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下の説明が根拠のあるものかどうかは知らないが、ネットの他のところでも「here's」が乾杯の言葉であるとは書いている。まあ、「ここに~がある(ことに感謝しよう)」ということなのではないか。つまり、「Here's looking at you」は、「君を見ていることに乾杯」「君を見ていられる幸せに乾杯」ということかと思う。ポイントは「here's」とそれに続く部分をいったん切り離して捉えることだろう。全体を続けて読むと変な構文となって理解できなくなる。まあ、直訳して「ここに君を見ることがある」でも、何となく幸福感は感じられないこともない。






2015年09月15日

第237回:“Here's looking at you, kid.”―「君の瞳に乾杯!」(『カサブランカ』)

こんにちは! ジム佐伯です。
英語の名言・格言やちょっといい言葉、日常会話でよく使う表現などをご紹介しています。

0237-bogart_in_casablanca.jpg
By Trailer screenshot (Casablanca trailer) [Public domain], via Wikimedia Commons

第237回の今日はこの言葉です。
“Here's looking at you, kid.”
ぱっと見ても意味が直観的にわからない、なかなか難しい言葉ですね。
いったいどういう意味なんでしょうか。
“Here's ~”は先日もご紹介したように、乾杯をする使われる言葉です。
“Here's to our friendship!” 「私たちの友情に乾杯」
“Here's to you!”      「あなたに乾杯」
などと使います。
これは往年の名画『カサブランカ(Casablanca)』(1942年アメリカ)に登場する言葉です。

【関連記事】第233回:“Cheers!”―「乾杯」(日常会話), ジム佐伯のEnglish Maxims, 2015年09月09日

“Here's looking at you.”
も乾杯の時に使われる言葉で、元々は「(神様が)あなたを見ていますよ」という意味です。
ほかにも、
“Here's luck.” 「幸運を祈って乾杯」
“Here's hoping.” 「希望と共に乾杯」
などという言葉があります。

0237-cheers2.jpg
Image courtesy of marin, published on 27 March 2013 / FreeDigitalPhotos.net

また、文末の“kid”は「子供」という意味もありますが、若い女性などに親しみをこめて呼びかける際にも使われます。特に訳さなくてもよいかもしれません。
「君を見つめて乾杯」
といったところでしょうか。


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私も長い間、「判断が難しい」の意味で「悩ましい」を使うのは誤用だと思ってきたが、下の回答者の言葉が本当なら、かえって「セクシーだ」の意味の方が新しい(出た当初は流行語だったか。)用法であるわけで、もはや両方とも正解、でいいのだろう。

(以下引用)

ベストアンサーに選ばれた回答

kir********さん

2011/4/2923:40:22

私も「言葉の商売」をしている者であり、
「女性で年配」でもありますが、
「悩ましい」が、「頭を悩ませる」という意味で
使われることには、いまだ慣れません。
私がこの語を知ったときからかなり長い間、
これはもっぱら「マリリン・モンロー的」意味合いで
使われており、「頭を悩ませる」というような
意味で使われたのを初めて聞いたときには
誤用ではないかと思いました。(20年ぐらい前でしょうか、
時期についての記憶は定かではありません)

しかし、私が生まれる前の古い国語辞典を
引いてみると、「なやましい」に官能的なことを
表わす定義はなく、「頭を悩ます」に近い意味が
並んでいました。
・・・とすれば、私がもっぱらそれだけを知っていた
セクシーな方の意味は、後からつくられた
当時の「新用法」(もしかすると、その当初には
ひどい誤用だ、下品だ、許せない、気持ち悪い、
と評されたかもしれません) だったのかもしれず、
その後また、当初の(古い国語辞典と同様の)
「頭を悩ます」の意味での用法が復活してきた、とも
考えられます。

時間をかけて徹底的に調べれば、変遷の様子が
わかると思いますが、
このように交錯している場合、もはやどちらも
間違いとは言えないでしょうし、現在は
どちらにも使われる語である、ということを
自覚して使うしかないでしょう。
言葉の使い方について、「おかしい、許せない」と感じることの
多くは、「自分が慣れていないものに出会った」ことが
原因です。たいていは、古く、長く使われているほうが
「正統的」ではありますが、必ずしも「慣れたもの」が(たとえそれが
古いものであっても)常に正しいとは限らない、という
自覚も必要だと、自戒を込めて思っています。




なるほど。これは私も疑問に思っていたが、船の上下を引っくり返して見るというのは思いつかなかった。視点の無意識的な固定化は気をつけるべきだ。これはやはり製造現場から生まれた言葉なのだろう。
なお、「キール」からの連想だが、ハワード・キールはミュージカル映画「略奪された7人の花嫁」の主演俳優である。これは略奪婚という不埒なテーマの映画だが、なかなか愉快な作品だ。西洋では有名な、ローマ時代の或るエピソードが元ネタ。




さんがリツイート

船底にあるのに,どうしてkeelのことを「竜骨」と呼ぶのか不思議だった.けれど,船をつくるときに,船底を上にしている状態を見ると,確かに竜の背骨だ.



小田嶋隆のブログからの転載だが、さすがに鋭く的確な分析である。松本人志のヤンキー性が若い人々からの支持の大きな原因だろうし、知的層の松本への嫌悪感の原因だろう。ヤンキーというのは「力の支配」を大前提として受容するものであり、日本の権力構造と親和性が高いのである。民主主義とは水と油だ。もちろん、日本は民主主義国家でもないし法治国家でもない。





2019/07/29

松本人志二題

松本人志氏の動向が注目を引いているようなので、以前、彼について書いた原稿を二本ほどブログ上に召喚することにしました。
寛大な気持ちでご笑覧いただければさいわいです。

いずれも、コアマガジン社が刊行しております「実話BUNKAタブー」という月刊誌に、オダジマが連載している「電波品評会」という1ページコラムのコーナーに掲載したテキストです。

1本目の、「たけしvs松本」が2017年10月号、2本目の「松本vs太田」が2019年7月号の掲載だったはずです。

 

【北野武 vs 松本人志】

 

北野武 vs 松本人志
  北野武 松本人志
言語能力 ☆☆☆☆ ☆☆☆☆
批評性 ☆☆☆☆ ☆☆
教養 ☆☆☆☆ ☆☆
ヤンキー度 ☆☆☆☆☆ ☆☆☆☆☆

 

 上原多香子問題へのフジテレビからの圧力を示唆したツイートや、日野皓正の体罰へのコメントなど、ここしばらく、松本人志の発言が炎上するケースが目立っている。原因は、ひとことで言えば、本人がご意見番のつもりで述べたコメントや、批評的だと思って発信しているツイートが、いちいち凡庸だからだ。
 本稿では、どうしてこんなことになってしまったのかを検証するべく、比較対象として、ご本人のロールモデルと思われる北野武を配した上で考えてみる。
 まず「言語能力」は、両人とも非常に優秀だ。ただ、たけしの言葉が散文的であるのに対して、松本の繰り出す言葉はあくまでも口語的だ。にもかかわらず、「空気読む」「上から目線」「ドヤ顔」といった、現代社会への根源的な批評を含んだ新語は、むしろ松本の口から出てきている。まあ、天才なのだろう。
 とはいえ「批評性」は、たけしの圧勝だ。時事、社会、政治、文化、芸術、歴史など、あらゆる分野に関して、独自の視点を持っているたけしと比べると、反射神経だけでものを言っている松本の言葉はひたすらに浅薄だ。この批評という作業への自覚の欠如が、映画監督としての作品の優劣として如実に露呈している。ステージという一回性の魔法の中で揮発的な言葉のやりとりを繰り返すお笑いの世界では、本人の存在感が批評性を放射する奇跡も起こり得るわけだが、ひとつひとつのカットを意識的に積み上げることでしか創作の質を確保できない映画の世界では、粘り強い思考力と一貫した批評的知性を持たない人間は何も残すことができない。
 三番目の「教養」もたけしと松本では比較にすらならない。口では無頼なことを言いながらも、いたましいまでの勉強家であるたけしとは対照的に、松本は、文字通りの天才として、かれこれ30年以上、自分の才能の上にあぐらをかき続けている。それを可能ならしめた才能の巨大さは、たしかに稀有なものだが、結果としてもたらされている人間としての内容の希薄さは、もはや相方ですらカバーできない。
その点、一定の基礎学力を備えているたけしは、自分に何が欠けているのかを自覚している点で、教養人の条件を満たしている。ほとんど何も知らないがために無駄な全能感を抱くに至っている松本の惨状に、たけしのような人間は簡単には転落しないだろう。
 最後の「ヤンキー度」だが、これは二人とも満点だ。
 多少現れ方は違っているが、二人がヤンキー美学を信奉する人間であり、彼らの持ち前の笑いのセンスが、ホモソーシャルの内部で痙攣的に繰り返される暴力衝動に根ざしたものである点は、みごとなばかりに共通している。腕と度胸と現場感覚を信頼していること、仲間内の信義を最上位に置いていること、肉体性を持たない言葉を信用しないこと、権力勾配のある場所でしか笑いを生み出せないことなどなど、彼らの世界観ならびに人間観は、どれもこれも任侠の世界の男たちの地口軽口から一歩も外に出ていない。
 もっとも、たけしも松本も、お笑いの世界にいたことでヤンキー化したわけではない。むしろヤンキーだったからこそ笑いの世界でチャンピオンになれたのであって、つまりこれは、元来、お笑いはヤンキーのものだったというお話に過ぎない。マッチョでない笑いは二丁目でしか受けない。私は善し悪しを言っているのではない。これは仕方のないことだ。
 近年、深夜帯のテレビで、オネエの皆さんやゲイ的な笑いが存在感を増しているのは、東西のお笑いのキングが、いずれもあまりにもマッチョであることへの反動なのだね。きっと。
(2017年9月9日執筆)

 

【松本人志 vs 太田光】

 

松本人志 vs 太田光
  松本人志 太田光
教養 ☆☆ ☆☆☆☆
独創性 ☆☆☆☆ ☆☆☆
共感能力 ☆☆ ☆☆☆☆☆
人脈形成力 ☆☆☆☆ ☆☆

 

 川崎での無差別殺人事件に際しての、ダウンタウン松本人志のコメントと、爆笑問題太田光のコメントが対照的だったことが話題になっている。松本が「凶悪犯は不良品」という端的な犯人罵倒のコメントを発したのに対して、大田は「そういう思いにかられることは誰しもあって、自分がそういう状態から立ち直ったのは、ピカソの絵に感動したからだった」という自らの体験談を披露している。
 それぞれの言葉への賛否は措いて、この二人が対照的な立ち位置の芸人であることは万人の認めるところだろう。
 まず「教養」だが、これは文句なしに太田の勝ちだ。松本には日本のマトモな大人としての基礎教養が欠けている。一方、太田は勉強家で、日々様々な分野の情報収集を怠っていない。結果として、20代の頃まではたいして目につかなかった両者の教養の差は、50代を迎えて、取り返しのつかない格差となって表面化している。
 次の「独創性」は、松本に軍配があがる。この男の場合、なまじの教養が身についていないことが、かえって余人の追随を許さない独自の発想を生む土壌になっている。一方、太田のネタは、見事ではあっても先人の業績を踏まえたアイディアで、その点で独創性には乏しい。
 三番目の「共感能力」は、他人の気持ちを汲み取ることができるかということなのだが、この点において太田の能力は突出して高い。彼は、金持ちや貧乏人というありがちな設定だけでなく、いじめられっ子や自殺志願者、ブスといった虐げられた人々や、美人、権力者、スターなどなど、あらゆるタイプの人間の内面をかなり正確に自分の中に取り込む能力を備えていて、そのことが彼の不思議な芸域の広さを支えている。一方、松本は他人の気持ちがわからない。わかろうともしていない。もっとも、その松本の一種狷介不屈な決めつけの独特さが、彼の生み出すシュールな芸に生きていることは認めなければならない。練り上げたコントや漫才のアドリブの中で松本が繰り出すどうにも素っ頓狂なキャラクターの面白さは、「決して他人を理解しない」その絶対的に孤立した人間の魂から生まれた鬼っ子のようなものだ。おそらく太田には、これほどまでに規格外れのお笑いキャラを創造することはできない。
 最後の「人脈形成力」は、芸人にとって両刃の剣となる資質だ。自分の周りに支持者や応援団を集めておかないと、演芸の世界で継続的な影響力を維持することは不可能だし、かといって、他人と安易に同調していたら肝心の芸の切っ先が鈍ってしまう。
 両者を比べてみると、50歳を過ぎていまだにオタク気分の抜けない太田は、たいした人脈を築くことはできない。若い連中の面倒を見る度量はないし、誰かの子分になる柔軟さはさらに持っていない。松本は、他人にアタマを下げることのできない男だが、自分より下の立場の芸人のためにひと肌脱ぐことは厭わない。それ以上に、彼の芸風は、仲間とツルむというヤンキーの所作の中からしか導き出されないコール&レスポンスそのもので、その意味で、人脈(あるいは「子分」)こそが、彼の生命線でもある。
 さて、普通に考えて、蓄積や教養を持たない松本の未来は暗いはずなのだが、現状を見るに案外そんなこともない。
 というのも、お笑いファンのコア層が、松本とともに順次老いて行く令和の時代のお笑いコンテンツは、老いたるヤンキーの繰り言あたりに落ち着くはずで、とすれば、松本はやはりメインストリームであり続けるだろうからだ。
 太田は老いない。
 早めに引退すると思う。
(2019年6月6日執筆)

 

以上です。おそまつさまでした。
なにぶん、dropboxからサルベージしたテキストなので、誤字・脱字などはご容赦ください。




これは、数学の命題として、あるいは論理学としてどうなのだろう。
私は、「100%ないとは言い切れない」の対語は「100%ない(と言い切れる)」だと思うのだが。






さんがリツイート

「100%ないとは言い切れない」
の対語は
「100%あるとは言い切れない」
なので、
この手の意見をおっしゃる方とは議論が成立しない。






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