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「行けよ」彼の声は彼自身にも奇妙に響いた。彼は彼女を見た。彼女の唇の動くさま、彼女の頬骨の曲線、彼女の二つの眼、彼女の髪が額から耳に流れ、首筋にかかるさま。
「本気なの? そうよね。ああ、あなた何てやさしいの」彼女は言った。「あなたは私にはもったいないくらいいい人だわ」
「帰ってきたら、どんな具合だったか全部話してくれ」彼の声はとても奇妙に響いた。彼はそのことに気づかなかった。彼女は素早く彼を見た。彼は何かを考えこんでいた。
「あなた、私に行ってほしいと本当に思ってる?」彼女は真剣に聞いた。
「ああ」彼は真面目な調子で答えた。「すぐにな」彼の声は前とは変わっており、彼の唇は乾いていた。「今すぐに」彼は言った。
彼女は立ち上がり、そそくさと出て行った。彼女は彼を振り返らなかった。彼は彼女が行くのを見ていた。彼は、彼女に行けと言った時とはまったく見かけの違う人間になっていた。彼はテーブル席から立ち上がり、二枚の伝票を手にしてバーコーナーに向かった。
「僕は違う人間になったよ、ジェームズ」彼はバーテンに言った。「外側は同じだけど、中身が違うのが見えるかい」
「どういうことです?」ジェームスは言った。
「悪徳」日焼けした若者は言った。「悪徳というのは奇妙なものだ、ジェームズ」彼はドアの外を見やった。彼は彼女が通りを歩み去っていくのを見た。カウンターの向こうの鏡に映る自分の顔が、自分のまったく知らない別の男であるのを彼は見た。カウンター席にいた二人の客は彼に席を譲るために立ち上った。
「まあ、そこへおかけになったらどうです?」ジェームスは言った。
二人の客がさらに少し横に移動したので、彼は座りやすくなった。若者はカウンターの後ろの鏡に映る自分の顔を眺めた。「僕は、自分が違う人間になったと言ったんだよ、ジェームズ」彼は言った。鏡の中の顔は、その言葉が真実であることを示していた。
「いいお顔をしてます」ジェームスは言った。「とてもいい夏をお過ごしになったようですね」



「心の死刑宣告」了

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「ジェームズ」客の一人がバーテンに言った。
「とても元気そうにみえるね」
「あなたもとてもお元気そうです」バーテンは言った。
「古い顔なじみのジェームズ」もう一人の客が言った。「あなた太ったわね」
「それはヤバイですね」バーテンは言った。「なんで脂肪がついたやら」
「ブランデーのこと、無視しないでくれよ」(訳者注:ここは意味不明)最初の客が言った。
「はい」バーテンは言った。「大丈夫ですよ」
バーの二人はテーブルの二人を見やって、再びバーテンに視線を戻した。バーテンに向かう姿勢の方が心地よかった。

「そんな風な言葉を使わないほうが私は好きだわ」少女が言った。「そんな言葉を使う必要など無いじゃない」
「君は、それをどんな言葉で言ってほしいんだ?」
「言う必要など無いわ。どんな名前も付ける必要など無いわ」
「さっきのあれが、そいつの名前さ」
「いいえ」彼女は言った。「私たちはいろんな関わりがある。あなたも知っているでしょ。自分でもたくさんあるでしょ」
「そのことは繰り返して言う必要は無いよ」
「あなたに説明するために言ってるの」
「分かった」彼は言った。「分かった」
「あなたの考えているのは全部間違い。私には分かる。全部間違い。でも、私は戻ってくるから。戻ってくると言ったでしょ。すぐに戻るから」
「いや、戻らないね」
「戻るわ」
「いや、戻らない。俺のところにはな」
「後で分かるわ」
「そうさ」彼は言った。「それが最悪なところだ。君は思う通りに行動するだろう」
「もちろんよ」
「それなら、行きな」
「本当?」彼女はその言葉を信じられなかったが、彼女の声は幸福そうだった。

「証明しろなんてこれまで言ったことないじゃない。そんなの、優しくないわ」
「君は面白い子だね」
「あなたは違うわ。あなたは立派な人で、私の心を粉々にし、あなたから離れてしまいたくさせる」
「ぜひ、そうすべきだな。当然だ」
「ええ」彼女は言った。「そうすべきね。あなたの言う通り」

彼は何も言わなかった。彼女は彼を見て、また相手を求めて腕を差し出した。バーテンはバーの中のずっと離れた隅にいた。彼の顔は白く、ジャケットも白かった。彼はこの二人を知っていて、若いきれいなカップルだと思っていた。そして、そうした若いきれいなカップルが別れ、新たな、さほどきれいでもないカップルが誕生するのを何度も見てきた。彼はこのカップルのことは考えておらず、ある競走馬のことを考えていた。もう半時間も、彼は前の通りを横切って、その馬がレースに勝ったかどうか見に行きたいと思っていた。

「私に優しくして、あそこに行かせてくれることはできないの?」
「君は、俺がどうするつもりだと思う?」

二人連れの客がドアから入ってきて、バーの方に行った。
「いらっしゃい」バーテンはオーダーを取った。

「すべてが分かっても、あなたは私を許さないの?」少女は尋ねた。
「いやだね」
「あなたと私のこれまでのすべての事も、お互いの理解に何も役立たないの?」
「『売淫は恐るべき容貌をした醜悪な怪物である』」若い男は苦い口調で言った。「『それは必要に応じて何者かに形を変えるが、目には見えない。そしてその何者かを、何者かを、我々は抱擁する』」彼はその後の言葉を思い出せない。「引用できないや」
「売淫なんて言わないで」彼女は言った。「不潔な言葉よ」
「売春」彼は言った。





「慰めてくれなくてもいいよ」彼は言った。
「御免なさい、って言っても無駄かしら」
「無駄だね」
「あの事が、どういうことなのか言っても?」
「聞きたくないね」
「あなたをとっても愛しているの」
「そうだな。君があそこに行くことでそれが証明されるさ」
「御免なさい」彼女は言った。「どうしても理解してもらえないのね」
「理解しているさ。理解しているのが問題なんだ」
「そう」彼女は言った。「もちろん、あなたには気分のいい事じゃないわね」
「確実にね」彼は、彼女を直視して言った。「これから先ずっと、俺は理解しているさ。昼も夜もずっとな。特に夜には一晩中考えるだろうよ。俺は理解しているよ。その点に関しては君の心配は要らないさ」
「御免なさい」彼女は言った。
「その相手がもし男ならーー」
「言わないで。男のはずが無いでしょ。私を信用しないの?」
「面白いな」彼は言った。「君を信用する? ほんっとうに面白い」
「御免なさい」彼女は言った。「私の言えることは全部言ったわ。でも、私たちが信頼し合っていたら、そうじゃないふりをするのは無意味よ」
「いや」彼は言った。「たぶん、信頼など無いと思うよ」
「あなたが私を望むなら、私は戻ってくるわ」
「いや、そうしなくていい」
それから二人はしばらく黙り込んだ。
「あなたを愛していると言っても、信じてくれないでしょうね」少女は聞いた。
「どうしてそれを自分で証明しないんだ?」

今時の若い人はヘミングウェイなど読まないだろうから、彼の作品の中であまり知られていないものを、私が「超訳」してみようと思う。前に、「踊るドワーフ」でやったみたいな奴だ。知らない英単語は辞書を引くかもしれないし引かないかもしれない。おそらく原作の版権は切れていると思うが、切れていないかもしれない。まあ、わざわざ日本語訳まで調べはしないだろう。
作品は「THE SEA CHANGE」という、原書で5ページほどの短編で、日本語ではどういう題で訳されているかは知らない。「潮の変わり目」かもしれない。何ということもない若い男女の痴話喧嘩で始まる短編だが、その一方にとっては、まさに人生の潮の変わり目かもしれない或る出来事と、その周辺の日常的風景の対比の残酷さが面白い作品だ。
少し、内容を露骨に表しすぎる題名だが、「心の死刑宣告」という題名にしておく。「夏の終わり」というのも詩情があっていい。もちろん、「終わり」は季節の終わりだけではなく、別の何かの終わりも意味している。


   「心の死刑宣告」


「分かったよ」
若者が言った。「それでどうだい」
「いやよ」少女が言った。「できないわ」
「やる気が無いってことだろ」
「できないって言ったの」少女は言った。「そう言ったじゃない」
「そりゃあ、やる気が無いって意味だろ」
「いいわ」少女は言った。「何とでも好きなように取ればいいわ」
「そういう問題じゃない。俺はそうしてほしいんだ」
「しつこいわよ」少女は言った。

朝の早い時間で、カフェの中にはバーテンと、隅のテーブルで向かい合っている若い二人以外には人がいなかった。今は夏の終わりで、その二人は日に焼けており、パリの街では場違いに見えた。少女はツィードのスーツを着て、肌はなめらかな金褐色をし、そのブロンドの髪は短くカットされ、額の周りを美しく飾っていた。若者は少女を見た。

「あの女、殺してやる」彼は言った。
「お願い、やめて」少女は言った。彼女の腕はほっそりとし、日に焼けて美しかった。彼はその腕を見た。
「やってやる。神に誓ってな」
「あなたが不幸になるだけよ」
「ほかにやりようがあるか?」
「何も思いつかないけど、本気なの?」
「言っただろ」
「だめ、本当に、だめよ」
「自分でも分からないんだ。どうすればいいのか」彼は言った。少女は彼を見て、手を伸ばした。「可哀そうなフィル」彼女は言った。彼は彼女の腕を見たが、その腕に触れようとはしなかった。




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