ちなみに、直木孝次郎「壬申の乱」に、旧日本陸軍の騎兵の標準歩速が書かれていて、次のようになっている。
常歩(なみあし):分速110m
速足(はやあし):分速210m
伸長速足(しんちょうはやあし):分速310m
駈足(かけあし):分速420m
襲歩(しゅうほ):分速800m以上
これらを交互に交えたようである。速足と常歩を交えて分速150m平均とすれば、時速9キロで、3時間弱で大津から木幡まで来られるだろう。なお、古代人は朝が早い(遠出する時は特に)ので、夜明け前に出発したと思う。
井沢元彦は天智暗殺を大海人皇子自身が手を下してやったとしているが、年齢的にさすがにそれは無理だろうと思う。まあ、映像的には面白い場面にはなりそうだ。
ただし、これは「般若心経」による私自身の仏教理解であり、聖徳太子の頃に太子が「般若心経」を読んでいたとも思えないので、「三経義疏」から太子の仏教理解がどんなものだったか知ろうと調べてみると、太子の「三経義疏」については花山信勝が第一人者であるらしい。
実は私は中退した大学(東大ではない)で花山氏の講義を一度だけ聞いたことがある。当時の私の知識と頭脳ではまったく理解できない内容だったが、その講義も「聖徳太子と三経義疏」といった内容だった記憶がある。下の記述を見るとなかなかの大物で、そうした人物の実物を見たことがある、というだけでもいわば昭和の歴史の端っこに触れた経験かと思うので、書き留めた。
なお、私が実見した有名人として、浅草オペラの名歌手の何とかいう人がいたが、名前は失念した。これは「日劇ミュージックホール」の最後の公演に出演していて、その演出が黒テントの演出者の、これも有名人だった。東京にいると、現代の歴史の一幕に触れる機会がある、というのは大きなメリットである。これは私の若いころの話である。
花山信勝
花山 信勝(はなやま しんしょう、1898年(明治31年)12月3日 - 1995年(平成7年)3月20日)は、日本の仏教学者、浄土真宗本願寺派の僧侶。東京大学名誉教授。
概要[編集]
石川県金沢市生まれ。第四高等学校卒、東京帝国大学印度哲学科卒。大学院で日本仏教史を専攻し、東洋大学教授、東京大学文学部教授、國學院大學教授等を歴任する。1935年(昭和10年)、『聖徳太子御製法華経義疏の研究』で学士院恩賜賞を受賞。
1946年(昭和21年)2月から巣鴨拘置所の教誨師となり、東條英機ら七人のA級戦犯の処刑に立ち会い、その時の模様を『平和の発見-巣鴨の生と死の記録』に記した。東條は、「米国憲兵と一緒に合掌するのも仏縁だね」と笑っていた、と語った。なお被告の重光葵の手記『巣鴨日記』には、長期間の収監で精神的に消耗していた被告たちにとって、花山との接触はひとつの救いでもあった、という旨の記述がある。(『文藝春秋』1952年(昭和27年)8月号掲載、翌年に文藝春秋新社刊)
家族[編集]
長男の花山勝道は、金沢で浄土真宗本願寺派「宗林寺」の住職を務めた。
次男の花山勝友は仏教学者、武蔵野女子大学副学長を務めたが、父の後を追う形で同じ年に病没した。なお次男勝友や門下生達との座談会での回想が、『東方学回想 Ⅵ 学問の思い出〈2〉』(刀水書房、2000年)に収録。
著書[編集]
- 『聖徳太子御製法華義疏の研究』 東洋文庫, 1933
- 『聖徳太子の仏教』 仏教年鑑社, 1936
- 『聖徳太子と日本文化』 日本文化協会、1937
- 『日本の仏教 内閣印刷局』(国体の本義解説叢書), 1942
- 『憲法十七条の精神』 厚徳書院, 1943
- 『日本仏教』 三省堂, 1944
- 『勝鬘経義疏の上宮王撰に関する研究』 岩波書店, 1944
- 『白道に生きて』 北方出版社, 1948 (顕真叢書 ; 1)
- 『平和の発見 巣鴨の生と死の記録』 朝日新聞社, 1949
- 『「巣鴨の生と死 ある教誨師の記録」』 中公文庫, 1995
- 『万世を照らすもの-仏教学徒の記録』 酣灯社, 1949
- 『永遠への道 わが八十年の生涯』 日本工業新聞社, 1982
- 『聖徳太子と憲法十七条』 大蔵出版, 1982
- 『太平洋戦争とお念仏』 国際真宗学会, 1986
最後に書いてある配役(人物イメージ)などは、だいたいこんな感じでいいと思うが、ほかにも重要人物はたくさん出てきそうである。NHK大河ドラマにできるくらいの内容のある歴史的事件なのだが、そんなのを書いていたら、5年くらいかかりそうで、完成まで生きていられる自信がないし、自分にそんな才能があるとも思わない。私はプロデューサー的感性には自信があるが、物そのものを作るのは苦手なのである。
なお、中大兄皇子を源頼朝のイメージとしたが、もう少し陰険陰性の感じがいい。大久保利通とも少し違う。大久保は無私の人だが、中大兄皇子はチェザーレ・ボルジアのイメージだ。そういう、残酷冷酷な感じで、しかも恰好いい俳優というと、若いころの仲代達矢だろうか。中臣鎌足が山崎努。大海人皇子は、豪快で少し粗暴で勘の良さそうな「魅力的な野獣」という感じ。三船敏郎と誰かをミックスした感じか。
なお、四部構想ではなく三部構想がいいかと思う。聖徳太子の時代は二部に分けるほどではない。第二部と第三部を一続きにしたほうが、登場人物の連続性の上からも良さそうだ。
内容としては、推古朝から天智天武朝までのドラマである。推古朝とは要するに聖徳太子の時代だ。もっと詳しく言えば、蘇我氏時代である。蘇我氏と物部氏の仏教受容に関する闘争(戦争)を皮切りに、蘇我氏の傀儡としての聖徳太子の姿、その息子の山背大兄王の父聖徳への反発、推古の後継者争い(田村皇子と山背大兄王の争い)、蘇我蝦夷がなぜ蘇我系統の山背大兄王ではなく田村皇子擁立に乗り気だったのか、また蘇我入鹿(と蝦夷)がなぜ山背大兄王一族を滅亡させたのか、などが前半で、この争いが中大兄皇子に与えた精神的影響を基にして大化の改新(乙巳の朝廷クーデター)が後半の前半(妙な言い方だが、後半開始早々にこの大ドラマが起こるわけだ。)で、大化の改新の影の立役者としての中臣鎌足(大久保利通タイプ)の「政治ゲーム」あるいは王座を巡るゲーム(ゲームオブスローンズ)を描いていく。
中臣氏は神祇官の家であり、仏教と共に勢力拡張をしてきた蘇我氏とは根本的な敵である。つまり、聖徳太子時代の仏教受容争いの遺恨が大化の改新の裏の原因で、表の原因としては、中大兄皇子が有力豪族(蘇我氏)の傀儡的存在でしかない皇室の在り方に疑問を持ち、唐から帰朝した南淵請安や僧旻らの「中国政治情報」を得て、皇室中心の中央集権国家を作る構想を持ったということ。特に皇室を良しとするのではなく、むしろ大化の改新(特に乙巳の乱)とは中大兄皇子による「長いナイフの夜」だった、という構想である。
タイトルとしては「剣と鏡」というのを暫定案として考えている。これは皇室の三種の神器のうちのふたつで、天下を治める者は剣と鏡の心を持たねばならない、ということ。剣は言うまでもなく他人を従わせる武器であり、鏡は自分自身を見る道具、つまり自分の内面を治める(自己コントロールをする)道具だ。
後半の後半は壬申の乱が中心、つまり大海人皇子が兄天智(中大兄皇子)の息子である大友皇子と戦って天皇の座に付き、ここにゲームオブスローンズが完結する、という構想である。
大きく4部構想としたら
第一部 仏教伝来
第二部 聖徳太子の死と山背大兄王の死
第三部 大化の改新
第四部 壬申の乱
という感じで、主人公は第一部第二部は蘇我蝦夷と聖徳太子
第三部第四部は中大兄皇子と中臣鎌足がメインだが、他の登場人物ももちろん重要である。
さらに大きく括れば、第一部第二部は蘇我氏が中心、第三部第四部は中臣氏が中心とも言える。
つまり、政治を陰で動かしてきた力を描きたいのである。壬申の乱の時に中臣鎌足が生きていたかどうか後で調べるが、鎌足がいなかったために壬申の乱が起こった、という感じで描きたい。
主要キャスト(配役は暫定)
蘇我蝦夷:草刈正雄(策士だが抜けたところもあり、魅力的な感じ)
聖徳太子:平岳大(又は、もう少し小柄で大人しい感じの俳優。)
推古天皇:鈴木京香(威厳のある年増美女)
山背大兄王:佐藤健(気が強く、思慮に欠ける若者)
田村皇子:岡田将生(意志が弱く、お人よし)
蘇我入鹿:長瀬智也(粗暴、乱暴、強引無礼)
中大兄皇子:堺雅人(温厚な顔に似合わず案外悪人。頭がいい。源頼朝のイメージ)
中臣鎌足:(陰謀家)
大海人皇子:岡田准一(若くて豪快でやや思慮に欠ける感じ)
額田王:山本美月(少しアホっぽい方が意外性があっていい)
皇極(斉明)帝:夏木マリ(もう少し若く、なるべく狂気を感じさせる女優がいい)
余豊璋:安田顕(百済からの人質の王子。斉明帝の恋人で、斉明の異常な百済救援の真の動機。ハンサムだがあまり頭は良くなく、思慮に欠ける。斉明との関係で中年の俳優がいい)
南淵請安: (大化の改新の知的指導者)
というのは、国際情勢との関連があるからだ。
671年6月:栗隈王(後に壬申の乱で天武に協力)の太宰府長官任命
同年11月:唐使郭務悰来日(日本と唐との同盟締結のためか)
同年12月3日:天智天皇死去(公式には病死。井沢は暗殺説)
この頃、新羅は唐との戦い(主に百済の遺臣を利用)の最中で、唐と日本が同盟を結べば国家存亡の危機になるので、その同盟を阻止するために、親新羅派の大海人皇子が皇位に就くことは非常に好都合であった。天智朝廷は百済からの亡命者が多く、反新羅が主流だったと考えられる。
なお、天智は狩りの途中で殺害され、遺体が見つからない(前掲書による)ため暗殺かどうかあやふやだったことが、大友皇子側の大海人皇子への対応が遅れた理由だったかと思う。
なお、天智天皇が即位した年に、新羅のスパイである坊主が草薙剣を盗んで逃走し、捕らえられた(?)事件があったことからも、新羅が天智天皇の「反新羅・親百済」姿勢に危機感と反感を持っていたのは確かだろう。
私としては、中大兄皇子と大海人皇子は、ライバルであると同時にお互いの才能や力量を認め合った間柄だとしたいので、最後に天智暗殺の話が来るとなるとあまりに殺伐としてしまうのが難点である。
昨日の記事のカッコ内の補足が、いい加減な書き方をしたために変になったのだが、今、はっきりと「訂正」とした。ついでに書くと、「日本」の呼称が670年の新羅への遣使から始まったとすると、日本朝廷の「中華思想」(もちろん、日本を「中国」つまり中心の国とする中華思想だ。)の高まりを新羅は明確に把握しただろうから、天智朝廷への危機感も増しただろう。当然、親新羅の大海人皇子へのアプローチも強化されたと思う。壬申の乱の原因の半分くらいは、こうした国際情勢と関係があるのではないか。
この時から、皇室の朝鮮半島における日本の権益奪回とともに、中国(隋など)への傲慢な「対等外交」要求が始まるのである。
なお、仏教受容の政治思想的意味をぼんやり考えているが、未だ熟していない。要するに、仏教思想という、政治とまったく対照的な思想をなぜ日本の皇室が(自ら称する「神の子孫である皇室」と矛盾するにも関わらず)受け入れたのか、という謎だ。
もちろん、ローマ帝国におけるキリスト教認容と同じく、その政治的効果を考えたのだろうが、それがどういうものか、だ。ちなみに、皇室の人間にとって自分らが神の子孫などでないことはあまりにも当たり前の話で、それは「大衆向けプロパガンダ」にすぎないことは、皇室やその縁者には常識だったはずである。これを竹熊健太郎の言葉を借りれば、「顕教に対する密教」と言う。宗教内部の最高の階級の人間にとっては、その宗教がインチキであることは明白だ、ということだ。
中国史料における任那[編集]
- 『三国志』魏書東夷伝・弁辰諸国条の「弥烏邪馬」が任那の前身とする説がある。
- 広開土王碑文(414年建立) : 永楽10年(400年)条の「任那加羅」が史料初見とされている。
- 『宋書』では「弁辰」が消えて、438年条に「任那」が見え、451年条に「任那、加羅」と2国が併記される。その後の『南斉書』も併記を踏襲している。
- 『梁書』は、「任那、伽羅」と表記を変えて併記する。
- 525年前後の状況を記載した『梁職貢図』百済条は、百済南方の諸小国を挙げているが、すでに任那の記載はない。
- 『翰苑』(660年成立)新羅条に「任那」が見え、その註(649年 - 683年成立)に「新羅の古老の話によれば、加羅と任那は新羅に滅ばされたが、その故地は新羅国都の南700〜800里の地点に並在している。」と記されている。
- 『通典』(801年成立)辺防一新羅の条に「加羅」と「任那諸国」の名があり、新羅に滅ぼされたと記されている。
『太平御覧』(983年成立)、『冊府元亀』(1013年成立)もほぼ同様に記述している。
なお、宋書倭国伝によると、451年に、宋朝の文帝は、倭王済(允恭天皇に比定される)に「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」の号を授けたという。また、478年に、宋朝の順帝は、倭王武(雄略天皇に比定される)に「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭王」の号を授けたという。
『日本書紀』における任那[編集]
『日本書紀』(720年成立)崇神天皇条から天武天皇条にかけて「任那」が多く登場する。
- 崇神天皇65年と垂仁天皇2年の条は一連の記事で、任那と日本の最初の関係の起源を語る。
- 応神天皇7年と25年の記事のうち25年の条は『百済記』の引用である。
- 雄略天皇7年のあたりからかなり詳しい伝承がふえ、同天皇8年の記事では「日本府行軍元帥」の文字がみえ、倭の五王の三韓における軍事指揮権との関係が推察される。同21年の記事は有名な百済の一時滅亡と熊津での百済再建に絡んでの記事である。
- 顕宗天皇3年、阿閉臣事代が任那に赴いたこと、紀生磐宿禰が任那に拠って自立の勢いを示したことが見える。
- 継体天皇3年にも記事があり、同天皇6年の条は有名な「四県二郡割譲事件」の記事、同21年の条は「磐井の乱」に絡んでの記事である。23年、24年にも金官加羅の滅亡の前後をめぐる詳しい伝承がある。
- 宣化天皇2年、大伴狭手彦を任那に派遣した。
- 欽明天皇からはおびただしく記事が増え、ほぼ毎年任那関係の事件が見える。欽明2年(541年)4月の条に「任那」に「日本府」を合わせた「任那日本府」が現れ、同年秋7月の条には「安羅日本府」も見える。同天皇23年(562年)の条には、加羅国(から)、安羅国(あら)、斯二岐国(しにき)、多羅国(たら)、率麻国(そつま)、古嵯国(こさ)、子他国(こた)、散半下国(さんはんげ)、乞飡国(こつさん、さんは、にすいに食)、稔礼国(にむれ)の十国の総称を任那と言う、とある。この10国は562年の任那滅亡に近い最末期の領域である。
地理上、任那が朝鮮半島における日本に最も近い地域であり、重要な地域であったことに由来し、日本の史料が最も豊富な情報を提供している。これらの史料によると日本(倭)は、任那滅亡後に新羅に「任那の調」を要求しており、従来日本(倭)に対し調を納めていた事実が書かれている。
- 新羅による任那征服と推古朝の新羅征討
『日本書紀』によれば、飛鳥時代にも朝鮮半島への軍事行動が計画された。西暦562年、任那日本府が新羅によって滅ばされた。これを回復するための「征討軍」が推古朝に三度、計画され、一度目は新羅へ侵攻し、新羅は降伏している[20]。