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大化の改新(乙巳の変)の謎のひとつに、入鹿暗殺の場に居合わせた古人大兄皇子(だったか?)が、怯えて家に帰った後、「韓人(からひと)が入鹿殿を殺した」と言ったとかいう話がある。これは、三韓の貢とか何とかいう儀式の場で暗殺されたので、その使者に暗殺者が化けていたという説を私も採るが、「書紀」には、中大兄皇子が斬り付けたという記述もあるので、謎とされているわけだ。
「二つの顔の大王」では、中大兄皇子が韓国人(百済人)だ(詳しくは、百済の皇子)ということが周知の事実だったから、この「韓人」はまさに中大兄皇子を指すのだ、としている。
ちなみに、大海人皇子は高句麗人、ということのようだ。


「剣と鏡」については、メモは続けるつもりで、考察も続けるが、パソコンやネットが信頼できないので、ネットで書くかどうかは決めかねている。
とにかく、ウィンドウズ10(現パソコン)になってからワードの使い勝手がひどく悪くなっているのである。書き始めてだいぶたってから、いきなりネット接続が不可能になったりしたら最悪である。

まあ、そのメモを使った作品にするとしたら、メモを書くこと自体創作の一部ではある。

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3世紀くらいから7世紀くらいまでの日本は朝鮮半島より文化的政治的後進国であったことは確かだろう。となれば、朝鮮半島からの渡来人が日本の政治世界で高い地位に上るのは理の当然だったわけだ。つまり、東大やハーバード(まあ、この二つを同列にしていいか疑問だがwww)を出た人間が重用されるのと同じである。しかもその時代は学歴時代ではなく、実力時代だからこそ、文化的政治的先進国で厳しい現実と戦ってきた人間が田舎の馬鹿たちを圧倒するのは当たり前の話である。しかも、先進国の武器作りの知識もあり、文化的知識もあるとなれば、高い地位に上らないほうがおかしい。とすれば、そこから王位に就く人間も当然出てくるわけだ。まあ、「鳥無き里の蝙蝠」という話である。
そして、渡来人というのは、故国で失敗した人間であるというのは、今の時代で田舎に行く都会人のほとんどが都会での失敗者であるのと同じだ。もっとも、失敗とは言っても、政治的敗北や戦乱の結果だろう。言ってみれば、「亡命者」である。
そういう人々にとっては、日本のような「ど田舎」に行くこともそこで生涯を送ることも残念無念なことだったと思うが、その反面、そこでは(文化的差異のために)最初からチートとして生き直すことができたわけで、素晴らしい運命だと見做すこともできたのだ。

小林恵子氏の「ふたつの顔の大王」は、古代の日本の大王の多くは実は朝鮮半島その他の渡来人であり、しかも故国でも日本でも王位に就いたのだ、としていて、あまりにも奇想が過ぎると思わないでもないが、日本書紀などの記述が天武以降の「皇室による荘厳化と自己正当化」の記述が相当入っているだろうという当たり前の推定を前提とすれば、実はどのような推測も可能になり、その推測の是非を決めるのは推測内容の合理性と幾つかの資料との間の整合性しかないのである。
ある研究(コンピューターシミュレーション)によれば、弥生時代から7世紀までの1000年間に渡来した帰化人の数は数十万人から百万人に達すると言う。しかも、恐らくそのかなりな割合が古代日本の「上級国民」になっただろうというのは、最初に書いた通りだ。とすれば、古代日本こそ実は「(東)アジア内グローバリズム」の時代だったのであり、くだらない日本国粋主義はせいぜいが幕末の尊皇攘夷思想あたりから始まったファナチシズムにすぎないのではないか。そもそも、現日本人のかなりな割合が帰化人の子孫であるのは明白なのである。しかもそれは上級国民ほどそうだと推定されるのだ。
小林恵子の「二つの顔の大王」には多くの示唆的な言葉があるが、古代史を考える上での特に重要な視点として、次の言葉を引用しておく。(冒頭のカッコ内と赤字化は私の補足と強調)


「(4世紀から7世紀の)当時は、倭国を含めた三国の王達は、基本的にどこの国の王であることにも固執せず、我こそは東アジアの覇者たらんと、しのぎを削ったのがこの時代であった。そしてそのありようも高句麗・百済・新羅・加羅を四つの国とは考えないで、国という観念を一度捨てて、各地方の地名と考えたほうが真実に近いのではないだろうか。もちろん、それは倭国も含めての話であるが、国境が確立して千年以上の歳月が経つと、たとえ観念では分かっていても、感覚的に理解しにくいのは当然かもしれない。


小林氏は朝鮮の王が倭国に来てそのまま倭国の王(たとえば継体天皇など)となったという大胆な説を出しているが、これはヨーロッパ王家の歴史を見るとおかしな話ではない。ヨーロッパ王家はふだんは喧嘩(戦争)ばかりしているが、王家同志は姻戚関係で絡み合っており、つまりは大掛かりな兄弟げんかや親子喧嘩、親戚間の喧嘩を、国自体がやっているようなものなのである。イギリスとフランスは喧嘩ばかりしているが、イギリスの新国王をフランス王家から迎えるというようなおかしなことをやったりするのだ。また、国王の二カ国兼任という例もある。
古代の戦争は中世ヨーロッパ以上に「親族同士の喧嘩」であった可能性は高いと思う。そして、「本家の跡継ぎ候補」の大半が死んだら、番頭に店を継がせるのではなく、遠い親戚を引っ張ってきて跡継ぎにする、というのが王家の行動パターンなのだろう。だから、継体天皇のような不思議な天皇継嗣が起こるわけだ。そしてそれは臣下たちも当然視したわけだ。
だからこそ、それに反した(つまり、番頭による御家乗っ取りをした)王莽などがアジア史の中で唯一「簒奪者」の悪名を残したのではないか。
小林恵子(やすこ)氏が古代史に関して、次のように言っているが、まさにその通りだと思う。と言うより、これは私も前々から思っていたことだ。

「現代人である我々が、とかく誤解しやすいのは、国という文字を目にした時だ。どうしても、現代のパスポートを必要とする国際観念で国を見てしまうのである。この時代の国(引用者注:三韓時代の朝鮮のこと)は日本の戦国時代の大名小名の領地に近いという観念を持った方がよいと思う。」

たとえば、「三国志・魏書東夷伝」には「弁・辰韓合わせて二十四国、大国四五千家、小国六七百家、総てで四五万」とある。戸数が四五千で大国なのだから、人口だけで言えば、大名小名の領地どころか、現代の小さな市くらいのものだ。国とは、要するに、「領主の勢力範囲」くらいのもので、その境界もいい加減なものだったと思う。

同氏の「二つの顔の大王」(前記引用文も同書から)に、

「突厥は一時期、西はササン朝に接し、東は高句麗に隣接する北東アジアをほとんどおおう勢力を有したが」云々とあるが、では、突厥は巨大領土を有していたと言えるかと言えば、おそらく、その土地を支配する官僚機構を持っていなかったと思う。それを国と言っていいのか、それとも単に「山賊の勢力範囲」と言うべきか、議論が必要だろう。そこがたとえば元帝国とローマ帝国の違いだと思う。ローマは明確に支配地を統治する政治システムを持っていたが、元帝国はどうだったか。山賊は、戦争には強いから勢力範囲を拡大することはできるが、統治のシステムを持っていない、というのが私の考えだ。だから、ヨーロッパをしばしば脅かした遊牧民集団が、あちこちを荒らし回った後、すぐに消えてしまうのである。

日露戦争の最初の海戦における日本側砲弾の命中率は2.5%、ロシア側は0%だったという。これは、日本側の奇襲にロシア側が慌てた結果らしいが、日本側でも2.5%しか無かったというのは、最初の戦闘でもあり、砲撃に不慣れだったからだろう。それでも、異常に命中率が低いというのは、彼我の砲煙がおびただしかったため、自分が打った弾の着弾点による次弾の修正ができなかったためらしい。後に、艦ごとに砲煙を着色するなどの工夫もあったようだ。
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