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私は「ハサミ男」を読む前から殊能将之のツィッターが好きで、実に頭のいい人だなあ、と思っていたので、その突然の死が残念でならない。作品としては、「ハサミ男」は傑作だが、他の作品は数作読んだ限りではその域に達していない。まあ、風変わりな味はあった。なお、アブラム・デイビッドスンが好きだったらしく、その作品集の翻訳もしているが、私にはさほどの作家とも思えなかった。殊能氏は独学でフランス語を勉強してフランスの推理小説の翻訳もしていたと思うが、世の中には実に能力の高い人もいるものだ。
ただ、その突然の死の原因(死因)がさっぱり分からないのも不思議である。確か、ツィッターが中断して数日後にその死が明らかになったのではなかったか。とすると、自殺だと思うのだが、ネットで調べられないのは、近親者がその事情について口を閉ざしているのかと思う。




  1. 実は作品を読んだことがないのに、殊能さんをフォローしてたんだよなあ。もっと早く読んで感想を送れば良かった(;_;)

  2. 今更だけど『ハサミ男』(殊能将之著・講談社文庫)を読了。連続殺人鬼「ハサミ男」が、自分と同じ手口で女子高生を殺した犯人を追う、「連続殺人鬼が探偵役」という妙味のある趣向。何を書いてもネタバレになりそうで、ただもう「お見事」と言うしかない。「ハサミ男」を追う目黒西署の刑事たちもいい。



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前に私がイギリス式綴りの「programme」(プログラム)をフランス語みたいと書いたのに少しは納得していただけるだろうか。
なお、語頭(語中のもか?)のHを発音しないのもフランス語の特徴。
ただし、私はフランス語はほとんど知らない。単なるうろ覚えのゴミ知識である。
記事タイトルは数日前に亡くなったアラン・ドロンの記念。ダーバンはまだ存在するブランドだろうか。



俺が言う「ホンマゲ」という店と、嫁が言う「オマージュ」という店が同じ店であることが判明した回。

HOMMAGE(オマージュ)




戦艦大和に関する軍事オタクのスレッドコメントの一部だが、「大艦巨砲主義」の根本的誤りを見事に指摘している。そもそも、巨砲主義というのは、「敵の弾の届かない遠距離から撃って、こちらの弾は相手に当てたい」という素朴な考えだが、移動する相手に遠距離から撃っても、弾が相手に届くころには相手は移動しており、その移動位置を予測して撃っても、まず当たるはずはない。つまり、盲撃ちみたいなものだ。基本を考えただけでも巨砲主義の愚かしさは分かるはずだが、当時の海軍上層部は日露戦争の日本海海戦の幻想に囚われ続けていたのである。




29: 天王星(神奈川県) [BR] 2019/08/13(火) 19:44:39.17 ID:/opGhUAt0
あの大砲は対地攻撃にこそ有効だった
動く標的に長距離で撃っても当たらない

768: ベガ(山城・丹波・丹後國) [US] 2019/08/14(水) 07:23:52.60 ID:W36dbRxh0
>>29
これだわ
ローレンス・ブロックの「泥棒は図書室で推理する」(ハヤカワミステリ 田口俊樹訳)は、文学史的雑学とユーモアに満ちた、気持ちよく楽しい読書体験を与えてくれる本だが、その中で知った雑学。

「プログラム」の英国式表記は「programme」である。

まるで、フランス語か何かに見える表記だ。なお、個人的意見だが、英国式表記の最悪のものは「aero」を「エアー(エアラ、エアロウ)」と読ませるというものだろう。これを、どうして「エアー」と読めるのか、今に至るまで理解も納得もできない。なぜ「ea」ではなく「 ae」の語順なのか。
なお、英国の単語の発音と綴りの結びつきが滅茶苦茶であることはG・B・ショーが痛烈に皮肉っていて、「fish」という単語をまったく別の表記で書いてみせているが、その綴りは覚えていない。

ついでに書いておくが、上記の本の訳はユーモア的な部分の訳など上手いもので満足すべき訳だが、ところどころ理解不能な訳文があったりする。
たとえば、殺人事件が起こるホテル(みたいなところ)で出会うレズカップルについて

「ハーデスティはいかにもお尻ぺちゃぺちゃのタチって感じだし、ディンモントのほうは受け身が好きなネコ・タイプじゃないの」

という発言が書いてあるが、その「お尻ぺちゃぺちゃの」の意味がまったく分からないのだ。どういう意味なのか。「ぺちゃパイ」なら「ぺちゃんこのオッパイ」ということで貧しい胸の女性だと誰でも分かるが、それがお尻の話で、しかも「ぺちゃぺちゃ」と畳語になると意味不明になる。(なお、レスビアンカップルの「タチ」と「ネコ」は常識だろう。)
「ぺちゃぺちゃ」は何かを手の平で叩く時の擬音としてしか聞いたことが無い。ここでは擬態語であるようだが、「ぺちゃぺちゃのお尻」とはどういうお尻なのか。
久しぶりに歴史ネタで、「中臣鎌足は百済王子豊璋である」という説だが、その理路はなかなか納得できる。特に、「白村江の戦い」の間の中臣鎌足の「歴史的(史書的)」不在は、証拠として有力だ。

(以下「ヤフーニュース」から転載。)


日韓「半島外交」失敗の歴史で見える「中臣鎌足」の正体

8/8(木) 6:00配信

新潮社 フォーサイト

 徴用工問題や半導体材料の輸出管理強化などをめぐる問題で、日韓が対立し、関係は極端に冷え込んでいる。

 日本側にも責任がある。要求すべきは要求し、拒否すべきは拒否するという「まっとうな外交」をしてこなかったツケが、亀裂を生む結果となった。もちろん、妥協も大切だが、ここは「当たり前の外交」を貫いて欲しい。


■「百済はよく嘘をつく」

 古代のヤマト政権も対半島外交に苦しみ、失敗を繰り返している。たとえば欽明23年(562)に、もっとも大切な同盟国・伽耶諸国(任那)が滅亡してしまったが、ここに至るまで、ヤマト政権は稚拙な外交を繰り返したし、伽耶はヤマト政権を深く恨んだ。日本外交史の汚点と言っていい。

 伽耶滅亡の遠因は、4世紀末から北方の騎馬民族国家・高句麗が南下政策を採りつづけたことだ。百済と新羅は領土を侵食され、南側の伽耶に食指が動きはじめた。

 この間ヤマト政権は、伽耶の利権を守るために、朝鮮半島出兵を繰り返した。伽耶は貴重な鉄の産地だったからだ。また、倭の海人たちは、伽耶周辺の多島海を足がかりにしていた。

 しかしヤマト政権は、伽耶を守ることができなかった。原因ははっきりとしている。ヤマト建国後7世紀に至るまで、ヤマトの王に実権は与えられず、朝鮮半島に遣わされた遠征軍も、豪族の私兵の寄せ集めだったからだ。外交も一元化できなかった。

『日本書紀』推古31年(623)是歳(このとし)条に、象徴的な記事が載る。

 新羅が任那(伽耶諸国)を攻撃すると、任那は新羅に靡(なび)いた。そこで天皇は新羅を討とうと考えたが、蘇我系の重臣は、「まず視察して状況を確かめるべきだ」と、慎重論を展開し、新羅の肩をもった。これに対し中臣氏は「軍備を整え、新羅を討ち任那を奪い返し、百済に帰属させたい」と主張した。中臣氏の献策は退けられ、新羅に使者が向かった。ところが、このあと中臣氏らは新羅に遠征を始めてしまい、蘇我系重臣たち慎重派の面目は潰されてしまった。ここに、豪族間の意識の差が表れているし、外交の混乱が表出している。またこの時、蘇我系重臣は、「百済はよく嘘をつき信用できない」と酷評している。ヤマト政権は、狡猾な百済に、何度も煮え湯を飲まされていたようだ。


■蘇我入鹿暗殺の黒幕

 ヤマト政権が一枚岩でなかったことは、連載中述べてきたとおりだ。ヤマト建国時の主導権争いで、瀬戸内海勢力と日本海勢力は相容れぬ仲となり、それぞれが朝鮮半島に独自のパイプを構築していった気配がある。物部氏や中臣氏を中心とする瀬戸内海勢力は、北部九州から朝鮮半島南西部(伽耶と百済)を経由して中国に向かうルートを確保した。「物部」の名の役人が百済で活躍していたことも分かっている。古墳時代のヤマト政権の外交政策は、物部氏が主導する「百済重視策」だった。かたや劣勢に回された日本海勢力は、5世紀後半まで逼塞する。

 問題は、後進地帯だった新羅が、5世紀後半から7世紀にかけて力をつけ、逆に百済が、衰退していったことなのだ。そして、新羅の成長が日本海勢力の復活を促し、そのあと押しを受けた蘇我氏が、新時代を切り開いていく。蘇我政権は隋や唐に使者を送る一方で、それまでヤマトと敵対していた高句麗や新羅と親密な関係を構築したのだ。そして、この段階でヤマトの「変節」に焦っていたのが、体力を落とした百済だった。

 百済は、ヤマトの外交方針を変えるために禁じ手を使ったようだ。それが乙巳の変(645)で、百済に冷淡な蘇我入鹿を殺したのだ。

 証拠はある。乙巳の変のあと成立した親蘇我派の孝徳政権は、突然同盟国だった百済を「スルー」しはじめる。中国に使者を送るなら百済の西海岸を経由するのがもっとも便利なのだが、新羅から陸路を通り、百済の北側の海岸に出るようになった。これは国交断絶であり、その理由は蘇我入鹿暗殺の黒幕が百済だったから、と推理すれば、辻褄が合ってくる。

『日本書紀』に、怪しい記事がある。蘇我入鹿暗殺を目撃した親蘇我派の古人大兄皇子は自宅に駆け戻り、「韓人(からひと)が入鹿を殺した。胸が張り裂けそうだ」と絶叫している。「韓人」を直訳すると、「外国人」となる。しかも、朝鮮半島の人間をさしている可能性が高い。ただし『日本書紀』は、「韓人」を「韓政(からのまつりごと)のこと」と説明している。

 こういうことだろう。「蘇我入鹿は半島人に殺された」と巷間では噂され、『日本書紀』編者はそれを「外交問題が原因で蘇我入鹿は殺された」と説明し、お茶を濁したにちがいない。韓人が入鹿を殺したことは、秘密にしたかったのだろう。『日本書紀』は親百済派の歴史書なのだ。


■百済王子・豊璋

 入鹿暗殺の主犯中大兄皇子と中臣鎌足は、孝徳天皇が亡くなり実権を握ると、外交政策を転換し、一度滅亡した百済に救援軍を送りこんでいる。民衆が「負けるに決まっている」と非難を浴びせる中での、遠征強行だった。当然大敗北を喫した。いわゆる白村江の戦い(663)だ。

 それにしても、なぜ中大兄皇子と中臣鎌足は百済救援に固執したのだろう。連載中述べてきたように、人質として来日していた百済王子・豊璋(ほうしょう)が親百済派の中臣氏の系譜に潜り込み、中臣鎌足を名乗ったのだと筆者は考えている。豊璋が衰退していく百済を救うために、邪魔になった蘇我氏を、滅ぼそうと考えたのだろう。

 豊璋が中臣鎌足だった証拠は、いくつも掲げることができる。

1.豊璋の来日は舒明3年(631)、かたや中臣鎌足登場は皇極3年(644)のことで、ふたりは同時代人だ。

2.白村江の戦いの間、豊璋は百済にもどっていたが、中臣鎌足は歴史から消えてしまう。中大兄皇子の人生最大のピンチに、中臣鎌足はなにをしていたのだろう。豊璋となって百済に帰っていたのではなかったか。豊璋はこの戦いで行方不明になるが、中臣鎌足はそのあと何食わぬ顔で、『日本書紀』に再登場している。

3.中臣鎌足の墓・阿武山(あぶやま)古墳(大阪府高槻市)から「織冠」が出土したが、歴史上織冠を下賜されたのは、豊璋と中臣鎌足だけだ。問題は、阿武山古墳が百済の王墓と同じ様式だったことで、日本では他に例がない。なぜ日本の神を祀る家に生まれた中臣鎌足が、百済式の墓を選択したのだろう。

 中臣鎌足は豊璋と断定してよいと思う。


■玉座に目が眩んで

 蘇我入鹿が殺された7世紀半ば、百済国は必死に生き残りの道を模索していた。最後にすがることができるのは、ヤマトだけだったのかもしれない。しかし、「百済人は嘘をつく」という認識があったのだから、そんな国と心中する必要はなかったし、多くの民が、百済救援は無謀だと気付いていた。一歩間違えれば、日本はこの時滅びていたのだ。

  それにしてもなぜ、中大兄皇子は中臣鎌足(豊璋)と手を組んだのだろう。蘇我氏が弟の大海人皇子を将来の皇位継承候補と期待していたからだろう。「蘇我入鹿を殺せば即位できます」という中臣鎌足のそそのかしに、中大兄皇子は乗ったのだろう。玉座に目が眩んで、蘇我氏の築き上げた東アジアの絶妙なパワーバランスと精密なネットワークを破壊してしまった。

 こうして、ヤマト政権は、7世紀の外交戦も失敗してしまったのだ。原因は、政権内部の主導権争いであり、そこを海外の工作員たちに、つけ込まれた形になった。これは、古代だけの話ではない。現代でもわれわれの知らない間に、さまざまな国のロビー活動や「工作」が行われているはずだ。日本人は島国のお人好し(世間知らず)だから、用心に越したことはない。

関裕二

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