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聖徳太子の仏教理解は仏教の本質に迫るものだったと私は思っているが、それは「世間虚仮唯仏是真」の言葉(特にその前半)がまさに仏教の本質だと私は思っているからだ。この目に映る世間の姿は我々の主観によってそう見えている、いわば一種の幻影であり、それを「虚仮」と言っているわけである。そして、自分が仏となって観る世界が真実の世界だ、ということだ。
ただし、これは「般若心経」による私自身の仏教理解であり、聖徳太子の頃に太子が「般若心経」を読んでいたとも思えないので、「三経義疏」から太子の仏教理解がどんなものだったか知ろうと調べてみると、太子の「三経義疏」については花山信勝が第一人者であるらしい。
実は私は中退した大学(東大ではない)で花山氏の講義を一度だけ聞いたことがある。当時の私の知識と頭脳ではまったく理解できない内容だったが、その講義も「聖徳太子と三経義疏」といった内容だった記憶がある。下の記述を見るとなかなかの大物で、そうした人物の実物を見たことがある、というだけでもいわば昭和の歴史の端っこに触れた経験かと思うので、書き留めた。
なお、私が実見した有名人として、浅草オペラの名歌手の何とかいう人がいたが、名前は失念した。これは「日劇ミュージックホール」の最後の公演に出演していて、その演出が黒テントの演出者の、これも有名人だった。東京にいると、現代の歴史の一幕に触れる機会がある、というのは大きなメリットである。これは私の若いころの話である。




花山信勝

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花山 信勝(はなやま しんしょう、1898年明治31年)12月3日 - 1995年平成7年)3月20日)は、日本の仏教学者浄土真宗本願寺派僧侶東京大学名誉教授

概要[編集]

石川県金沢市生まれ。第四高等学校卒、東京帝国大学印度哲学科卒。大学院で日本仏教史を専攻し、東洋大学教授、東京大学文学部教授、國學院大學教授等を歴任する。1935年昭和10年)、『聖徳太子御製法華経義疏の研究』で学士院恩賜賞を受賞。

1946年昭和21年)2月から巣鴨拘置所教誨師となり、東條英機ら七人のA級戦犯の処刑に立ち会い、その時の模様を『平和の発見-巣鴨の生と死の記録』に記した。東條は、「米国憲兵と一緒に合掌するのも仏縁だね」と笑っていた、と語った。なお被告の重光葵の手記『巣鴨日記』には、長期間の収監で精神的に消耗していた被告たちにとって、花山との接触はひとつの救いでもあった、という旨の記述がある。(『文藝春秋1952年昭和27年)8月号掲載、翌年に文藝春秋新社刊)

家族[編集]

長男の花山勝道は、金沢で浄土真宗本願寺派「宗林寺」の住職を務めた。

次男の花山勝友は仏教学者、武蔵野女子大学副学長を務めたが、父の後を追う形で同じ年に病没した。なお次男勝友や門下生達との座談会での回想が、『東方学回想 Ⅵ 学問の思い出〈2〉』(刀水書房、2000年)に収録。

著書[編集]

  • 『聖徳太子御製法華義疏の研究』 東洋文庫, 1933
  • 『聖徳太子の仏教』 仏教年鑑社, 1936
  • 『聖徳太子と日本文化』 日本文化協会、1937
  • 『日本の仏教 内閣印刷局』(国体の本義解説叢書), 1942
  • 『憲法十七条の精神』 厚徳書院, 1943
  • 『日本仏教』 三省堂, 1944
  • 『勝鬘経義疏の上宮王撰に関する研究』 岩波書店, 1944
  • 『白道に生きて』 北方出版社, 1948 (顕真叢書 ; 1)
  • 『平和の発見 巣鴨の生と死の記録』 朝日新聞社, 1949
    • 『「巣鴨の生と死 ある教誨師の記録」』 中公文庫, 1995
  • 『万世を照らすもの-仏教学徒の記録』 酣灯社, 1949
  • 『永遠への道 わが八十年の生涯』 日本工業新聞社, 1982
  • 『聖徳太子と憲法十七条』 大蔵出版, 1982
  • 『太平洋戦争とお念仏』 国際真宗学会, 1986



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