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最近、ドストエフスキーの小説を読み直しているが、その「語り方」に共通した特徴があるようだ。それは、「神の視点」、つまり作者自身が神であるかのように作品世界全体を「客観的に」描くのではなく、作中の誰か(脇役ですらないが、出来事の全体を熟知する人間)が語る形式で語る手法である。これは、その「語り手」がなぜ事件の詳細を知っているのかという疑問を読者に抱かせる危険性はあるが、単なる一人称(主人公自身が語り手)手法に比べて、より客観性が生じる利点がある。また、作中の異常なキャラの異常性が迫真的になる。だが、「語り手」が存在するはずの無い場面までリアルに描くと、完全に「嘘くさくなる」はずなので、そこが筆力の問題になるわけだ。少なくとも、作者の思想を「地の文」で表明するのと、作中人物の発言として描くのでは、読者は後者のほうにより「聞く気になる」と思われる。それは、その人物が本気か嘘かが不明なだけ、読者の判断力が問われ、真剣に読むからだろう。
なお、ドストエフスキーの長編では、たいてい「誰が語っているのか」ということはかなり曖昧にされるのが常である。とにかく「事件の目撃者」あるいは「事件の事情を詳しく知る人物」であることしか読者には分からないのである。仮にこの手法を現代で使ったら、評論家には「作劇上の欠点」としか見做されないだろう。現代の我々は「一人称」でなければ「三人称」(非常に稀に「二人称」)という作劇法に頭が固定されているからだ。
なお、各章の終わりが「その場面への誰かの乱入」という形になっていることが多い。これは週刊漫画などでの「次回への『引き』」の手法であり、ドストエフスキーの作品の「刺激の強さ」「迫力」「ドラマ性」の一因になっている。
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