(以下引用)
日露戦争終結後、国際的緊張関係は緩和に向かい、1905年(明治38年)には東京で中国同盟会が結成されるなど民主主義的自由の獲得を目指した運動が本格化していった。一方、アジアで数少ない独立国で、かつ唯一「五大国」に入る先進工業国かつ資本主義の急速な発展と成長は、日本の国民に政治的・市民的自由を自覚させ、様々な課題を掲げた自主集団が設立され自由と権利の獲得、抑圧からの解放に対して声高に叫ばれる時代背景ができ上がっていった。
このような状況の中で、1911年(明治44年)に清朝の四川省で発生した鉄道国有化の反対運動をきっかけとして辛亥革命が勃発し、中国革命同盟会が中核となった革命軍は、翌1912年(民国元年、大正元年)に清朝を倒して中華民国を樹立した。この中国情勢の混乱を勢力圏拡大の好機と判断した陸軍大臣の上原勇作は、第2次西園寺内閣に対し朝鮮半島に2個師団を新設するよう提言した。しかし西園寺は日露戦争を要因とした財政難や国際関係の問題などを理由に拒否した為、上原は軍部大臣現役武官制を利用して西園寺内閣を内閣総辞職へ追い込み、陸軍主導の内閣を成立させようと画策した。
こうした背景の中、長州藩閥出身で陸軍の影響力が強い第3次桂内閣が組閣された。この桂内閣に対し国民世論の批判が高まり、また衆議院でも衆議院議員の尾崎行雄や犬養毅らが藩閥政治であるとして桂内閣を批判し、1912年(大正元年)、「閥族打破・憲政擁護」を掲げた第一次護憲運動が展開され、桂内閣は組閣してからわずか53日で内閣総辞職に追い込まれた(大正政変)。続いて設立された立憲政友会を与党とする第1次山本内閣は軍部大臣現役武官制の廃止など陸海軍の内閣への発言力を弱める改革に着手したが、海軍高官の贈賄事件(シーメンス事件)の影響により再び国民の批判を招き、1914年(大正3年)に内閣総辞職を余儀なくされた。
大正デモクラシーの流れ[編集]
民本主義と天皇機関説[編集]
1913年(大正2年)、石田友治らによって言論雑誌『第三帝国』が刊行され、また第一次世界大戦下の1916年(大正5年)には東京帝国大学の吉野作造により民本主義による政治が提唱された事(「
また吉野・美濃部の両人に加え、中央大学出身の長谷川如是閑や早稲田大学出身の大山郁夫といったジャーナリストや学者の発言も在り方に大きな影響を与えた。
米騒動[編集]
1917年(大正6年)のロシア革命に端を発して、同盟国のイギリスやアメリカの要請を受けて寺内内閣により第一次世界大戦終結直前の1918年(大正7年)7月12日にシベリア出兵宣言が出されると、需要拡大を見込んだ商人による米の買占め、売惜しみが発生し米価格が急騰した。
そのような中、富山県で発生した米問屋と住民の騒動は瞬く間に全国に広がり(米騒動)米問屋の打ち壊しや焼き討ちなどが2ヶ月間に渡り頻発した。
日本初の本格的政党内閣[編集]
戦争による格差の拡大、新聞社に対する言論の弾圧などの問題を孕んだこの騒動は9月21日、寺内内閣の総辞職をもって一応の収まりを見せ、ついに「平民宰相」と呼ばれた原敬による、日本で初めての本格的な政党内閣が9月27日組織されるに至った。
第二次護憲運動[編集]
1923年(大正12年)12月27日に発生した、難波大助による摂政裕仁親王狙撃事件(虎ノ門事件)により、当時の第二次山本権兵衛内閣は総辞職に追い込まれ、枢密院議長であった清浦奎吾の内閣が発足した。しかし清浦内閣はほぼ全ての閣僚が貴族院議員から選出された超然内閣であり、国民の間で再び憲政擁護を求める第二次護憲運動が起こった。
その結果立憲政友会・憲政会・革新倶楽部の護憲三派からなる加藤高明内閣が成立し普通選挙法が制定され、財産(納税額)によって制限される制限選挙から、満25歳以上全ての男子に選挙権が与えられることとなり、アジアで初の男子普通選挙が実現した。
しかし同時にロシアでソ連が誕生したことにより、国民の一部に赤化(共産主義)思想が広まり、共産主義革命の発生や、天皇制及び国家神道の動揺を懸念した政府は、治安維持法を制定し、共産主義的な運動に対しては規制がかけられる形となった。
後世の評価[編集]
大正デモクラシーは戦後民主主義を形成する遺産として大きな意味を持ったと指摘する論者もライシャワーをはじめ数多い[2]。また、石橋湛山は自著『大正時代の真評価』において大正時代を「デモクラシーの発展史上特筆大書すべき新時期」と評価している。
一方で、この思想を基本とする保守派知識人達(具体的人物は吉田茂、岡崎久彦)は戦後世代から「オールドリベラリスト」(古典的自由主義者)と呼ばれる。