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村主の「村」は朝鮮語で「すき」と発音されるとか言う。大友村主という姓も帰化人にはあるらしいが、もともとは「大友村長」の意味だったのが姓に転化したのではないか。
なお、井沢元彦の「逆説の日本史」の中に、天智天皇と天武天皇は同父の兄弟ではなく、父系で言えばまったく別系統の家系だという説があり、天武以降数代(8代くらいか)にわたって天皇家の「本筋」である天智系が天武系に簒奪され(ただし母系は天智系)、桓武天皇の前の天皇で再び天智系に戻った、という説が書かれていて、興味深い。つまり、壬申の乱は本来は天皇になる資格の無い大海人皇子による「天皇家」への反乱だったということで、その背後には新羅勢力の暗躍があった、としている。
大海人皇子の父親(斉明女皇の最初の夫)がたぶん新羅からの渡来人だったのではないか。そのために大海人皇子には皇位継承資格が無かったわけだ。つまり、本当は天武のほうが天智より年齢が上だったわけである。これは「日本書紀」などからは天武の年齢が不明であることも証拠になる。ついでに言えば、天武には宴席で興奮して槍を床に突きさすなど、「火病」めいた発作的行動が時々見られるようだ。
なお、「日本書紀」は天武家による「粉飾の歴史」であり、天智天武持統に関する記述の一部は信頼すべきでない、と井沢は言っているが、その意見に私も同意する。

なお、藤原不比等は長男を僧にしただけでなく、聖武天皇と光明皇后の異常な仏教崇拝を後押しした気配があり、本来は「神道」の役職(神祇官)である中臣氏の行動としては異常だが、これは神道の内部の最高の地位にある人間(家)だからこそ神道の虚偽性を知り尽くしていたためだろう。つまり神道も仏教も中臣(藤原)一族には政治権力の道具でしかなかったということである。言い換えれば、バルザックの作中の政治家ド・マルセーのように、「神も悪魔も男も女も信じない」のが中臣鎌足と藤原不比等だったと思われる。鎌足の愛読書は古代のマキャベリズムの書「六韜」だったらしい。




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ベストアンサー以外の回答

1〜1件/1件中

val********さん

2010/1/307:37:22

白村江の「はくすき」とは当時の地名の白村を百済語発音を日本側が聞き取ったよるものだということです。
ちなみに村主(古代朝鮮語で村長の意)は渡来系の諸氏が称したものなどから少なくとも関係はしていると思われます。



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