私は、「天皇」という称号と「日本」という国名の使用は、任那の滅亡によって大陸に係累を失った大和朝廷王家(天皇家)が、故郷の喪失によって心細くなった自我の補強のために行った自賛表現だろうと考えている。任那滅亡が562年(欽明23年)としたら、確か欽明朝から「天皇」の称号と「日本」の呼称は始まったと思う(訂正:今、三浦朱門の「天皇」を見ると、「日本」の呼称は670年の新羅への日本の使者が自国をそう名乗ったのが最初らしい。つまり欽明朝ではないようだ。これは岡田英弘「日本史の誕生」にあるとか。)ので、この考えが裏付けられると思う。
この時から、皇室の朝鮮半島における日本の権益奪回とともに、中国(隋など)への傲慢な「対等外交」要求が始まるのである。
なお、仏教受容の政治思想的意味をぼんやり考えているが、未だ熟していない。要するに、仏教思想という、政治とまったく対照的な思想をなぜ日本の皇室が(自ら称する「神の子孫である皇室」と矛盾するにも関わらず)受け入れたのか、という謎だ。
もちろん、ローマ帝国におけるキリスト教認容と同じく、その政治的効果を考えたのだろうが、それがどういうものか、だ。ちなみに、皇室の人間にとって自分らが神の子孫などでないことはあまりにも当たり前の話で、それは「大衆向けプロパガンダ」にすぎないことは、皇室やその縁者には常識だったはずである。これを竹熊健太郎の言葉を借りれば、「顕教に対する密教」と言う。宗教内部の最高の階級の人間にとっては、その宗教がインチキであることは明白だ、ということだ。
この時から、皇室の朝鮮半島における日本の権益奪回とともに、中国(隋など)への傲慢な「対等外交」要求が始まるのである。
なお、仏教受容の政治思想的意味をぼんやり考えているが、未だ熟していない。要するに、仏教思想という、政治とまったく対照的な思想をなぜ日本の皇室が(自ら称する「神の子孫である皇室」と矛盾するにも関わらず)受け入れたのか、という謎だ。
もちろん、ローマ帝国におけるキリスト教認容と同じく、その政治的効果を考えたのだろうが、それがどういうものか、だ。ちなみに、皇室の人間にとって自分らが神の子孫などでないことはあまりにも当たり前の話で、それは「大衆向けプロパガンダ」にすぎないことは、皇室やその縁者には常識だったはずである。これを竹熊健太郎の言葉を借りれば、「顕教に対する密教」と言う。宗教内部の最高の階級の人間にとっては、その宗教がインチキであることは明白だ、ということだ。
中国史料における任那[編集]
- 『三国志』魏書東夷伝・弁辰諸国条の「弥烏邪馬」が任那の前身とする説がある。
- 広開土王碑文(414年建立) : 永楽10年(400年)条の「任那加羅」が史料初見とされている。
- 『宋書』では「弁辰」が消えて、438年条に「任那」が見え、451年条に「任那、加羅」と2国が併記される。その後の『南斉書』も併記を踏襲している。
- 『梁書』は、「任那、伽羅」と表記を変えて併記する。
- 525年前後の状況を記載した『梁職貢図』百済条は、百済南方の諸小国を挙げているが、すでに任那の記載はない。
- 『翰苑』(660年成立)新羅条に「任那」が見え、その註(649年 - 683年成立)に「新羅の古老の話によれば、加羅と任那は新羅に滅ばされたが、その故地は新羅国都の南700〜800里の地点に並在している。」と記されている。
- 『通典』(801年成立)辺防一新羅の条に「加羅」と「任那諸国」の名があり、新羅に滅ぼされたと記されている。
『太平御覧』(983年成立)、『冊府元亀』(1013年成立)もほぼ同様に記述している。
なお、宋書倭国伝によると、451年に、宋朝の文帝は、倭王済(允恭天皇に比定される)に「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」の号を授けたという。また、478年に、宋朝の順帝は、倭王武(雄略天皇に比定される)に「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭王」の号を授けたという。
『日本書紀』における任那[編集]
『日本書紀』(720年成立)崇神天皇条から天武天皇条にかけて「任那」が多く登場する。
- 崇神天皇65年と垂仁天皇2年の条は一連の記事で、任那と日本の最初の関係の起源を語る。
- 応神天皇7年と25年の記事のうち25年の条は『百済記』の引用である。
- 雄略天皇7年のあたりからかなり詳しい伝承がふえ、同天皇8年の記事では「日本府行軍元帥」の文字がみえ、倭の五王の三韓における軍事指揮権との関係が推察される。同21年の記事は有名な百済の一時滅亡と熊津での百済再建に絡んでの記事である。
- 顕宗天皇3年、阿閉臣事代が任那に赴いたこと、紀生磐宿禰が任那に拠って自立の勢いを示したことが見える。
- 継体天皇3年にも記事があり、同天皇6年の条は有名な「四県二郡割譲事件」の記事、同21年の条は「磐井の乱」に絡んでの記事である。23年、24年にも金官加羅の滅亡の前後をめぐる詳しい伝承がある。
- 宣化天皇2年、大伴狭手彦を任那に派遣した。
- 欽明天皇からはおびただしく記事が増え、ほぼ毎年任那関係の事件が見える。欽明2年(541年)4月の条に「任那」に「日本府」を合わせた「任那日本府」が現れ、同年秋7月の条には「安羅日本府」も見える。同天皇23年(562年)の条には、加羅国(から)、安羅国(あら)、斯二岐国(しにき)、多羅国(たら)、率麻国(そつま)、古嵯国(こさ)、子他国(こた)、散半下国(さんはんげ)、乞飡国(こつさん、さんは、にすいに食)、稔礼国(にむれ)の十国の総称を任那と言う、とある。この10国は562年の任那滅亡に近い最末期の領域である。
地理上、任那が朝鮮半島における日本に最も近い地域であり、重要な地域であったことに由来し、日本の史料が最も豊富な情報を提供している。これらの史料によると日本(倭)は、任那滅亡後に新羅に「任那の調」を要求しており、従来日本(倭)に対し調を納めていた事実が書かれている。
- 新羅による任那征服と推古朝の新羅征討
『日本書紀』によれば、飛鳥時代にも朝鮮半島への軍事行動が計画された。西暦562年、任那日本府が新羅によって滅ばされた。これを回復するための「征討軍」が推古朝に三度、計画され、一度目は新羅へ侵攻し、新羅は降伏している[20]。
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