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ウィキペディアから転載。
どのあたりを話の舞台および時期にするか。
また、日本人(明治政府樹立により日本を脱出した武士)を出すかどうか。

(以下引用)


北西部の新疆(現・新疆ウイグル自治区)では、ヤクブ・ベクが清朝領内に自治権を持つ領主を蜂起させ新疆へ侵攻、同地を占領した(ヤクブ・ベクの乱)。ロシアも1871年、新疆に派兵しイリ地方を占領した。漢人官僚の陝甘総督左宗棠により、ヤクブ・ベクの乱は鎮圧され、最終的に曽国藩の息子である曽紀沢の手によって、1881年にはロシアとの間で不平等条約のイリ条約を締結した。イリ界約に基づき、イリ地方のうちコルガス川以西はロシアが併合しセミレーチエ州に編入した。カシュガル条約パミール高原より西をロシアに割譲し(外西北)、現在の中国と中央アジア諸国との国境線が形成されていった。これに対し、清は1884年新疆省を設置すると伴に旗人のイリ将軍らの施政権を削り、陝甘総督甘粛新疆巡撫中国語版が軍事行政を管轄する事となり内地化された。ロシアは1892年にパミール高原に侵攻しサリコル山英語版以西を条約無しで併合している。

1854年冊封国暹羅(シャム)が朝貢を廃止すると共に不平等条約のボーリング条約を結んだ。1872年、日本の琉球処分により清と薩摩藩の両者に朝貢していた琉球は、日本に合併された。1884年インドシナ半島植民地化を進めるフランスに対抗し、対越南ベトナム)宗主権を維持しようとして清仏戦争( - 1885年)が起きたが、清仏天津条約によって冊封国越南はフランスの植民地となった。1886年緬甸(ビルマ)は3度目のイギリス軍の侵略を被り滅亡した。清への臣従を拒む勢力が擡頭した朝鮮に対しては、宗主国としての内政権を揮い壬午事変1882年)、甲申政変1884年)を鎮圧したが、1894年日本が起こした甲午改革では、鎮圧を企図したものの日清戦争( - 1895年)で敗北し、下関条約によって遼東半島および福建台湾省中国語版の割譲と朝鮮が自主国であることを承認させられ、建国以来維持していた李氏朝鮮に対する広範な支配権も失った(ただし朝鮮・大韓帝国における清領租界は日韓併合後も清国が確保している)。

「眠れる獅子」と言われた清が日本にあえなく敗北する様子を見た欧州列強は、日本が課した巨額の賠償金支払債務に目をつけた。まずフランス共和国ドイツ帝国ロシア帝国はいわゆる「三国干渉」を通じて日本に遼東半島返還を迫るとともに代償として賠償金の大幅な増額を薦めた。この事による清の財政悪化に乗じて欧州列強諸国が対日賠償金への借款供与を申し出て見返りとして租借地などの権益の縄張りを認めさせていったのが、1896年から1899年にかけての勢力分割(いわゆる「瓜分」)であった。満洲からモンゴルをロシア、長江流域をイギリス山東省をドイツ、広東省広西省をフランスが勢力圏とした。同じく、イギリスは九龍半島香港総督管轄)と威海衛、フランスが広州湾、ドイツが青島膠州湾租借地)、ロシアが旅順大連(ダーリニー)関東州極東総督ロシア語版管轄)を租借地として、それぞれ海軍基地を築いて東アジアの拠点とした。しかもロシアは賄賂をもちい露清密約東清鉄道附属地を手に入れた。アメリカ南北戦争による国内の混乱から出遅れたため、中国市場は全ての国に平等に開かれるべきだとして、門戸開放宣言を発しつつ国際共同租界設置に参加した。

李鴻章左宗棠海防・塞防論争を契機として、技術面だけの洋務運動に限界が見えてくると、政治面についても議論が活発になり、康有為梁啓超ら若い知識人が、清も立憲君主制をとり国政の本格的な近代化を目指す変法自強運動を唱え始めた。彼ら変法派は光緒帝と結んで1898年一時的に政権を奪取した(戊戌の変法)が、西太后率いる保守派のクーデターに遭って失脚・幽閉された(戊戌の政変)。その後、西太后は愛新覚羅溥儁(保慶帝)を皇帝として擁立するも、保慶帝の父が義和団の指導者であるため強い反発を受け、3日で廃された。

1899年、外国軍の侵略や治外法権を持ち横暴の目立つキリスト教会・教徒の排撃を掲げる義和団が蜂起し、「扶清滅洋」をスローガンに掲げて外国人を攻撃したが、次第に略奪を行う暴徒と化した。翌1900年西太后はこれに乗せられて列強に宣戦布告したが、八カ国連合軍に北京を占領され、外国軍隊の北京駐留を認める北京議定書を結ばされ清の半植民地化は更に進んだ。

その後、西太后の死亡によって清朝政府は漸く近代化改革に踏み切り、1905年科挙を廃止、六部を解体再編し、1908年欽定憲法大綱を公布して憲法発布・議院開設を約束し、1911年5月には軍機処を廃止して内閣を置いた。しかし、慶親王内閣が「皇族内閣」と批判されて、清朝は求心力を取り戻せず、漢民族孫文らの革命勢力が中国などにおいて次第に清朝打倒運動を広げた。10月、漢民族による武昌での武装蜂起をきっかけに中国で辛亥革命が起こった。モンゴルにおいても、12月に外藩蒙古の中から独立運動がおこった(モンゴル国)。ここに清は完全な内部崩壊を迎えた(但し満洲とチベットでは蜂起が起こっていない)。

1912年1月1日、中国の南京中華民国が樹立された。清朝最後の皇帝、宣統帝(溥儀)は2月12日、正式に退位し、ここに清は276年の歴史に幕を閉じ、完全に滅亡した。











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とりあえず、清末の中国の主な事件を某サイト(甲南大学か)から転載。
大きな国家的事件は背景になるだけの予定なので、もう少し庶民生活が知りたい。





 この部分は、社会主義中国が誕生するまでの歴史的背景を概説した部分です。中華人民共和国の建国前に、中国がどのような状況であったかを知っておくための「読み物」の部分です。「中国経済」とは直接関係ありませんが、時間的に連続した視野で中国を見ることは大切だと思います。


1-1-1 第一次アヘン戦争
当時の広州は日本の長崎と同じように、中国の唯一の貿易港でした。ただ、長崎と違い貿易相手国を特定はしていませんでした。
イギリス(東インド会社)は中国からお茶を輸入していましたが、中国には輸出するものがなく、イギリスの貿易赤字でした。そこで、イギリスは販売が禁止されていたインド産のアヘンを中国に「密輸」して貿易を均衡させていました。
しかし、アヘンの氾濫のよる中毒患者の激増に、社会が混乱します。清朝政府は1840年に欽差大臣・林則徐を広州に派遣し、アヘンの取り締まりにあたらせました。
林則徐は広州のイギリス貿易商からのアヘンの没収を決定し、実行に移します。「アヘンは取り扱わない」という誓約書にサインしない限り貿易を許可しないという方針に対して、イギリス側が逆切れし、戦争になります。これがアヘン戦争です。

アヘン戦争
アヘン戦争
(毎日新聞提供)
近代的な兵器を持つイギリスを前に清朝の軍隊は歯がたたず、道光帝は講和します。戦後処理のために「南京条約」と「通商章程」が結ばれ、清朝は、没収したアヘン代金を含めた賠償金支払い、香港の割譲、広州以外の4港の開港、ならびに実質的な治外法権を認めました。
その後、類似の内容の条約をアメリカ(望厦条約)、フランス(黄埔条約)と結び、中国の欧米諸国による植民地化が始まりました。
1-1-2 第二次アヘン戦争
洪秀全が太平天国の乱を起こして、国内が大混乱しているときに起こったのがこの戦争です。先進国側は「アロー号事件」と呼んでいますが、これもアヘンがらみですので、中国では第二次アヘン戦争と言われることが多いようです。
1857年に中国船籍のアヘン密輸船アロー号が広州で臨検を受けて、イギリス人船長が逮捕されたことによります。その頃フランス人宣教師が別の犯人隠匿などの罪で中国政府に逮捕されたこともあり、両国政府は再び広州を攻撃したうえ、今回は天津にも艦隊を派遣します。
英仏の武力による威嚇に咸豊帝は講和します。結ばれた「天津条約」は、清朝の前面開国を意味し、外国人が自由に通商できるようになりました。また、清朝はアヘンの輸入も実質的に認めさせられました。
1-1-3 洋務運動
・列強との戦争に敗北し植民地が進む中で、2つの大きな流れがおこります。
(1) 科学技術や軍備を西洋化することによって、近代化しようとする動き。
清朝の漢民族の官僚である曽国藩・李鴻章らによって1860年ごろより推進された。彼らの改革は技術や軍備面での西洋化であったので「洋務運動」とよばれます。
しかし、それは、現中国の体制は維持しつつも、近代化の手段として西洋方式を採用しようとするものであったので、掲げたスローガン「中体西用」でした。
(2) 外国の干渉を排除し清朝を倒すことにより、民族国家を作ろうとする動き。
これは、政治体制の変革を求めるものです。その最初の表れは、満州民族の支配に対して自由平等を標榜した太平天国の乱(スローガンは「滅満興漢」)です。
また、民主化と民族の独立を勝ち取ろうとする孫文らの革命への動きも始まっていました。
こうした動きがちょうど日本の幕末・明治維新の動乱の時期と一致するのは、偶然ではありません。当時のアジア諸国が本格的に西洋文明との対峙を向かえて、いかに動揺していたかがわかります。
・1894年の日清戦争で清は日本に敗れます。洋務派の領袖である李鴻章が率いる北洋軍隊が壊滅すると、洋務運動的発想は勢いを失います。
日清戦争・黄海での海戦
日清戦争・黄海での海戦
(毎日新聞提供)
1-1-4 変法自強
そこで、清朝官僚である康有為・梁啓超らは、清朝を擁護しながらも体制(法)そのものを西洋化し、国家を強くするという「変法自強」運動を1895年に始めます。
しかし西太后を中心とする時代を読めない保守派に弾圧されてしまいます。彼ら保守派は、国を守るという意識がなく、自分の地位を守ることしか頭にありません。袁世凱(李鴻章の子分)が変法派を裏切り、西太后に寝返ったためだといわれています。西太后は、「変法自強」に好意的であった光緒帝を幽閉し、変法派を粛清します。これが、1898年のことですので、その干支から戊戌政変といいます。
ちなみに、光緒帝が幽閉されたのは、明治維新では日本のいわば変法派であった伊藤博文との会談直後であったのも歴史の因縁を感じます。
西太后
西太后
(毎日新聞提供)
これを最後に清朝を擁護しながら、中国を改革しようとする空気はなくなり、流れは、反清朝、反満州民族、革命へと動き出します。
1-1-5 義和団の乱
「変法自強」運動が失敗に終わったころ、反キリスト教、反欧米列強を掲げた宗教集団である義和団が山東省で暴動を起こし、やがて北京に入城します。彼らのスローガンは「扶清滅洋」でしたので、清朝の反動政権は彼らを歓迎したばかりか、こともあろうに、欧米列強に戦いを挑みました。
しかし、自国民の保護を名目に、列強八カ国連合軍(含む日本)が北京に進駐し、義和団を鎮圧します。このあたりから日本は中国への影響力を強め、反対に、清朝政府は全く当事者能力を失ってゆきます。
1-1-6 辛亥革命
孫文は1905年に、東京で反清朝組織を糾合した「中国革命同盟会」を結成します。政治目標は民族主義、民権主義、民生主義よりなる「三民主義」でした。
1908年に西太后と光緒帝が相次いで死にます。そして、次の皇帝が「ラストエンペラー」と知られる宣統帝です。皇帝は三歳、その父醇親王(光緒帝の弟)も25歳と若い政権だったので、実権は直隷総督であった袁世凱が握ります。
満州族は満州地方の地主となり、その年貢で生活していましたが、日露戦争の戦乱で農地は荒れ、その生活基盤を失っていました。漢民族である袁世凱が実権を握ったのもこういう背景があります。
孫文は1911年に武漢で武装蜂起し、それに呼応して中国南部の各省は相次いで独立を宣言します。この武装蜂起をその年の干支から「辛亥革命」と呼んでいます。

孫文
孫文
(毎日新聞提供)
1-1-7 袁世凱時代
もはや清朝の軍隊は袁世凱の軍隊です。袁世凱の軍隊(北軍)と革命同盟会の軍隊(南軍)の全面戦争の危機となります。しかし、内乱を避けたい孫文は、袁世凱に譲歩し、彼を臨時大統領とすることでで、事態の収拾を図ろうとしました。
1912年に宣統帝が退位し、袁世凱が大統領となり、国家名を「中華民国」とします。日本では明治天皇の崩御、大正天皇の即位の年です。
しかし、革命の意味など理解しない、袁世凱はと大統領と皇帝の区別もつかず、独裁色を強めます。孫文はこれに対抗するため、小会派の集まりであった「同盟会」を「国民党」改組します。
ついに、1915年には袁世凱は共和制を廃止、自ら皇帝となり洪憲と名乗ります。しかし、各地方はこれに猛反発する中、翌年に袁世凱は死亡。中国は、南部は孫文を中心とする国民党政府、北部は袁世凱の部下であった軍人(軍閥政権)たちが割拠する分裂状態となります。


「青天白日記」の構想を少しずつ考えてみたい。
まず、舞台を清朝末期にしたのは、「国が滅びる時」のアナーキズムと表面的秩序の相剋が事件を作る可能性が高いからだ。そして、西洋諸国、特にイギリスという明白な敵と、庶民にとっては政府そのものも敵である、ということから「対立関係」が作りやすい。
主人公が医者である、というのは、その技能が自分自身のサバイバルの武器になり、人々から依頼を受け信頼される、というメリットからだ。そして、当時は医者になるのは簡単で、医者だと自称すればそれだけで医者扱いされた時代である。高位高官の家にでも庶民の家にでも入れ、歓迎されるというのも、話の進展に都合がいい。主人公は漢方と西洋医学の両方に通じている、とする。


登場人物、特に何度も出てくる人物の名前を、中国風だが覚えやすい名前にすること。
これも思いつきで、「老残遊記」を元ネタにした小説を考えている。主人公は医者である、という点は踏襲しようと思う。諸国を漫遊しながら、不正な犯罪を解決していく、という話。水戸黄門パターンだ。主人公の親友に、中央政府の高官がいる、という形にしたい。主人公は原作では老人だと思うが、改変作ではまだ若い年齢にする。女も嫌いではないし、アヘンも時には吸う。いざとなれば犯罪もするが、それは法では裁けない存在を罰するためである。

題名は「青天白日記」とする。

主人公は石光雲という名。32歳。

舞台は清朝末期の中国。
プロフィール
HN:
冬山想南
性別:
非公開
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