ベストアンサーに選ばれた回答
2011/7/2918:49:47
教義だけですが、「お気楽暮らし」をもっとうにした生活を、やらせるみたいです。
ぶっちゃけて言えば、「笑う門には福来る」が教義で、苦悩や病気になって落ち込んだ時こそ、大笑いすれば心も活き活きして来るといっていますね。
ある意味正解かもですが、仏法の色心不二論をちょっこし真似たものですが、仏法はまず心が第一ですから、考えが逆ですね。
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2011/8/414:12:16
2011/7/3116:21:08
編集あり2011/7/3012:18:38
朝夕、おつとめをします。これは心の埃を払うためのものです。
日々心につもる八つのほこりを払って、世界一れつの陽気ぐらしを目指します。
この朝夕のおつとめは時間にすれば10〜15分程度です。
教会本部や、それぞれの教会、詰所では月に一度、十二下りといって
一時間以上かかるてをどりを行います。
天理高校では授業でこれを習いますが、入学前から
これが全てできる子弟は尊敬の眼差しで見られます(笑)。
赤衣(あかぎ)のおまもりや、おさづけの理を拝戴しようとしたりすると
数千円のお供えが必要ですが、おつとめをするだけならお金はかかりません。
「お金があるからお供えするのではなく、ない中からお供えするのが信仰や」
と言われたこともありますが強制ではありません。
教会本部の教祖殿というところで結婚式を挙げることができまして
それに関しても必要なのは確か1万円程度だったと思います。
お着物やお化粧は別途ですが。
何事も強制しないのが天理教です。
とはいえ、信者さんからの多額のお供えのおかげで
天理幼稚園〜天理大学は私立の割に安い授業料で
学校教育を受けられるのも事実です。
そして、中にはあまり好ましくない言動のある
信者さんや会長さんもおられます。
勧誘がしつこいということはもしかすると、
おさづけの理や修養科(3ヶ月天理に泊り込み、13万円程度)も
しつこくすすめられてくるでしょうから、
その人から繋がることは注意した方がよいと思います。
人と関わらずにとりあえず天理教を知ってみたければ、
天理教教典をおすすめします。天理教三大原典の一つで
そんなに厚い本でもありませんので。
◎補足後。
一回入るというのは、勧誘してくる人に付いて教会へ
足を運んだりすることだと思いますが、
信仰するもしないも自由とは言っても断りづらくなるかとは思います。
勧誘(にをいがけといいますが)には二通りあって
身体的、精神的に問題を抱えている人になんとか助かってもらいたいと願ってする場合と
天理教の本道から外れるのですがお金儲けのためにする場合…。
後者は、言わずもがなその人に関わってはいけません。
前者の場合、実際に身上・事情を助けられた方は
自ずと信仰するようになっていくのでしょうけど
自分には必要ない、と思うならはっきりと断るべきでしょうね。
私自身は天理教のネガティブな部分に出遭ったことがないですが
どんな人を介して入信していくかというのは重要だと思います。
言い忘れましたが、私は信仰していますが普段は
おつとめ含め何の活動もしていません。
ただ「あの人はなんだかマメで優しくていいなぁ。あ、へぇ、天理教なの。」
と、天理教に悪いイメージを与えない努力はしたいと思っております。
非常に長々と失礼致しました。
smynm_hさん
編集あり2011/7/3013:38:22
私の家は天理教教会です。
信仰ゎさまざまで、あまり信仰してない方、離れた方がいらっしゃいます。
高校生の頃、私は教会の娘で凄く嫌でした。
おつとめするし、鳴り物の音聞こえるし、信者さん達来たら挨拶しないけないし…。
何もかも嫌でした。
けど今ゎ天理教が大好きで信仰しています。
信仰しようと思ったのは、天理にある本部に帰って、心が落ち着いたからです。
何とも言えない気持ちになり、心がすっきりして嬉しかったのを今でも覚えています。
天理教は神様に導かれて、不思議なご守護頂きその感謝の気持ちを込めて、陽気ぐらしをしています。
陽気ぐらしとは、みんなが楽しんで陽気な心で生活することです。
今私は普通に働いてます。
信仰はあまりしていません。
自分が陽気に低い心になって、人と接する事でみんなも陽気になってくれたらなぁ~と思っているからです。
信仰ゎ人それぞれだし、形もさまざまです。
金銭に関してですが、天理教は強制ではありません。
自分の心次第でお供えしています。
何円以上ってのはありません。
ご安心下さい\(^ー^)/
長々となってしまいすみませんでした。
もし何か分からないのがあれば、いつでも言ってください。
私でよければ、お答えさせて頂きます\(^ー^)/
補足について
信仰は強制ではないので、いつでも離れる事が出来ますょ
(追記)ウィキペディアから転載。いい教えだと思う。仏教ではなく神道のひとつとなるのだろうが、現在の「葬式仏教」の百倍いい。ただ、用語がダサイから、現代では流行らないだろう。
教義・教理[編集]
天理教の教典の一つである『天理教教典』の第三章「元の理」には、天理教の根本教義が示されており、「この世の元初まりは、どろ海であった。月日親神は、この混沌たる様を味気なく思召し、人間を造り、その陽気ぐらしをするのを見て、ともに楽しもうと思いつかれた。」と書かれている[14]。親神が人間を造ったのは、泥海と表現されるような混沌と化した状態であった世界を面白くなく感じて、人間が明るく勇んで暮らす「陽気ぐらし」を見て、人間とともに「よろこび」「たのしみ」たいと思ったからであり、親神の守護と恵みにより、人間は生かされており、天然自然が存在すると説かれている[15]。人間の役割は、親神が見たいと説く陽気ぐらしの実現にほかならず、親神によって生かされているという謙虚な気持ちを持ち、欲を捨て、嘘をつかず、平和で豊かな世界を目指すことが重要であるとされる[14]。
改訂天理教事典によれば、天理教には「この世は神のからだ」、「いちれつ兄弟姉妹」、「身の内のかしもの・かりもの」、「ほこり」、「いんねん」の主に5つの教理が存在する[16]。 このうち「この世の中は神のからだ」「身の内のかしもの・かりもの」「ほこり」は中心的な教説であり、この世の中は親神の守護の世界であり、人間の身体的生命(身上)をはじめとして、一切の物事は親神の「かしもの」であり親神からの「かりもの」であるという天理教独自の教理が存在し、心だけが自分のものとして自由に使うことが許されているとされる[14]。親神の教えに反する心遣いを埃(ほこり)にたとえて「ほこり」と呼称し、心の使い方次第でこれがたまると説き、自己中心的な心遣いを慎むよう、また親神の思いにそって身体を使うことが重要であり、常日頃から「ほこり」を払う(掃除)ように説いている[17]。 「いちれつ兄弟姉妹」の教えでは、人間はすべて親神天理王命を親とする同一兄弟姉妹であるとされ、互いに助け合い信心和楽の陽気世界の実現を目指し、弛むことなく努力を続けるべきだとされる[18]。天理教のこの教えは、キリスト教の「隣人愛」や「兄弟愛」に類似する点があるが、天理教では単に同信、同宗のみならず、他宗教や敵対する人々も兄弟姉妹とみなしており、その点では異なる[19]。 「いんねん」(因縁)は元は仏教用語ではあるが、天理教での教理としては現在の事象が過去の事象に基づいて存在する場合や過去の事象をさす一般用法に近いとされる[20]。天理教ではうまれかわりが教義として存在するため、因縁は一代かぎりではなく、前世のもの、あるいは末代の理とされ、陽気暮らし世界実現のために人間を創造した親神の「元のいんねん」を自覚し、懺悔し、その悪しき心遣いといんねんを納消しなければならないととかれている[20]。
また、天理教では人間社会の根本的な基盤として親子・夫婦関係が重要視されている[21]。人間創造の経緯を示した「元初まりの話」や[注 9]、教典のひとつでもある『みかぐらうた』の中にも夫婦について言及した部分は多い。 結婚観については基本的に男女の両性が愛し合うことが前提とされており、2015年度に発行された信仰の指導文書である『諭達』でもその保守的な立場を堅持している[18][21]。離婚についての否定は存在せず、教典『おさしづ』には夫婦の縁は切れても、「いちれつ兄弟姉妹の理」は忘れてはならないとの記述がある[21]。
天理教は来世観を持たない数少ない宗教であり[要出典]、「かしもの・かりものの理」があるため、誕生は親神から体を借りることであり、死は借りた体を返すだけであるという死生観が存在する。教義では、死ぬことは終わりではなく最初から新しく「出直す」のであり、死は「出直し」と呼称される[22]。体を借りる主体者は「魂」(心)であり、その実在の場は「この世」以外にないとし、主体者である自己の同一性は魂によって存続すると説かれている[22]。
「人たすけたらわがみたすかる」という教祖の言葉が重んじられるように、天理教では「人助け[注 10]」が基本理念にあり、それは「自らが真にたすかる道」とされている[18]。
信者の積極的な神恩報謝の行為をすべて「ひのきしん(日の寄進)」と呼ぶ。「ひのきしん」は天理教信仰を具現化、行為化、した姿そのものであると説かれている[23]。日々健康に生きられることを親神に感謝し、その感謝の意味を込めて、親神のために働くことをいう。歴史的には天理教草創期から存在し、元治元年(1864年)の「つとめ場所」の棟上げからはじまり、その後の神殿や教祖殿、「おやさとやかた」など教団関係施設の建設の普請につながっている。現在では、教会本部や傘下の一般教会での清掃活動をはじめ、地域における奉仕活動、災害時における「災害救援ひのきしん隊」の派遣などが行われている[23]。
天理教の祭典の中心の行事となるのが「つとめ」であり、幾つかの種類が見受けられる。教義上で最も重要とされるものは親神天理王命に「たすけ」(救済)の実現を祈る「つとめ」であり、その中でも「神楽面」を被り「元初まりの理」や親神の守護の様子を表現する「かぐらづとめ」は特別視され、現在では教会本部でしか行われておらず、一般教会で面をつけることは禁止されている[24][注 11]。一般教会でも執り行われるのが「てをどり」と呼ばれる「つとめ」であり、『みかぐらうた』の「十二下り」をつとめる。これは親神への感謝を捧げ、世の中が陽気世界への建て替わっていくことを祈ることを意味している。「かぐらづとめ」は12通りあるものの、現在ではほとんどの場合そのうちの一種類が行われ、これと「てをどり」をあわせて「よろづたすけのつとめ」と称している[24][注 12]。