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国家政治を簡潔に分類すれば、外務と内務に分かれる、というのは単純でわかりやすい。ただし、比重は内務が明らかに大きく圧倒する。鎖国でもすれば、外務は無きにひとしい。
もちろん、ここで言う内務は、下の記述にある現実の内務省の内務内容ではない。しかし、理念としては同じだろう。「内閣」という名前の方があやふやなのである。内閣があるのなら外閣はあるのか、と言いたくなる。閣とはそびえ立つ建物ということで、殿とか閤と似たような、「庶民の住めない豪壮な建物」ということである。つまり、政治家や官僚が威張っているわけだ。
それよりは、内務省の方が、よほど謙虚である。もちろん、実体は謙虚どころではなく、「愚民」や「暴民」を管理し、導き、取り締まるという、強権的な性質の強い役所だが。



日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

内務省
ないむしょう

明治~昭和(戦前)期の地方行政や警察など対民衆行政一般を所管した中央行政官庁廃藩置県(1871)後、国内行政は大蔵省の所管であったが、所管事務の多すぎる弊があり内政専務の省の必要が唱えられていた。1873年(明治6)征韓論をめぐる政変を機に、同年11月内務省設置が公表され、創設の発議者で当時政府の実権を握っていた大久保利通(としみち)が初代内務卿(きょう)に就任し、翌年1月省機構が確定し太政官(だじょうかん)中の一省として執務が開始された。当初の機構は、大蔵省から勧業、戸籍、駅逓(えきてい)、土木、地理の五寮を、司法省から警保寮を、また工部省から測量司を移した六寮一司の構成で、内務行政の主軸は、富国強兵のための勧業政策と国内治安対策の推進にあった。75年文部省より衛生、図書(検閲)事務を、77年教部省廃止に伴い社寺局を移管した。81年新設された農商務省に殖産興業関係事務を移管して、警察、土木、地方行政を専務とする省となり、おりから盛り上がりをみせる自由民権運動に対し、言論、集会、結社の取締りなど政治警察事務の比重を高くした。85年内閣制度の実施に伴い内閣下の一省となり、大臣官房以下、総務、県治(98年地方局と改称)、警保、土木、衛生、地理、会計、戸籍(86年課に格下げ)、社寺(1900年宗教、神社の二局に分離)の九局となり、内務省機構がほぼ固まった。初代の内務大臣は山県有朋(やまがたありとも)であるが、彼の官僚閥形成の基盤となった。その後、87年造神宮使庁(ぞうじんぐうしちょう)を置き、国家神道(しんとう)政策を推進、90年内閣より鉄道庁を移管した。1920年(大正9)には、社会問題の発生、社会・労働運動の高揚を反映して社会局が新設され、関東大震災後の24年には復興局が置かれた。ついで37年(昭和12)には戦時体制下に計画局を、41年に国土局と防空局を設置した。内務大臣は各府県知事をはじめ地方高官の人事権をもち、全国警察の統轄者として警察権をも握った。28年には全国府県に特別高等警察を置き、一般行政警察とともに政治警察をも担当した。こうして内務省は、治安警察法、治安維持法などの治安立法を運用し、選挙干渉や大衆運動の弾圧、思想統制など、国民の生活全般にわたって管轄、統制を行った。45年(昭和20)敗戦を機に、特高警察廃止に始まる占領軍の民主化政策で機構を縮小してゆき、47年12月全体が廃止された。[佐々木克]
『『内務省史』全四冊(1971・地方財務協会/復刻版・1980・原書房)』

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) この辞書の凡例を見る
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