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長谷川法世「走らんか!」の感想。
ある意味、完璧に作られた小説世界だが、その存在意義が分からない。
つまり、ここまでリアルな「もう一つの現実」を作り、それが「ある種の小説読者には嫌悪感をもたらす小市民たちの世界」であるなら、そういう小説世界を作ることの意味は何か、ということだ。何より、博多の男や博多の女に対する作者の没入感(肯定的姿勢)が不快感を与える。ところが、そういう不快感を与えかねないことも作者は承知しており、その世界(博多意識)への批判もちゃんと描いているところに、「先回りして批判を封じられた」感じが読み手に残るのである。
実に実に嫌な気分なのである。これを読んで、博多という世界が大嫌いになったのだが、なぜ嫌いになるのか、分からない人には分からないだろう。たとえて言えば「ふんどしをつけた男の尻」を目の前に突き付けられたような不快感だ。実際、褌男の描写も作中にあるのだが。
しかし、小説としては完璧なのではないだろうか。作者の本業であった漫画よりも上手い。リアリズム文学として、完璧である。ただ、「現実と等身大の人間たち」が角突き合わせる小悲喜劇を読むことに、私は小説を読む価値を見いだせないのである。まあ、花登匡の作品が私は昔から嫌いだったが、多分私は小説の中に実人生の匂いを感じること自体が嫌なのだろう。小説自体が卑小化されたような嫌な気分になる。
19世紀から20世紀初頭にかけてのイギリス文学には、そういう卑小さがまったく無い。ある意味、「小説の面白さ」をひたすら追求したからこそ、そういう卑小さを振り捨てたのではないかと思う。要するに、「生活などは召使いに任せておけ」ということだ。これは、「生活よりももっと高尚なものが世界にはある」ということでもある。それが「生活など」という、生活を低く見る姿勢である。恋愛ですら、「ただの生活」でしかないこともある。ベートーベンの「第七交響曲」が世界に出現するためだったら世界の他のすべてが失われても良かっただろう、と私はかつて思ったことがあるが、芸術だけが「至高のもの」というわけでもない。
いずれにしても、人間を低い地上に縛り付けるもの、すなわち「生活」が「走らんか!」の通奏低音のように、読んでいる間私を不快にさせたのである。
三島由紀夫が「楢山節考」を読んでいる時に感じていた不快感もまた、「お前はただの人間にすぎない」という悪魔の嘲笑だったのではないだろうか。



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