東海アマ氏は「独断と偏見」の人で、その意見には首を傾げたくなるものが多いが、下に書いた「古代日本史(日本人とは何者か)」への氏の思想は、私もほぼ同感である。
私は基本的に「天皇は尊重すべき存在である」という「尊皇主義」者だが、歴史的認識まで不合理さを強引に押し付ける連中(天皇絶対主義者・超右翼)を嫌悪する。
なお、一般的には「尊王主義」と書かれるが、歴史的には「王」と「皇」は異なるので、私は「尊皇主義」と書く習慣である。「王」とは地方部族の長、あるいは「皇室の末端」であるにすぎない。国全体を統括する存在は、最初は「大王」と呼ばれ、それが「天皇」となったわけだ。つまり、「尊王主義」という言葉は、それ自体、天皇軽侮の呼称である。
(以下引用)私には異論のある部分もそのまま載せる。東海アマ氏は反天皇主義者である。
民族大移動を引き起こす要素は、巨大噴火、大陸沈降のような地殻変動、そして戦争である。
2500年前、中国は歴史上最大級の活発な時代であって、たくさんの思想家や国家、そして戦争を産み出していた。
わけても長い戦争を繰り返したのが、現在のベトナム(越国)と上海付近にあった呉国である。呉越戦争は、史記に明確な記録が残されたので、日本人でものめり込んだ知識を持っている人が多く。我々の日常表現にも普通に使われている。
「臥薪嘗胆、伍子胥のわが目を門にかけよ」などだ。このエピソードは普通の人なら誰でも知っている。呉越の呉は、もう日本人の生活に溶け込んでいて、呉は呉服、中国語の「呉音」など、日本人に大きな影響が残された。
だが、2500年くらい前、BC473年頃、呉は越に敗戦した。
(%E6%98%A5%E7%A7%8B)
当時の呉は、現在の蘇州が中心地で、水郷地帯だった。馬ではなく船が生活の足だった。
当時の国家間戦争は、敗戦国民が、坑刑(生き埋め刑)によって、まとめて大きな穴に生き埋めにされて皆殺しにされることが多かった。
そこで、水郷地帯の呉国民は、船で越が追ってこられない遠方に逃げ出した。
蘇州は、長江の東亜三角弧、照葉樹林帯文化圏だったので、似たような環境を求めて、台湾や山東半島、朝鮮半島南部(済州島)、そして九州北部に一斉に逃げ出した。
彼らは、照葉樹林帯文化を日本列島に伝えた「弥生人」になった。蘇州に非常に似ていた有明海、柳川市が最大の拠点とない、ここに邪馬台国が成立したと考えられる。
私は、若い頃から卑弥呼の墓は円墳であり、おそらく柳川市役所付近か、大川市付近にあると確信していた。そして、そこに吉野ヶ里遺跡が発見された。
なお中国の史学者、たとえば郭沫若などは、半世紀以上も前から、神武天皇は、呉の太白の兄弟と同定していた。中国の史学会では、弥生人が呉国蘇州人であることは常識になっている。
ところが、日本の歴史学を支配してきた東大史学閥というのがあって、この中心人物である勝沼平泉寺の神主、東大史学部教授の平泉澄が「日本の天皇家は万世一系であり、神武天皇以来2600年間、他国とは無縁の日本独自の王」と決めつけたため、大半の歴史学者が、神武や邪馬台国は、呉国の逃亡難民という説を口にできなくなってしまった。
呉(蘇州)由来の弥生人は、主に九州北部~瀬戸内~紀州~東海道に勢力圏を作った。
神武、邪馬台国をはじめ、九州王朝は、AD300年頃大規模に移住してきた朝鮮半島、百済国系の騎馬民族にとって代わられるまで、倭国の王だったと考えられる。
だが、日本書紀に「弓月君」として記録された120県(20万人だが、実際には数万もいなかっただろう)の民が、AD300年前後、百済から日本列島に移住してきた。
移住の理由は、もちろん戦争である。彼ら(百済)は、元々高句麗・扶余にいた満州族だが、その頃、沿海州、オロチョン、濊国などのエベンキ族が朝鮮半島に侵入してきて、百済と激しい戦争を行い、やがて百済は劣勢になって、日本の軍事援助も実らないまま、日本に逃げ出したのだ。
だが、当時日本人口は100万人前後しかおらず、彼らが1万人であったとしても、それは巨大勢力だった。
彼らの正体は、騎馬民族だった。そして円墳ではなく方墳の文化を持っていた。
馬と生きる彼らは、馬上戦闘に適した長い直剣を使った。弥生人は、南方系の稲作民族で、短い曲剣を使うことが多かった。
このとき、日本の文化は、大規模な変化を受けることになった。
このプロセスは、江上波夫の騎馬民族征服王朝説に詳細に語られている。
これは私から見て、ほぼ体系的に、古代日本の歴史的変遷を合理的に説明できる、ほとんど唯一の学説と思われた。しかし、ここでも、平泉澄の「万世一系論」の横やりが入り、多くの権威主義史学者が、万世一系論を傷つける異端学説として江上説を排除しようとしてきた。
だから、柳川にいたはずの卑弥呼が、奈良の箸墓古墳の主人と決めつけるような奇説が今でも絶えない。彼らにとって、何よりも「皇統万世一系」を守らねばならないのだ。
彼らにとって、民族移動などあってはならないことなのだ。神武以来、皇統は不変という奇っ怪な呪縛のなかにいる。つまり天皇崇拝信仰に雁字搦めにされている。
DNA系統図を持ち込む研究者もいるが、その解釈も恣意的で、科学性は見えない。ただ皇統不変の結論ありきなのだ。
そもそも、日本の史学者の多くが、渡来人について、「三々五々」日本列島に遊びにやってきた、と表現をする者が多いが、私にいわせれば「馬鹿も休み休み言え」と怒鳴りたい。
民族移動には、必ず大きな、決定的な理由がある。それは戦争と巨大災害なのだ。
そして、民族に皇統不変などありえない。必ず交雑してゆく。ただし、そのスピードは交易に規定されるので、交易範囲が民族性を定めてゆく。
「国」というものは交通、交易によって定まるものだ。地図に領地の印をつけて国が成立するわけではない。
古代の交易は、沿岸の船と馬の通れる道だった。国は、この二つによって規定されたので、国境など存在しなかった。
そして、人口が増えれば、食料採集テリトリーが重なるようになり、必ず戦争が起きる。この戦争が民族大移動を決定するのだ。
弥生人の作った国と、騎馬民族の作った国は、まったく別だ。そこに無理矢理同一性、系統性を見いだそうとしても大きな無理がある。
このことを理解できない史学者には、史学を表現する資格はないと私は思う。
私は基本的に「天皇は尊重すべき存在である」という「尊皇主義」者だが、歴史的認識まで不合理さを強引に押し付ける連中(天皇絶対主義者・超右翼)を嫌悪する。
なお、一般的には「尊王主義」と書かれるが、歴史的には「王」と「皇」は異なるので、私は「尊皇主義」と書く習慣である。「王」とは地方部族の長、あるいは「皇室の末端」であるにすぎない。国全体を統括する存在は、最初は「大王」と呼ばれ、それが「天皇」となったわけだ。つまり、「尊王主義」という言葉は、それ自体、天皇軽侮の呼称である。
(以下引用)私には異論のある部分もそのまま載せる。東海アマ氏は反天皇主義者である。
民族大移動を引き起こす要素は、巨大噴火、大陸沈降のような地殻変動、そして戦争である。
2500年前、中国は歴史上最大級の活発な時代であって、たくさんの思想家や国家、そして戦争を産み出していた。
わけても長い戦争を繰り返したのが、現在のベトナム(越国)と上海付近にあった呉国である。呉越戦争は、史記に明確な記録が残されたので、日本人でものめり込んだ知識を持っている人が多く。我々の日常表現にも普通に使われている。
「臥薪嘗胆、伍子胥のわが目を門にかけよ」などだ。このエピソードは普通の人なら誰でも知っている。呉越の呉は、もう日本人の生活に溶け込んでいて、呉は呉服、中国語の「呉音」など、日本人に大きな影響が残された。
だが、2500年くらい前、BC473年頃、呉は越に敗戦した。
(%E6%98%A5%E7%A7%8B)
当時の呉は、現在の蘇州が中心地で、水郷地帯だった。馬ではなく船が生活の足だった。
当時の国家間戦争は、敗戦国民が、坑刑(生き埋め刑)によって、まとめて大きな穴に生き埋めにされて皆殺しにされることが多かった。
そこで、水郷地帯の呉国民は、船で越が追ってこられない遠方に逃げ出した。
蘇州は、長江の東亜三角弧、照葉樹林帯文化圏だったので、似たような環境を求めて、台湾や山東半島、朝鮮半島南部(済州島)、そして九州北部に一斉に逃げ出した。
彼らは、照葉樹林帯文化を日本列島に伝えた「弥生人」になった。蘇州に非常に似ていた有明海、柳川市が最大の拠点とない、ここに邪馬台国が成立したと考えられる。
私は、若い頃から卑弥呼の墓は円墳であり、おそらく柳川市役所付近か、大川市付近にあると確信していた。そして、そこに吉野ヶ里遺跡が発見された。
なお中国の史学者、たとえば郭沫若などは、半世紀以上も前から、神武天皇は、呉の太白の兄弟と同定していた。中国の史学会では、弥生人が呉国蘇州人であることは常識になっている。
ところが、日本の歴史学を支配してきた東大史学閥というのがあって、この中心人物である勝沼平泉寺の神主、東大史学部教授の平泉澄が「日本の天皇家は万世一系であり、神武天皇以来2600年間、他国とは無縁の日本独自の王」と決めつけたため、大半の歴史学者が、神武や邪馬台国は、呉国の逃亡難民という説を口にできなくなってしまった。
呉(蘇州)由来の弥生人は、主に九州北部~瀬戸内~紀州~東海道に勢力圏を作った。
神武、邪馬台国をはじめ、九州王朝は、AD300年頃大規模に移住してきた朝鮮半島、百済国系の騎馬民族にとって代わられるまで、倭国の王だったと考えられる。
だが、日本書紀に「弓月君」として記録された120県(20万人だが、実際には数万もいなかっただろう)の民が、AD300年前後、百済から日本列島に移住してきた。
移住の理由は、もちろん戦争である。彼ら(百済)は、元々高句麗・扶余にいた満州族だが、その頃、沿海州、オロチョン、濊国などのエベンキ族が朝鮮半島に侵入してきて、百済と激しい戦争を行い、やがて百済は劣勢になって、日本の軍事援助も実らないまま、日本に逃げ出したのだ。
だが、当時日本人口は100万人前後しかおらず、彼らが1万人であったとしても、それは巨大勢力だった。
彼らの正体は、騎馬民族だった。そして円墳ではなく方墳の文化を持っていた。
馬と生きる彼らは、馬上戦闘に適した長い直剣を使った。弥生人は、南方系の稲作民族で、短い曲剣を使うことが多かった。
このとき、日本の文化は、大規模な変化を受けることになった。
このプロセスは、江上波夫の騎馬民族征服王朝説に詳細に語られている。
これは私から見て、ほぼ体系的に、古代日本の歴史的変遷を合理的に説明できる、ほとんど唯一の学説と思われた。しかし、ここでも、平泉澄の「万世一系論」の横やりが入り、多くの権威主義史学者が、万世一系論を傷つける異端学説として江上説を排除しようとしてきた。
だから、柳川にいたはずの卑弥呼が、奈良の箸墓古墳の主人と決めつけるような奇説が今でも絶えない。彼らにとって、何よりも「皇統万世一系」を守らねばならないのだ。
彼らにとって、民族移動などあってはならないことなのだ。神武以来、皇統は不変という奇っ怪な呪縛のなかにいる。つまり天皇崇拝信仰に雁字搦めにされている。
DNA系統図を持ち込む研究者もいるが、その解釈も恣意的で、科学性は見えない。ただ皇統不変の結論ありきなのだ。
そもそも、日本の史学者の多くが、渡来人について、「三々五々」日本列島に遊びにやってきた、と表現をする者が多いが、私にいわせれば「馬鹿も休み休み言え」と怒鳴りたい。
民族移動には、必ず大きな、決定的な理由がある。それは戦争と巨大災害なのだ。
そして、民族に皇統不変などありえない。必ず交雑してゆく。ただし、そのスピードは交易に規定されるので、交易範囲が民族性を定めてゆく。
「国」というものは交通、交易によって定まるものだ。地図に領地の印をつけて国が成立するわけではない。
古代の交易は、沿岸の船と馬の通れる道だった。国は、この二つによって規定されたので、国境など存在しなかった。
そして、人口が増えれば、食料採集テリトリーが重なるようになり、必ず戦争が起きる。この戦争が民族大移動を決定するのだ。
弥生人の作った国と、騎馬民族の作った国は、まったく別だ。そこに無理矢理同一性、系統性を見いだそうとしても大きな無理がある。
このことを理解できない史学者には、史学を表現する資格はないと私は思う。
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