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小林恵子の「二つの顔の大王」には多くの示唆的な言葉があるが、古代史を考える上での特に重要な視点として、次の言葉を引用しておく。(冒頭のカッコ内と赤字化は私の補足と強調)


「(4世紀から7世紀の)当時は、倭国を含めた三国の王達は、基本的にどこの国の王であることにも固執せず、我こそは東アジアの覇者たらんと、しのぎを削ったのがこの時代であった。そしてそのありようも高句麗・百済・新羅・加羅を四つの国とは考えないで、国という観念を一度捨てて、各地方の地名と考えたほうが真実に近いのではないだろうか。もちろん、それは倭国も含めての話であるが、国境が確立して千年以上の歳月が経つと、たとえ観念では分かっていても、感覚的に理解しにくいのは当然かもしれない。


小林氏は朝鮮の王が倭国に来てそのまま倭国の王(たとえば継体天皇など)となったという大胆な説を出しているが、これはヨーロッパ王家の歴史を見るとおかしな話ではない。ヨーロッパ王家はふだんは喧嘩(戦争)ばかりしているが、王家同志は姻戚関係で絡み合っており、つまりは大掛かりな兄弟げんかや親子喧嘩、親戚間の喧嘩を、国自体がやっているようなものなのである。イギリスとフランスは喧嘩ばかりしているが、イギリスの新国王をフランス王家から迎えるというようなおかしなことをやったりするのだ。また、国王の二カ国兼任という例もある。
古代の戦争は中世ヨーロッパ以上に「親族同士の喧嘩」であった可能性は高いと思う。そして、「本家の跡継ぎ候補」の大半が死んだら、番頭に店を継がせるのではなく、遠い親戚を引っ張ってきて跡継ぎにする、というのが王家の行動パターンなのだろう。だから、継体天皇のような不思議な天皇継嗣が起こるわけだ。そしてそれは臣下たちも当然視したわけだ。
だからこそ、それに反した(つまり、番頭による御家乗っ取りをした)王莽などがアジア史の中で唯一「簒奪者」の悪名を残したのではないか。
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