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#9   生の微分

 

ある本の中で、「死を意識することで、瞬間を別の瞬間に結び付けていた意味の環が壊れ、個々の瞬間が永遠の影を宿すようになる」というような言葉があった。なるほど、我々の生を連続させていたのは、実は意味というものだったのだと気づかされた言葉である。それに、死の意識が、我々を永遠に結びつけるという、この逆説は面白い。連続することが実は有限を作るのであり、連続しないもの、立ち止まるものこそが永遠なのである。意味とは一つの解釈でしかなく、それが我々の生を惰性の中に流していく。そして、やがて本物の死が来る。しかし、立ち止まって死を考えれば、我々の生はそこで微分されるのである。(微分とは、次元を変換して眺めることと解して貰いたい。)

人間は自分の生の時間を引き延ばすのにあらゆる努力をしてきた。しかし、せいぜいが五十年の命を八十年程度に延ばしただけである。だが、時間の密度を変えることで有限の生はいくらでも無限に近づいていくのではないだろうか。いや、それ以前に、死という「ゼロ」に比べるなら、一瞬も永遠に等しいのではないだろうか。今自分が生きている一瞬の価値を我々は本当には知らないのである。般若心経の「諸法空相」とは、あらゆる事象を「空」という相、フェイズにおいて見ることだが、これは生という有限数をゼロで割ることでもある。すなわち、時間の止まった永遠の相のもとでは、瞬間は永遠に等しい。これがファウストの「時よ止まれ、お前はあまりに美しい!」という言葉の意味ではないか?

 







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