「革命者キリスト」の続きを載せるが、章立てが自動改変されて滅茶苦茶である。内容は前回からの続きである。
第四章 イエスの死とその意味
イエスがユダヤの教父たちによって死に追いやられたことは間違いの無いところだろう。そのあたりの記述はイエスの死に触れていないヨハネ福音書を除いてどの福音書もほぼ同じであるようだ。そして、ユダヤ総督ピラトは彼の死刑を宣告するが、それは裁判の場に集まったユダヤ人たちの総意を受け入れてのものであり、イエスを殺すことに彼は反対の気持ちであったことも事実だろう。では、ユダヤ人たちが(と言っても、イエスもユダヤ人なのだから、イエスを殺したという理由でユダヤ人を差別迫害するのはナンセンスなのだが)イエスの死を主張した根拠は何か。
① 群集はみな立ち上がって、イエスをピラトのところに連れて行った。そして訴え出て言った、「私たちは、この人が国民を惑わし、貢ぎをカイザルに納めることを禁じ、また自分こそ王なるキリストだと言っているところを目撃しました。」(ルカ福音書)
② 「彼ら(イエスとその使徒)は、ガリラヤから始めてこの所まで、ユダヤ全国に渡って教え、民衆を煽動しているのです」(同)
これが、ピラトの前で述べられたイエス告発の言葉だが、その前に、ユダヤの教父たちが最終的にイエスを殺す決意をする場面がある。
③ 夜が明けた時、人民の長老、祭司長たち、律法学者たちが集まり、イエスを議会に引き出して言った、「あなたがキリストなら、そう言って貰いたい」。イエスは言われた、「私が言っても、あなたがたは信じないだろう。また、私が尋ねても答えないだろう。しかし、人の子は今からのち、全能の神の右に座するであろう」。
彼らは言った、「では、あなたは神の子なのか」。イエスは言われた、「あなたがたの言うとおりである」。すると彼らは言った、「これ以上何の証拠がいるか。我々は直接彼の口から聞いたのだから」。(ルカ福音書)
すなわち、イエスの罪は、ユダヤの教父たちにとっては、「神の子」を詐称したことであり、ローマに対する口実としては、ローマへの反抗、人民煽動を理由としているということである。
マタイ福音書やマルコ福音書では、イエスが「ユダヤの王」と名乗っていることを告発の理由としているが、これもローマが定めたユダヤの王を無視して勝手にユダヤの王と名乗っているという告発だろう。つまり、ローマへの反抗、独立運動の首謀者だという告発だ。
要するに、イエスは政治的にはローマに対するユダヤ民族運動の中心人物であるとされ、宗教的にはユダヤ宗教界批判のために死に追い込まれたというところだろう。
考えてみると、イエスが自分を神の子だと名乗ったからといって、これを死刑にするのは不合理な話ではある。本人が本当に神の子であるなら、自分が神の子であると認めるしかないだろう。それで殺されてはたまったものではない。だが、本物の神の子なら、超能力によって、それを証明できるはずだ。たとえば、この危地から脱出するのも容易だろう。それができないのは、偽者だからだ、という判断で、彼らはイエスを断罪したのである。
では、イエスはなぜ超能力でこの危地を脱して、自分が神の子であることを証明しなかったのか。これは「キリスト教」にとっても難問のはずだが、それには、「キリストは全人類の罪を背負って死ぬという預言が実現されるためだ」という答えが用意されている。
では、「キリストの」死がそもそも何のために必要なのか? 全人類の罪とは何か? ここで、私が昔から疑問に思っている「原罪論」という奴が出てくる。「キリスト教」の中で、私が一番嫌いで、意味不明の思想だ。
確かに、イエスの言葉の中に、それらしいものはある。
④ 「(ぶどう酒を手にして)これは罪の許しを得させるようにと、多くの人のために流す私の契約の血である」(マタイ福音書)
預言の実現のための死ということについても、次の言葉がある。
⑤ 「(イエスを捕まえに来た人々に向かって)私は毎日あなたがたと一緒に宮にいて教えていたのに(その時は)私を捕まえはしなかった。しかし聖書の言葉は成就されねばならない」。(マルコ福音書)
おそらく、イエスが従容として死に就いたというのは、旧約聖書の中に、何か「キリストは人々の罪を背負って殺される」という趣旨の言葉があるのだろう。私はそれを探す根気は無い。だが、聖書にそういう記述があっても、人(あるいは神の子)が人類の罪を背負って死ぬということの意味がわからないのである。なぜ、人が他人の罪の身代わりになれるのか。そして、なぜ神は「自分の子」に対してそれを要求するのか。
ここで、ふと思いついたのが、アブラハムが神のために我が子を犠牲にしようとしたことだ。あの時は、人間が神のために我が子を犠牲にしようとした。いや、心理的にはすでに犠牲に「した」のである。だから、神はそれで良しとしたのだ。何よりも愛する我が子だからこそ、その犠牲は価値ある犠牲なのだろう。(ただし、それを要求する「神」を私は認めないが。)ならば、今度は神が人間に対して、そのお返しに我が子を犠牲にして人間全体との契約をするということなのだろうか? そう考えれば、確かにバランスは取れるが、しかし……。どうしても分からないのが、「罪の許しを得させるようにと、多くの人のために流す私の契約の血」という言葉だ。つまり、キリストが死ぬことで人間の罪が許されるということだろうが、なぜキリストが死ねば人間の罪が許されるのか。むしろ、キリストを殺したことで、人間は罪ある存在となるのではないか? その罪が「原罪」という奴ならば、その原罪とは何なのか。
原罪とは、神に作られたアダムとイブが神の言葉に背いて智恵の木の実を食べたことである、とするのが原罪の一般的理解だろう。要するに、被造物のくせに造物主に逆らったことが原罪だ。だから、そういう存在は楽園においておくことはできない、ということでアダムとイブは楽園を追放される。これが「パラダイス・ロスト」、失楽園である。(ついでながら、失楽園とは「失・楽園」であって、「失楽・園」ではない。後者だと、後楽園の親戚になってしまう。)そしてアダムとイブは生病老死のある四苦八苦の人間生活を始めるわけである。
さて、そうすると、人間が原罪を許されるとは、人間が再び楽園、つまり天国に迎え入れられることを意味することになる。つまり、イエス・キリストの死によって、天国は初めて、再び人間を迎え入れる準備ができたということか。何となくこの説明でいいように思われるが、まだ即断するのはやめよう。
まず、イエスの死は預言されたことであった。ならば、イエスを殺した人々は、その預言の実現のために動かされた道具にすぎないから、彼らに罪はない。イエスの言った罪は、もっと大きな罪である。それは、神への不信である。(私など、その最悪な例だ。)神の被造物である人間が神を信じないことが、神への最大の罪だろう。それに比べれば、たかが被造物同士の間の罪は殺人だろうが何だろうが、大したものではない。ここが実はユダヤ教及びキリスト教及び「キリスト教」の最大の問題点ではないだろうか。つまり、神への罪と人間への罪の比重の違いである。もしも、神への罪が最大の罪ならば、異教徒は最大の罪びとであり、動物以下の存在である。なぜなら、彼らもまた神の被造物でありながら、神を忘れ、神に背いているから。これはイエスの思想または神の絶対視という旧約思想を悪い方向に拡大すると出てくる思想である。
こう理解した時に、西欧人の異民族への残酷極まりない行動の意味が理解できる。彼らにとって、人間とみなせるのは、神を信じている人間だけなのである。東洋人やアフリカ人など、ただの言葉を話す動物にすぎないから、騙してもいいし、殺してもいい。これが西欧植民地主義の背景にある思想だろう。これに、西欧科学の優位性による自惚れが加われば、天下無敵である。そして、この気風は実は現代でも西欧人の背後に厳然としてあるのではないだろうか。
さて、そうすると、イエスの死の意味はこうなる。イエスが死ぬことで、神は人間と再契約をした。それは、人間が再び神のもとに戻り、楽園で暮らしてもよいという約束だ。ただし、そのためには、イエスを信じなければならない。なぜなら、彼は地上における神の代弁者であるから、彼の言葉を信じない者、彼を信じない者は神を信じていないことになるからである。つまり、イエスを人間だと思っている限りは、それは本当のキリスト者ではない、ということなのである。
こうして再び神への道が開かれた。これがイエスの死の意味である。
(追記)
以上の部分を、私は聖書の中の、自分にとって興味のある部分だけについての知識で書いた。ところが、偶然に、先ほど、何の気なしに聖書の他の部分をパラパラとめくっていると、パウロの「ローマ人への手紙」の中に、私の論を証する次のような記述があった。
なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては罪の自覚が生じるのみである。しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、現わされた。
それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこには何の差別もない。
すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。
神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見逃しておられた。
それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。
(「ローマ人への手紙」第三章)
すなわち、ユダヤ教が、ユダヤ人にのみ特有の煩瑣な律法によって他民族をその宗教から排除しているのに対し、キリスト教では、ただキリストへの信仰(キリストを通じた神への信仰)によって、神への回路が開かれる。これが、キリスト教が異民族に受け入れられ、世界宗教となっていった理由である。
ただし、では誰が、あるいは何がキリスト教への信仰の保証をするのか。もちろん、それは宗教的指導者たちである。ここで再びモーゼによる神の律法の創作と同様のパターンが再現される。すなわち、宗教の政治的な利用のパターンである。キリストへの信仰は、必要な際には宗教的指導者たちの指令への絶対的服従(たとえば「十字軍」、あるいは「カノッサの屈辱」)とならねばならない。
聖書の知識が教会の教父たちの独占物となっていた時代には、庶民は教父たちを通じてしかキリスト教を理解することはできなかったのである。それが、グーテンベルグによる聖書出版以前のキリスト教世界の有様だった。聖書の大量印刷によって初めて、「キリストの教え」と「教会のキリスト教」の違いに人々が気づきはじめ、宗教改革の契機が生まれたのである。