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直木孝次郎「壬申の乱」第二章補注に

「『家伝上』によると、大海人皇子は壬申の乱に際し、吉野から東土に向かうとき、嘆じて『若し大臣(鎌足)をして生存せしむれば、吾豈に此の苦しみに至らんや』といったという。」

とある。天智天皇の酒宴において激発して床に槍を刺した大海人皇子を天智が怒って殺させようとしたが鎌足がそれを止めた、という話も合わせて、天智と大海人皇子の間をつないでいたのが鎌足だったと見ていいのではないか。

なお、壬申の乱は、通説(「日本書紀」の記述に基づく。つまり、大友側の圧迫によってやむにやまれず、緊急避難的に実行された、とする。)とは異なり、天智の死(あるいは大友皇子の即位)と同時に実行が決定されたものと思われる。
と言うのは、壬申の乱の際の大海人皇子の行軍過程(2皇子との合流)があまりに上手く行きすぎているからである。情報伝達網の貧弱な古代に、「伊勢(鈴鹿)で合流しよう」と言い送っていたはずの高市皇子が、鈴鹿に向かう途中の大海人一行と、伊勢手前の伊賀(現在の柘植のあたりか)で上手く出逢っているのである。これは、高市皇子には急使を送る以前にあらかじめ「25日に伊賀で待て」と言い送っており、大津皇子には後から送った使者に「25日に鈴鹿で合流だ」と伝えさせたのだろう。だから二人の皇子との合流点が違うことになったのだろう。つまり、天智の行軍行程は最初から綿密に計算されていたわけだ。大津皇子は年少でもあり、秘密を秘匿できるかどうか不安があり、また、上手く大津宮を脱出できるかどうか不確かなので、彼にはぎりぎりまでスケジュールを明かさなかったのではないか。

さらに、「日本書紀」ではさりげなく書いてある「伊賀の(近江朝廷の)駅家を焼く」というのは、そこにいた官吏とその家族を皆殺しにしたのだと思う。駅家は交通の要路の重要ポイントであり、不審な動きがあれば即座に近江朝廷に通報が行くことになっていたと私は想像している。だから、その通報をさせない、というのが「駅家を焼く」意図であり、焼くよりも役人を皆殺しにするのが目的だろう。伊賀は当時、大友皇子に親和性の高い土地だった。
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