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「兵器の散歩」というブログから転載。
文中の「横刀」には別の個所で「たち」と振り仮名がついている。なぜこのような表記をしているのかは不明。学者の間では普通に使われる表記なのだろうか。

私が知りたいのは、青銅の剣の切断力と刺突力だが、それが分からないと古代の戦いの実情が非常に想像しづらいのである。
もうひとつ、兵器ではなく兵士の戦闘能力もよく分からない。壬申の乱当時は兵農分離は無く、農民がそのまま戦に駆り出されたはずなので、兵士としての訓練はほとんど無かったと思う。では、どのような戦い方をした、あるいはさせたのか、想像しにくい。
壬申の乱では、大海人皇子は最初は美濃にある自分の個人的領地の農民を徴兵して戦争に突入したと思うが、その人数もよく分からない。せいぜい数百人程度ではなかったか。やがて友好的豪族の支援を得て、近江朝廷との本格的戦争に入ったのかと思う。
農民の、領主に対する忠誠心というのもよく分からない。戦に駆り出された農民が素直に戦ったのかどうか。逃亡する者をどう防止したのか。そこに、「督戦隊(前線から逃亡する兵士を斬り殺すと威嚇して戦いを強制する部隊)」的なシステムがあったのかどうか、そのあたりは史書にはほとんど出てこないようなので、気になって仕方がない。


(以下引用)


■初めに

 青銅の剣では春秋時代の越王勾践の緻密な彫刻を施した剣が有名だが、青銅製刀剣の全盛期の春秋時代、既に南方の大国楚等では、鉄製の剣が現れている。長さはまだ短く、全長は古代ローマ帝国の軍団兵が使用したグラデイウスよりも短い40cm弱の短寸であった。しかし、数回の折り返し鍛錬がされていて、浸炭処理もされていたようで、武器としては、ある程度の切断能力と強度があったと考えられている。

 戦国時代後期になると鉄製の長剣が楚、韓、燕等の国々で出現し、戦国七雄の一つ北の燕下都では、冶金技術が発達して鍛錬による高炭素の武器も製作され初め、更に強度を増すための焼き入れ加工も行われていた。

 天下を統一した秦が従来型の青銅製武器を主に武装の軍隊で争覇戦に勝利したのに対し、敗れた楚、韓、燕の諸国が最新の鉄製武器製造技術を持っていた矛盾は、幾つかの先端技術だけでは総合力に勝る覇権国家に勝てない、現代でも通じる問題点を提示しているように感じる。

 その他にも楚、韓、燕等の鉄製武器製造の先進国には問題点があった。例えば、燕の下都の鉄工房の技術力は高かったが、材料の供給能力も含めた生産能力は低く、燕の国軍における鉄製武器の装備率は相当に低かった。その為、一般の兵のほとんどは従来型の青銅製武器を装備して秦との戦い望んだと想像される。

 一方の南方の雄者楚でも秦との決戦が近づいた戦国時代末期には、70cm以上の長い直刀が造られ始めているが、この国でも燕と同様に軍隊全体に十分な鉄製武器を供給することは、楚の滅亡時まで遂に達成出来なかった。

■中国の鉄製刀剣普及の時代

 短命であった秦帝国の後を受けた劉邦の前漢の時代が、古代中国における青銅製武器と鉄製武器の世代交代の時代と考えられる。劉邦の時代に青銅製武器が主流だった漢帝国も西域で匈奴と対峙した武帝の頃には、鉄製武器の比率は向上し、前漢末期にはほぼ世代交代が終わり、戈や矛、剣、刀の主要武器が鉄製に切り替わっている。

 鉄製の刀剣も短い短刀から1mと超える長い環首長刀まで各種の長さの物が出揃い、刀剣の鞘や柄の材料も木や竹で製作された物や、布、繊維で補強され柄、赤い漆で装飾された鞘なども出現し始めてくる。

 漢はご存じのように紀元前後で前漢と後漢に分かれるが、前漢の鉄製武器の大発展期を経て、後漢になると色々な鉄の周辺技術が大きく向上している。

 その一つが鉄鉱石を溶かす炉の改良で、水車を用いた小型の溶鉱炉が発明されている。鉄鉱石を原料とした安定な鉄素材の供給は、素材を折返し鍛錬したりする鍛冶の熟練度の向上と共に、鋭利で弾力性に優れた長刀の量産を可能にしている。

 後漢の時代の剣の弾力性と曲がりに対する復元力は極めた高かったと現代中国人は胸を張って主張しているが、刀剣の弾力性や切断性を比較できるほどの健全な刀剣が漢代古墓から出土していると思えないし、もし、健全な刀剣の出土があったとしても、貴重な古代の文化財で、ものを斬ったり、曲げ試験を実施したり出来るとはとうてい考えられない。

 漢代の環首長刀の形状の一例を挙げると元幅は約3cm、重ね約1cmで、断面は平造りで、長さは長いもので1mを超える長剣もあった。柄と刀身は一体構造の為、軍用としての強度は高く、破損に対する耐性もある程度あったと思われる。

 この頃の大陸性や朝鮮半島製の剣や直刀が舶載されて、我が国の権力者に順次、普及していったと考えられる。また、朝鮮半島南部の加羅で生産された鉄の原料を購入して、我が国で加工した刀剣も時代と共に出てきたと考えられる。

■古代型刀剣の完成期:唐代

 三国志の時代を経て、南北朝に少しずつ進化した古代中国からの様式を持つ刀剣は唐代に至って、一応の完成を見たと考えられる。

 戦陣用の環首長刀は漢以降順次改良されていった。漢代の環首長刀の断面形状の二等辺三角形に近い平造りの形状から、切断力と刀身の強度を両立させた切刃造りも現れ、中には切刃部分の幅が広がった切断力を更に向上させた刀身も見られ始めている。

 柄と刀身も漢代のような一体加工では無く別個の分離した形となり、茎も形成され、区や目釘穴も設けられている。また、環首の部分も独立して加工され、装飾性も大きく向上している。文化の爛熟した盛唐期は刀剣の外装も華やかになり、正倉院に伝来する刀装具にもその影響を大きく受けたものが伝存している。

 当時、東アジア最大の帝国唐の刀剣は完成度も高く周辺の朝鮮半島や日本に強い影響を及ぼした。『唐大典』の中の「武庫令」には、表現は異なるが、儀仗用、護身用、横刀、斬馬刀の4種類の刀剣の記載がある。

 横刀の表現も隋から始まり、唐では軍隊の八割が真っ直ぐな横刀を所持して戦った。当に環首直刀が大量に作られ、実戦に用いられた時代であった。一方、新しい形状の萌芽もこの時代から始まっている。西域諸部族が用いた湾刀も中唐から唐末になると直刀と共に混用され始めたのであった。

 唐の隆盛と環首直刀の完成度の高さは、周辺諸国に強い影響を及ぼさずには、置かなかった。唐の環首直刀は貴族達の求める豪華な装飾性と一般兵士に支給する為の実戦的な強度の双方を兼ね備えていたのであった。



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