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 漱石の『文学論』の「滑稽的連想」による小論

 

 ある表現に対する聞き手や読み手の反応は、その表現の内容による部分と、音韻による部分があるが、音韻による連想が内容による連想と不調和を醸し出した時に、滑稽感が生じることがある。これが洒落・地口である。もちろん、音韻に無関係に、内容の対比による滑稽感もある。たとえば、「提灯に釣り鐘」は、どちらもぶら下がる物というだけの共通性しか無く、ただその一点で、軽い提灯と重々しい釣り鐘が並列されたことが聞き手に滑稽感を催させるのである。また、対比ではなく連続の意外さが滑稽感を生む場合があり、「恐れ入谷の鬼子母神」は、「恐れ入った」という言葉で終わるかと思っていたのが、「入谷」と続き、さらに「鬼子母神」と続く、その意外感がこの洒落の生命だろう。つまり、「入り」から「入谷」と続いた勢いでとんとんと「鬼子母神」が出てくるところが面白いのである。鬼子母神に何かの意味があるわけではない。

 

 一般に、滑稽感とは、何かの心理的落差によるものだと仮定しよう。言い換えれば、「期待された内容」と「実際の内容」の落差から生じた心理的な浮遊感が滑稽感の正体であるとしてみよう。

 我々は、謹厳な紳士にはそれにふさわしい言動・威厳を期待する。その紳士がこければ、見ている人間はその威厳の失われた状態と、その前の威厳との落差に滑稽感を覚えるのである。「こける」ことが喜劇の基本であるのは、それが、一瞬でその人間の状況を「喜劇的状況」に変えるからである。すべて失敗が喜劇的であるのも、同じ原理だ。

漫才では、話す内容が滑稽である場合と、話す当人が笑われる場合がある。後者は身体的条件、口調、表情などが笑う理由となる。

 落語家の場合は、当人自身が笑われるというよりは、純粋に話す内容によって笑わすのが基本である。だから、林家三平や桂枝雀などは異端であったと言える。

 身体的条件によって、すでに笑いの対象となる場合があるということは、前に述べた「心理的落差」が滑稽感の原因だという説に反するように見える。しかしこれは、社会の気風による習慣的条件づけにしかすぎない。ある風貌や身体的条件が笑いの対象になるかどうかは、固定的なものではない。肥満体が威厳の条件の一つであった時代もあったのである。一つだけ重要な事実を言えば、風貌が笑いの対象となる存在は、「愛すべき存在」とか「無害な存在」と理解されているはずである。それを逆手に取って、たとえばピエロの格好・メーキャップをした人物が凶悪な殺人鬼であった場合などは、その落差は滑稽感ではなく恐怖感を増幅することになる。恐怖と笑いは実は無縁のものではないということだ。

 心理的落差の簡単な例は、漱石の『吾輩は猫である』の冒頭だ。「吾輩」という自称の語は、偉人豪傑が使いそうな威張った印象の言葉だが、その後に「猫である」と続き、しかも「名前はまだ無い」と来る。飼い主から名前もつけられていない程度の猫が「吾輩」と名乗るその落差が滑稽なのである。(このことは小林信彦も言っていることだが、おそらく誰でもその仕組みは直感しているはずだ。)

 心理的落差が滑稽感の原因だということを示す事柄を二、三挙げてみよう。これはブラック・ジョークだが、両手両足の無い身体障害者の息子を持った父親に、その友人が「お久しぶり。最近、息子さんはどうしている」と聞くと、父親は、「うん、最近は野球チームに入って頑張っているよ」と答える。「へえ、すごいね。で、ポジションはどこ?」「うん、セカンドだよ」「ほほう、セカンドベースマンか」「いや、セカンドベースなんだ」

 あまりにも非人間的なジョークなんで、これを紹介しただけで人非人扱いされそうだが、それ以来、私はセカンドと聞いただけでこの話を連想してしまうのである。このジョークのポイントは言うまでもなく、人間がその尊厳を奪われ、物扱いされたところにある。どういうわけか、我々は、ひどい目に遭っている人間を見ると、同情すると共に、笑いたくもなるようなのである。だから、スラップスティック喜劇は、「誰かがひどい目にあうことの繰り返し」なのである。トムとジェリーだろうが、トゥイーティーとシルベスターだろうが、ロードランナーとコヨーテだろうが、可愛い鼠や小鳥に、猫やコヨーテがひどい目にあわされる話である。

 先ほどのブラック・ジョークに戻ると、どこに心理的落差があるかと言うと、身体障害者の少年が少年野球チームで頑張っているという部分で我々は乙武的なけなげな頑張りをイメージするのだが、その頑張りがまったくナンセンスな頑張りであることに、我々の持っていた常識的モラルに支えられた「意味の世界」が崩壊するというところがポイントなのである。つまり、我々は日常生活の中で、意味に縛られていて、その事に無意識の不自由感を感じている。そこで、ナンセンスによって意味の世界から解放されると、快感を感じるのである。その精神マッサージが笑いである。笑いは、社会的秩序や常識への反逆であり、しばしば不道徳なものとなるのは当然である。大昔には、笑いといえば、敵への嘲笑であり、人から笑われるということは、死ぬほどの屈辱だったのである。(笑いが武器であったということは、柳田国男も言っていた。)

 自分が自分であることの不快感、あるいはある物はその物以外ではありえないことの不快感を我々の無意識は感じている。その牢獄を破壊し、そこから我々を解放するのが笑いだ。笑いとは常識的世界(日常の秩序)の破壊だと定義してもいいだろう。狂人は笑わない。笑えないから狂人になるのである。笑う余裕がある間は、我々の精神は無事だと言えるだろう。

 今度はほのぼの系のジョークである。(たしか、藤子不二夫のエッセイで読んだ記憶がある。)動物園の入り口から入ろうとした男が、そこに象が座っているのを見た。やがて出口から出ようとすると、そこにも別の象が前の象とは反対向きに座っていた。そこで男が象に、「君たち、何をしてるんだい」と聞くと、「ブックエンドごっこだよ」。

 まあ、この話でにやりとかくすりとか笑う人もいるだろうし、まったく面白くないと言う人もいそうである。この話のポイントは、まずはイメージである。動物園をはさんで、二匹の象が座っていて、彼らはブックエンドごっこをしているのである。これは幼児的な可愛らしさだ。絵本的な絵柄である。もちろん、象が人間の言葉を解すること自体、童話的でもある。ここには、破壊的なものは無い。誰かがひどい目に遭わされるわけでもない。だから、痙攣的な笑いは生み出さないが、それでも笑いの要素はある。それは、「幼児の笑顔を見れば、誰でもつられて笑う」という笑いである。これを天使の笑いとでも言おう。   これは破壊的な笑いとは対照的なものだが、それでも「心理的落差」はある。それは、「意外性」だ。この話の結末は、落語のオチのようなもので、それが無邪気な印象なために気が付きにくいが、十分に意外性のあるオチなのである。そのオチ(結末)が危険な方向で終わればブラックジョークになるというだけのことである。

 以上から、予想と実際の「心理的落差」からくる「浮遊感」が笑いの根本であり、その落差が「常識的秩序を破壊する」場合に笑いが発生すると見ていいだろう。象のブックエンドに常識破壊があるかと言えば、そもそも象が人語を解すること自体シュールレアリスティックな話であり、童話的世界は常識的現実の破壊でもあるのである。

 やや強引な論理を積み重ねてきたが、最後に、笑いを作る方式を考えよう。

 漱石の『文学論』での笑いの分析を我流で解釈すれば、本来は結びつかない二つの事柄をわずかな共通点で強引に結びつけ、その落差によって聞く人を驚かせるというのが笑いの創造の基本であるようだ。あるいは、物事の常識的解釈に対して、あえて非常識な解釈を行い、しかもその解釈に屁理屈なりに理屈がある、という場合に、その意外性が笑いになるようである。

 たとえば、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」というビートたけしの有名なフレーズがなぜ面白いかというと、やはりここには秩序破壊、常識的世界の破壊がある。しかも、そこには理屈が通っているのである。それは、車は、歩行者側が赤信号でも、歩行者が横断歩道を渡れば止まらざるをえないという事実だ。車という物理的な危険性を持った存在に対し、歩行者が無意識に感じている敵対意識が、このフレーズであぶり出され、やむなく止まっている車の前を堂々と歩いていく歩行者の姿を人々はイメージしたのである。それは、車という強者と歩行者という弱者の逆転、現実の秩序の破壊だ。

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