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#14   議論の作法

 

無知な人間が、知識のある人間と議論をすることは可能だろうか。正しいのはこちらだという確信を持ちながら、しかも相手を論破する知識や言葉を持たない場合、議論で勝つことはできるだろうか。実は、これがかつての学生運動の指導者たちが直面した問題だった。彼らがこのことを意識していたかどうかはわからないし、わかっていても認めないとは思うが、彼らはこの問題を無意識にでも感じていたはずである。なぜなら、彼らの多くは、多くの知識人や大人に比べれば、圧倒的に無知だったはずだから。

彼らの出した結論は、相手の言うことは一切聞き入れるな、一方的に自分の言いたいことだけを言え、というものだった。相手が何を言おうと、「ナンセーンス」の一言で葬り去れ、ということだ。なるほど、これなら議論に負けることはありえないし、自分の言いたいことを表明することだけは、少なくともできる。この方法が一般に知られると、我も我もとこの方法を使いだしたことからも、この戦法の有効さはわかる。この戦法を考えた人間は頭がいい。しかし、本質的には馬鹿である。

議論をする目的は、有益な結論を出すことであり、勝ち負けのためではない。学生運動の「ナンセーンス」戦法は、局地戦での勝利のために大局を見失い、一般大衆からあきれられてそっぽを向かれる結果を招いただけであった。要するに、自分の体面だけを考えた、このような愚かな指導者たちのために、学生運動は失敗したのである。

 

 

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#12   文化と野蛮

 

文化とはためらいであり、立ち止まることである。近代文明の機能主義、効率主義は文化ではなく野蛮にすぎない。たとえば性欲と性交の間にはさまるためらいが恋愛であり、恋愛が文化なのである。文化とは人間の作り上げた様々な不要不急の装飾物であり、余剰であるが、それが人間を動物から区別しているのだ。今の世の中は、効率を追及するあまり、文化を失いつつある。「産湯を捨てようとして赤ん坊まで流してしまう」ようなものだ。

もしも物を食うことが栄養摂取の意味しかないのであれば、煮たり焼いたりする必要などない。生のままで食えばよい。煮たり焼いたり、様々に手を加えるところが人間の文化なのである。もっとも、手の加え方が異常に込み入ってきて不健康なものになってきた場合、それを退廃というのだが。

近代の産物を我々は文化的だと錯覚する傾向がある。その中には文化というよりは野蛮への退行だと思われるものもある。機能主義や効率主義は、その産物は文化的かもしれないが、主義自体は野蛮なものである。これらは結局、不要物、無駄の切り捨てであり、人間の生活をかえって非人間的なものにしていることが多い。そんなに機能や効率が大事なら、いっそ人間は全部ロボットに切り替えるか、生産的でない老人や病人は屠殺して食料にでもしてしまうのがよっぽど「効率的」だろう。まるでスウィフトみたいな発言だが、最近の生産至上主義の世の中は、いずれスウィフトのジョークを実現させるかもしれない。

 

 










 

#13   学生運動の言葉

 

今の日本で政治について考える学生は僅かだろうと思うが、学生たちが政治にまったく無関心になっているのは、日本がエネルギーを失い、緩慢に自殺しつつあることを示しているのではないだろうか。といっても、私自身はかつての学生運動には恐怖と嫌悪感しか持っていなかった人間である。若者というものは、大半は実は無知で臆病なものだろうが、少なくとも私はそうだったのだ。学生運動などして政府に睨まれ、一生を棒に振るなんて御免だと思っていたのである。実際には、体制側に見事に転向した人も多いのだが。

今にして思えば、学生運動に加わった人々は、やはりその当時は真剣で誠実で勇気があったのだ。たとえわけもわからず運動に加わっていた物好きや野次馬や、鼻持ちならない気障なロマンチストがその中にいたとしても、それで全体を判断すべきではない。

しかし、彼らの運動は、大衆の支持を得られず消えていった。その第一の理由は、学生運動の持つ暴力性のイメージが嫌われたことであり、もう一つは彼らの言葉が大衆には通じなかったことである。長い間の支配層の洗脳によって、共産主義に対して潜在的な恐怖感を持っている大衆には、難解なマルクス主義用語をちりばめた演説は嫌悪感しか抱かせないということに、なぜ彼らの誰一人として気づかなかったのか、不思議でならない。私は共産主義に与する者ではないが、日本が今のように腐敗したのは、学生運動の失敗によって人々が社会や政治の変革をあきらめたことが原因の一つだと残念に思っている。

 






#11   ザイン、ゾルレン、シャイネン

 

世の中には、覚えておくと思考の整理に役に立つ言葉がある。ザイン、ゾルレン、シャイネンもその一つだ。ザイン(存在すること、現実存在)とゾルレン(在るべきこと、理想や目標)はよく知られているが、シャイネンは私も最近知ったばかりである。シャイネンとは、「仮想すること、そうであるかのように見なすこと」のようだ。鴎外の「かのように」が、すなわちシャイネンであろう。「かのように」は、彼の処世哲学で、世の中の解決困難な諸問題について、とりあえず一つの立場をとって当座の答えを出しておくというものである。たとえば絶対神の存在について確信が持てないなら、とりあえず自分の今の気持ちに近い説を拠り所として、神がいる「かのように」、またはいない「かのように」振る舞うのである。

ザインとゾルレンの区別ですらつかない人間も世の中には案外多いもので、特に若い人々の自己認識はザインとゾルレンがごっちゃになって訳がわからなくなっていることが多い。多少年を取った人ですら、一攫千金を夢見て会社を作っては潰し、あるいはギャンブルに狂ったりするのは、これは現実(ザイン)を見ずに、あらまほしき状態(ゾルレン)だけを夢想しているのである。(ただし、哲学用語のゾルレンはもっと高尚な意味だが)

我々の人生判断のほとんどは、実はシャイネンによっている。それがわかれば我々はもっと謙虚になるはずで、そのことを知らない人間が狂信に走り、正義を振り回すのである。

 

 






#10   差異は金なり

 

およそ同一性からはエネルギーは生まれないものである。昔、ちょっと売れた本の題で、「時差は金なり」というものがあったが、時差に限らずあらゆる差異は金になると考えていい。男と女の差があるから性差を利用した様々な産業が生ずる。この世が男だけ、女だけならそもそも服さえ着ないだろう。国と国との間に文化や産業の差があるからこそ貿易がおこなわれ、それが一つの産業となる。不平や不満があるということは、そこに一つのビジネスチャンスがあるという事なのである。なぜなら、不平や不満は、あるべき状態と現在の状態との差異から来るものだからだ。大前研一のある本によれば、これからの事業機会として重要なのは、①ライフスタイルの格差、つまり欧米先進国と日本の生活格差を埋めること、②内外価格差を利用すること、③業界の常識を疑うこと、④「売った後」をさらに事業として継続すること、等である。このうち①と②は、差異が事業機会であることを述べたものだ。

人生を一つの事業と考えるならば、さまざまな差異に対して不平不満を抱いて文句を言ってばかりいるのではなく、その差異を金にする、つまり自分の人生を豊かにすることを考えるのが賢い人間というものだろう。考えてみれば、我々の人生そのものが、誕生から死までの時差の中に生じた一つのエネルギーなのであり、差異のエネルギーが人生の原理であるのは当然のことである。

 

 




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