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下の記事とは別だが、古代においては、「日本版中華思想」というものがあり、それは近畿圏以外は野蛮人の国である、という意識である。その「近畿圏」というのがどのあたりまでかというのも、現在の近畿地方とは恐らく異なるかと思う。たとえば、和歌山半島から岐阜なども近畿圏と意識されていたのではないか。もちろん、近畿圏の周縁部という意識だろう。奈良盆地の都に住む宮廷貴族や皇族は、東や西(特に東)からの敵の襲来をいつも念頭に置いていたと思う。
現在の滋賀県なども近畿の周縁部という意識だっただろうから、天智天皇の大津京遷都は奈良盆地の豪族たちの強い反発を生んだと思う。織田信長の安土桃山城といい、滋賀に本拠地を置いたらロクなことはない、というのは、恐らく琵琶湖周縁は防御に適さない地形だからだろう。

なお、古代史ではやたらと遷都されているが、それを大変な事業だと思うのは「遷都」という言葉から来る錯覚で、古代には「都市」そのものは成立していないと思う。要するに、宮廷(今のアメリカならワシントンDC程度の規模だろう)の場所が移動しただけの話で、「都市」の引っ越し、つまり何万もの人が引っ越ししたわけではないだろう。皇族と、宮廷に地位のある一部豪族が移動しただけだと思う。平城京が出来て初めて本物の都市が生まれたのではないか。
本来的に、宮廷があるから都なのであり、居住民が多いから都というわけではない。明治維新で遷都令が出ていなくても、東京に皇居が移り、政府があればそこが都になるわけだ。都とはもともとは「宮の居所」だろう。
ついでながら、公務員は「みやつこ」つまり、「宮の子(宮に所属し、従う者)」である。この場合の「つ」は所属関係を表わす。「天つ風」の類だ。「子」が従属関係を示すのは儒教から来ていると思う。「家の子郎党」の「子」も同じ。




古代[編集]

飛鳥時代[編集]

奈良盆地を拠点とした大和政権は、7世紀初めには冠位十二階の制定などに見られるように国家としての体制を整備していった。7世紀半ば、大化の改新によって天皇中心の中央集権を進める皇太子中大兄皇子(後の天智天皇)は、朝鮮半島の百済が滅亡すると、百済復興を目的として、47,000人もの大軍を朝鮮半島に派遣した。しかし663年にと新羅の連合軍に白村江の戦いで敗北し、朝鮮半島における影響力を失った。その後、唐・新羅の日本列島侵攻が予想されたため、対馬や壱岐などの重要地域に防人や烽火を設置し、各地に山城が築かれた他、北九州の外交と防衛の拠点である大宰府には水城を設置して敵の侵攻に備えた。天智天皇の死後、皇位継承を巡って、671年に大友皇子大海人皇子の間に壬申の乱が発生した。1ヶ月に渡って近畿圏各地で戦闘が繰り広げられ、古代最大の戦争に発展した。このとき、大海人皇子は東海道東山道の諸国から兵を動員し、大友皇子側は東国と吉備筑紫(九州)に兵力動員を命じている。これらの兵力は歴史学で国造軍と呼ばれ、中央・地方の豪族が従者や隷下の人民を武装させて編成していた。

律令制と軍団の設立[編集]

古代軍団歩兵の復元。弓を構えている兵士は革製甲を装着している。福島県文化財センター白河館

白村江の戦いの敗北により、国防力の増強が必要となった。豪族の兵であった国造軍に変わり、国家が兵士を徴兵[7]、民政機構から分独立した[8]軍団[9]が組織されることとなった。律令制が本格的に導入されると軍事制度も整備され(軍防令)、中央官制の兵部省が設置され、徴兵を可能にする戸籍の整備が進んだ(正丁(成年男子)3人に1人が兵士として徴発される規定であった)。徴兵された兵士は各地に設置された軍団に配属された。原則としては現地勤務であるが、一部の兵士は宮中警備を担う衛士と九州防衛を担う防人となった。一個軍団の兵員数は二百人から千人の間であるが、千人を超える例も存在したと考えられている。軍団は3~4郡ごとに設置されており、九州では各国に2~4個軍団(1600~4000人)が置かれていたことが記録に残っている。軍団兵士の数は20万人に達したとの見方もある[10]。但し、軍団の兵士は交代で勤務しており、通常の兵力は定数の数分の一であった。なお蝦夷と対峙する陸奥国には、軍団とは別に鎮守府に属する鎮兵と呼ばれる固有の兵力が常設配備されていた。鎮守府は始め多賀城(現宮城県多賀城市)におかれ、後に胆沢城(現岩手県奥州市)に移された。多賀城は防御のために周囲を長大な柵で囲まれていたが、この内部に陸奥国府がおかれていた。この他にも蝦夷に対する備えとして、軍事・行政機能を有する多数の城柵が築かれた。

軍団兵士は、自弁で弓矢・大刀・小刀等を用意する必要があった[11]。その他の官給の武器としてがあり、弩に関しては体格と腕力に優れた者が隊(50名)ごとに各2名ずつ選ばれて射手の教育を受けた[12]。弓馬が得意なものは騎兵とすることとなっていたが[13]、多くは歩兵であったと考えられる[14]。騎兵は、基本的に弓射騎兵であるが[15]、槍を扱う突撃騎兵も存在したと推定される[16]。甲冑としては鉄製のものは少なく、「綿襖甲」・「綿襖冑」[17]や「革製甲」[18]が使用されていた。

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