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「大海人皇子(天武天皇)による天智天皇暗殺」説(井沢元彦「逆説の日本史」)をどう考えるか、どう扱うかというのは「剣と鏡」の中心部に関わる問題だが、これにイエスとした方が論理的な整合性は取りやすいようだ。
というのは、国際情勢との関連があるからだ。

671年6月:栗隈王(後に壬申の乱で天武に協力)の太宰府長官任命
同年11月:唐使郭務悰来日(日本と唐との同盟締結のためか)
同年12月3日:天智天皇死去(公式には病死。井沢は暗殺説)

この頃、新羅は唐との戦い(主に百済の遺臣を利用)の最中で、唐と日本が同盟を結べば国家存亡の危機になるので、その同盟を阻止するために、親新羅派の大海人皇子が皇位に就くことは非常に好都合であった。天智朝廷は百済からの亡命者が多く、反新羅が主流だったと考えられる。
なお、天智は狩りの途中で殺害され、遺体が見つからない(前掲書による)ため暗殺かどうかあやふやだったことが、大友皇子側の大海人皇子への対応が遅れた理由だったかと思う。
なお、天智天皇が即位した年に、新羅のスパイである坊主が草薙剣を盗んで逃走し、捕らえられた(?)事件があったことからも、新羅が天智天皇の「反新羅・親百済」姿勢に危機感と反感を持っていたのは確かだろう。

私としては、中大兄皇子と大海人皇子は、ライバルであると同時にお互いの才能や力量を認め合った間柄だとしたいので、最後に天智暗殺の話が来るとなるとあまりに殺伐としてしまうのが難点である。

昨日の記事のカッコ内の補足が、いい加減な書き方をしたために変になったのだが、今、はっきりと「訂正」とした。ついでに書くと、「日本」の呼称が670年の新羅への遣使から始まったとすると、日本朝廷の「中華思想」(もちろん、日本を「中国」つまり中心の国とする中華思想だ。)の高まりを新羅は明確に把握しただろうから、天智朝廷への危機感も増しただろう。当然、親新羅の大海人皇子へのアプローチも強化されたと思う。壬申の乱の原因の半分くらいは、こうした国際情勢と関係があるのではないか。



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