか。
「驚愕」の後書きに書いてあったが、その執筆段階からかなりスランプ状態だったようだ。
で、「驚愕」の内容も、かなり無理に書いた印象がある。話の中心の出来事がかなり意味不明で、説明も曖昧である。まあ、未来人の藤原が時間改変をしようと企んで、そのためにハルヒの殺害を企図した、みたいな印象だ。問題は、そこにハルヒ自身がほとんど出て来ないことで、結局キョンが完全に主役である。世界を変え得る神にも等しいハルヒの能力が他者によって奪えるとか、ハルヒ自身を簡単に殺せるというのが実に理不尽な印象だ。
まあ、「自分が神であることに無意識な神」というのが「涼宮ハルヒ」物語の最大のキモではあるが、ハルヒを害する計画を立てている連中が、なぜハルヒ自身と接触せずキョンとしつこく交渉したり脅したりするのかが分からない。その説明がほとんど無いのである。明確に、ハルヒの無意識を動かす最大要因がキョンであるから、と説明すればいいのだろうが、そうすると、「キョンの一人語り」という設定ではやりにくかったのだろうか。
まあ、いずれにしても、ハルヒシリーズの中では一番、出来が悪い。個々のキャラの性格もほとんど活かされていないし、国木田など、キャラ自体が「違う」印象だ。ここまで自己言及するキャラではなかったと思う。谷口と九曜がかつて付き合っていた、という設定もあまり生きていない。何より、SOS団のメンバー、特に長門有希がほとんど活躍しない。だから、キョンが駄弁を延々と垂れ流すだけになっている。
まあ、作者自身が、飽きたのだろう。
要するに、同一人物たちの並行世界をふたつに分けて描写して、最後に統一するという「仕掛け」だけが先行して、肝心の「物語」がいい加減になった印象だ。
ついでに言えば、「驚愕」の中でハルヒが驚愕する場面はほとんど無い。驚愕するのはキョンだけだ。むしろ、前作の「分裂」をこちらの作品の題名としたほうが内容には合っている。

以上、ケチばかりつけたが、このシリーズが、ライトノベルの金字塔であるのは疑いがない。大いに楽しく読ませてもらった。



この前から、何か小説を書きたいという漠然とした欲求はあるのだが、案が何ひとつ出てこない。その原因を考えてみる。

1)どういう案であれ、すべて既に書かれた作品の焼き直しでしかないという気持ちがある。
2)小説の骨子となる「キャラ」や「事件」を考えること自体に空しさを感じる。
3)現実についての知識が大きく不足しているので、面白い事件を考える能力がない。

とすると、マルキ・ド・サドの哲学的小説かヴォルテールの「カンディード」のような「コンデンス・ノベル」くらいしか書けるものはなさそうである。
多くの作家が、晩年には創作能力を失うのは、フィクションへの関心を無くすからだろう。
しかし、私の場合は、世界を哲学的に把握し理解したいという欲求はまだあるし、それを考察することはまさにレジャー(余暇の満足できる過ごし方)になると予感している。
ただ、人間の愛憎や感情の衝突から生まれる「事件」を扱うのは、かなり面倒くさいし、おそらく私の手に余る。そこで、サドかヴォルテール式の小説が私には向いていると思うわけだ。
「魔群の饗宴」を書いてから、その後に何か書きたいと思ってはいるが、まったくアイデアが出ない。まあ、単なる趣味だから無理に書く必要は無いが、まったく無為に日月を過ごすのも、少し気が飢える。もちろん、基本的にはあらゆる趣味は単なる時間つぶしだが、創作は、趣味の中では有益性が高いような気がするわけだ。誰かがその創作を読んで面白いと思えば、誰かの人生の一瞬間を充実させるメリットはあるのだから。
昔読んだ小説や未読の小説を読むのも面白い時間つぶしだが、何かを作っている時の充実感は、それとは少し色合いが違う。下手な創作でも、そういう充実感はある。

私は山田風太郎という作家を、作家としてより「観察者」として高く評価しているのだが、彼の小説自体は、読んだ後に「読書の充実感」が無いのである。つまり、それによって自分の人生に何かが加わったとか広がったという感じが無い。暇つぶしとしては実に優秀な小説ではあるが、人生の残りが少ない老人としては、「時間潰し」をしていられないという焦燥感があるから、彼の小説を虚心に味わうことができない。
そういう「時間つぶし」をするよりは、たとえばブログに雑文を書くほうがマシな気がする。それは、少なくとも「自分自身の発見」にはなるからだ。何かを書くことは、その問題(ネタ)自体を深く観照することであり、それは自分自身の脳(心)を観照することである。
甘い考えではあるが、ある瞬間に、何かの凄い発見をする可能性というのは、死ぬまで「可能性としては」あるわけだ。そういうワクワク感が、創作や思考作業にはある。それは、受動的な娯楽では得られないのだ。
トーマス・マンの「魔の山」を読み始めて、最初はわりと面白く思ったのだが、些末的に思える描写があまりに長々と続くので読むのをあきらめた。つまり、作中の描写というのは、読者に「別の人生」を生きさせる効果を持つので非常に重要なのだが、自分の興味の持てない描写が続くと読者の忍耐力が続かないのである。冒頭の旅行の情景描写はまだいいが、主人公の幼時の思い出や心理、主人公の祖父の描写など、私には興味の持ちようが無い。つまり、主人公への共感や一体化ができてない状態であまりにその周辺の些末な描写がなされると、「俺に何の関係がある」となってしまうわけだ。私の想像だが、こういう細密描写というのは(読んだことはないが)プルーストあたりの悪影響ではないだろうか。確かに情景描写やそれに随伴した心理描写というのは近代文学の「ネタ」ではあるが、小説を読む側は、何よりも「面白い出来事」を読みたいのである。つまり、何かの事件が起こらないと読む意欲や興味が空中に消えてしまう。「魔の山」と「悪霊」の巨大な断層はそこにあると思う。普通人の心理など、普通人である読者は最初から分かっているのだから、そんなものは読みたくもないはずだ。もちろん、高い地位にある人間が実は平凡そのものの人間で、平凡人の心理で動くという、「パルムの僧院」の描いた真実は、逆に面白いわけだが、そこでもやはり「事件」があり、事件に伴う激情があるから面白いのである。
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