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豊田有恒(一般的にはSF作家として知られているだろう。)が壬申の乱を描いた「大友の皇子東下り」を読んだのだが、壬申の乱について私が興味深く思っていた様々な「謎」がうまく(合理的に)説明されていて、「歴史考察小論」としては非常に面白かった。特に朝鮮との関係の説明は学者(小林恵子ほか数人を除く、「正統派」の学者)の書いた「壬申の乱」論にもほとんど出てこない、有益なものだ。
小説としてはさほど面白いとは思わない。と言うか、興味を感じない部分(エロシーンやアクションシーン)はほとんど読み飛ばしたので、小説としての評価は私にはできない。まあ、ちらりと読んだだけだと、読む価値は無さそうに見えた。
「歴史考察小論」としては、かなり優れたものだと思うので、なまじ小説にしたから誰からも相手にされない作品になったのではないか。同じ小説家として、井沢元彦だけが豊田有恒の考察に言及した程度だろう。
だが、あれほど興味深い「壬申の乱」が、小説になるとこの程度にしかならない、ということが分かったのは収穫と言えば収穫である。壬申の乱の面白さは、謎の解明にあるわけだ。ならば、その謎の解明過程をこそ描くべきであり、小説部分はまったく余計ということになる。
つまり、私が壬申の乱を小説仕立てにしようが、脚本仕立てにしようが、歴史マニア以外はまったく興味を惹くこともなく、また歴史マニアであれば、そのフィクション部分には批判的な目しか向けないだろう、と予測できるわけだ。
これが、壬申の乱がこれまでほとんどフィクション界と無縁だった理由だろう。もちろん、「天皇家タブー」に触れるというのも大きい。

なお、同作品中の指摘として、「高市の皇子、大津の皇子が近江京を脱出できたのは、(大海人皇子の娘で大友皇子の妻である)十市の皇女が手引きしたからだ」というのは、言われてみればその可能性は非常に高い、と思った。また、壬申の乱の間中、十市の皇女が近江朝廷側の情報を常に大海人皇子に流していたとしたら、この乱が大海人皇子側の一方的な戦いになった理由も分かる。

作品の欠点としては、大海人皇子は忍者だったという説を根幹にして、作品全体がまるで山田風太郎か漫画の忍者物みたいになっていることだ。もちろん、大海人皇子が遁甲を学んだというのは日本書紀にも明記されているが、その遁甲を完全に「忍術」としているのはどうかと思う。
しかし、大海人皇子が中大兄皇子の影の存在として様々な暗殺に携わってきた、という説は面白い。べつに忍者だろうが無かろうが、暗殺を彼が行ってきた、というのは「剣と鏡」の大筋として使えるだろう。もちろん、大海人皇子の方が年長で、高向王(皇極女帝の先夫)の子供、という説を豊田も採っている。


(追記)下のウィキペディアの説明にあるように、遁甲は占術・呪術であり、忍術ではない、というのが一般的理解であり、私もそれに与する。


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奇門遁甲(きもんとんこう)は、中国の占術。「式占」の一種である。「六壬式」「太乙式」と合わせて「三式[1]の一つであり、遁甲式(とんこうしき)とも呼ばれる。奇門遁甲の創始伝説によると黄帝蚩尤と戦っていた時に天帝から授けられたとされる。奇門遁甲を解説した詩賦である煙波釣叟賦では呂尚前漢張良によって作盤方法の整理が行われたとされる。三国時代諸葛亮なども用いたとされるが、これは稗史小説の域を出ない。紀昀の『閲微草堂筆記』によれば、奇門遁甲の真伝は単なる占術ではなく呪術の要素も含んでいたようである。














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