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鮎川哲也「モーツァルトの子守歌」読了。短編集で、アシモフの「黒後家蜘蛛の会」にそっくりだが、こちらのほうが古いのではないか。まあ、筆者の言ではクィーンの「クィーン検察局」を真似たものらしい。
もっと有名になってもいいような優れた連作だと思う。トリックの合理性や自然さは、他の「本格派」と一線を画している。語り口が庶民的なのが、「本格派好みの気取り」を排しているので、人気が無いのだと思う。何しろ、語り手の探偵がただのスケベ親父なのである。ファイロヴァンスのように気取りに気取りまくった「神のごとき名探偵」か「美青年・美中年」名探偵でないと、本格派ファンには受けないのだと思う。
さて、「クライン氏の肖像」は、「禁煙」と「闇の中の盗難」がうまく結びついていてあざやかな解決だった。「真の犯罪は『事件』の前に既に終わっていた」というのもうまい解決で、これはいろいろほかにも使われた手法だと思うが、「問題の解答」として説得力がある。
「ジャスミンの匂う部屋」も、読者が事件の記述を空間的に把握しにくいという弱点をうまく利用した鮮やかな解決である。
「写楽昇天」も「クライン氏の肖像」と同じく、「真の犯罪は『事件』の前に既に終わっていた」パターンだが、ここでも読者は騙されるだろうし、この2作の共通性は、今考えてやっと気が付いたものである。つまり、作者の力量に読者は翻弄されるわけだ。
「人形の館」は、事件の真相の解答が私には理解できない。何となく誤魔化されたような印象が残る。つまり、事件の手法が込み入りすぎているのではないか、と思う。
「死にゆく者の……」は、事件のポイントと思われていた暗号が何の意味も無かったという肩すかしの解答で、殺人犯の解明は特に何の証拠も無しに、誰それだ、と指摘されるという不親切さである。これはこの作品集の中で一番の愚作だと思う。
「風見氏の受難」は、推理コントといった趣き。チェスタトンの短編(「見えない男」など)の道具立てを日本風に泥臭くしたような感じである。「謎の解明」は、「百歩譲って、そういう「正解」もまったく可能性が無いとも限らないが、現実にはとてもありそうもない犯罪だなあ」という感じ。
「モーツァルトの子守歌」も、「真の犯罪は『事件』の前に既に終わっていた」パターンであるが、この作品がそうであるのに気付いたのは、これを書いている今である。「解答」の自然さ、合理性のために、なかなかそうした「構造面」まで深く考えるには至らない、つまり批判精神を呼び覚ますような「不合理性」が自然に排除されているわけだ。

結論を言えば、「推理小説読者の反感や批判精神を呼び覚ますのは、作品の不合理性と不自然さである」ということだろう。いかにキャラクターが上手に描かれていても、「謎」とその「解明」がクソなら、その推理小説はクソだ、と本当の「本格探偵小説」ファンは思うのではないだろうか。そして、現代の本格派は、キャラ作りに血道を上げて、謎とその解明が実に幼稚である、というのがこれまで読んだ限りでの私の感想だ。読むこと自体に努力を強いるような作品に関しては、読んだこともないから何とも言えないが、「読み辛すぎる」というのは、それだけで最大の欠陥だと私は思っている。島田Sジとか。

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