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つげ義春に「無能の人」という作品があるが、このタイトルにはなかなか含みがあるように思う。普通なら「無能な人」のはずだが、それを「無能の人」とした、そこには、実は「無能はひとつの能力、あるいは個性なのだ」という意味が含まれていないか。もちろん、この作品自体は作者の分身と思われる主人公のダメダメな人生を戯画的に、またリアルに描いていて、そこには自分を卑下こそすれ、誇るニュアンスは無い。それでも、タイトルの「無能の人」には、私は「自分は無能な人ではなく、無能の人なのだ」という、かすかな自負を感じるのである。まあ、無能をひとつの能力だというのは私の強弁だが、少なくとも、「無能の人でも、この世に生きていていいのではないか」というつぶやきを私は感じる。まあ、昔の私小説で、自分の平凡で貧しい生活を描いたようなものだ。
それに対して「無能な人」には、「お前にはまったく存在価値がない」という断罪を私は感じる。
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どうでもいい話だが、新語の中でも「必要性があって生まれた」ものがあり、これは否定されるべきものではないと思う。たとえば「目線」という言葉は1970年代くらいに一般化してきた言葉で、最初はテレビ局でドラマの撮影時に使われたものらしい。それがなぜ一般化してきたかというと、流行というだけでなく、言葉としての便利さがあったからだ。
それまでは「視線」という言葉しかなかったが、それと「目線」は明らかに違うのである。「視線を感じる」という言い方はあるが、「目線を感じる」とは言わないことで、両者が違うのは明白である。つまり、「視線」という言い方は、実際に目から何かの放射線が出ているイメージであるが、「目線」は単に見ている人の目と見られている物を結ぶ動線でしかないのである。そして、後者では両者の位置関係が大事になる。だから「上から目線」とは言うが「上から視線」とは言わないわけだ。
それに対して、芸能人たちが使い始めて、素人がそれを真似した結果、既にあった同じ意味の言葉が駆逐されて、新語が「使われて当たり前」の言葉になることもある。これは昔からたくさんあるようだ。まあ、軽薄な流行語だが、服の流行同様に、流行したから仕方が無い、という類のものである。洋服の時代に羽織袴で生活するわけにはいかないわけだ。
「いつか電池が切れるまで」に引用された小田嶋隆の文章である。
作家が老齢化して創作能力を失う原因のひとつが、「書く習慣を失う」ことかもしれない。高橋留美子のように、漫画を描くのが一番楽しい、という人は年を取っても創作能力は失われないようだ。
素人でも、下手な作品しか書けないことは分かっていても、書くことを続ければ、「創作能力」自体が向上するのではないか。なまじ、自分で自分の作品を批判的に見る習慣があると、書くのがいやになるだろう。


(以下引用)

 アイディアの場合は、もっと極端だ。
 ネタは、出し続けることで生まれる。
 ウソだと思うかもしれないが、これは本当だ。
 三ヵ月何も書かずにいると、さぞや書くことがたまっているはずだ、と、そう思う人もあるだろうが、そんなことはない。
 三ヵ月間、何も書かずにいたら、おそらくアタマが空っぽになって、再起動が困難になる。


 つまり、たくさんアイディアを出すと、アイディアの在庫が減ると思うのは素人で、実のところ、ひとつのアイディアを思いついてそれを原稿の形にする過程の中で、むしろ新しいアイディアの三つや四つは出てくるものなのだ。
 ネタは、何もせずに寝転がっているときに、天啓のようにひらめくものではない。歩いているときに唐突に訪れるものでもない。多くの場合、書くためのアイディアは、書いている最中に生まれてくる。というよりも、実態としては、アイディアAを書き起こしているときに、派生的にアイディアA’が枝分かれしてくる。だから、原稿を書けば書くほど、持ちネタは増えるものなのである。

「ガリア戦記」を読んでいるところなのだが、ローマが欧州を支配できたのは「言語の力」であり、特に有効だったのは「御為ごかし」という詐欺だったのではないか、と思う。野蛮な種族は言語を虚偽のために使うということに慣れていないため、相手の言うことを虚偽か真実かという二択でしか判断できない。しかし、御為ごかしという虚偽は、真実と虚偽の判別が困難なため、判断不能に陥り、しばしば虚偽に引っかかるのである。
その結果がローマによる欧州征服だった、というのが私の仮説だ。
あまり長い間記事を書かないと妙な広告を載せられるので、漫談というか、散漫な思想をダラダラ書いてみる。一種の大衆文学論であるが、大きく文学論と言ってもいい。それぞれの大衆文学の特徴みたいなものの考察である。
先に、純文学と大衆文学との違いを私なりに言えば、
「純文学は読者を想定せず、自分の強迫観念を徹底的に掘り下げて文章化したもの」
で、
「大衆文学は読者へのサービスを第一義とした文学」
である。つまり、「娯楽性の無い大衆文学は大衆文学として落第である」し、「売れない大衆文学も、大衆がそれを欲していないわけで、大衆文学としては落第である」と言える。
つまり、純文学のほうが合格ラインははるかに低い。しかし、純文学には大衆文学にない価値があり、それは「読者の思考の宇宙(いわゆる内宇宙)を拡大し変質させる」という機能である。つまり、それを読むことで、読者はそれまでより思考の水準が一段階高くなり、頭脳の質そのものに変化があるということだ。
たとえばドストエフスキーの作品などがそれである。もちろん、これは読者の水準そのものの高さが要求される。たとえば私の場合は夏目漱石の「猫」を読む前と読んだ後では思考の機能が大きく変化している。世界を笑いの視点から見ることが可能になったわけだ。これもまた純文学なのである。だが、「猫」を読んでも面白くもおかしくも感じないという人間が膨大にいるだろうということ、そしてそれは学校の勉強では優秀な成績を取る人間であることもあるだろうと思われる。これが「読者の水準」の意味で、これは必ずしも知能指数などの話ではないわけだ。同様に、宮沢賢治の作品に非常に高次元の詩情を感じる人と、何も感じない人がいるわけである。
記事をうっかり消してしまう前に、公開しておいて、いったん休憩する。

さて、本題の「大衆小説」だが、ジャンルで分ければ「推理小説」「SF小説」「ホラー小説」「時代小説」「風俗小説」「その他」に分けられ、「その他」は前記のどのジャンルにも入れにくいものを入れることにする。そして、「風俗小説」は前記の「推理・SF・ホラー・時代」のどれにも入れにくい、現代の風俗を描いた小説ということにする。さらにその中には「恋愛小説」と「非恋愛小説」がある、としてもいい。もちろん、「恋愛の要素はあるが、それが中心ではない」というものもある。たとえば庄司薫の「赤頭巾ちゃん気をつけて」などは恋愛風味もある、現代学生(浪人生)の風俗の一面を描いた「青春小説」となるだろうか。これは芥川賞を取ったが、大衆小説だろう。「ライ麦畑でつかまえて」が大衆小説であるのと同じである。つまり「青春小説」だ。これをひとつのジャンルとしてもいい。この手の小説は芥川賞受賞作に多い。
広義に言えば梶井基次郎の「檸檬」も青春小説だと言えないこともない。漱石の「三四郎」も同じである。もともと文学の大きな主題のひとつが青春なので、これは純文学と大衆文学を横断するテーマである。スタンダールの「赤と黒」も青春小説だろう。しかし「パルムの僧院」は青春小説ではない。これはひとえに主人公の年齢、または精神年齢による。ドストエフスキーの「罪と罰」やバルザックの「幻滅」なども青春小説の面が大きい。
ここでまたいったん休憩。

「推理小説」には「トリック中心のもの」と「トリックを重視しない文学性重視のもの」があるというのは良く言われていると思うが、後者は松本清張のもの以外はあまり成功していないように思う。まあ、その手のものはほとんど読んでいないのだが、松本清張はむしろ純文学者の気質がある作家だと思う。推理小説で名声が上がったのは彼の不幸だったのではないか。だが、純文学者としても、かなり異質で、学者的側面が強く、また政治などへの関心も高く、どの方面にその才能を伸ばせば一番良かったのか分からない。まあ、彼の時代小説などは時代小説の最高峰だと私は思っているので、案外、その方面が最適だったのかもしれない。
で、私自身は、推理小説はトリック中心の軽い読み物のほうがいい、という主義だが、あまりに推敲の不十分な粗雑な推理小説だと娯楽になるより腹が立つ。これはSF小説も同様だ。娯楽小説というものには案外高いハードルがあるのである。エラリー・クイーンの信奉者が日本の推理小説作家には多いが、クイーンの作品の半分くらいは、粗雑であり愚作だと私は思っている。まあ、主人公のエラリー・クイーンのキャラが大嫌いだというところも点数を下げているのだが。
ちなみに、ドイルのホームズ物は、トリックが稚拙なものもあるが、ホームズというキャラが抜群なので、「冒険小説」として私は好んでいる。だが、何度も繰り返して読むというのは推理小説ではなかなかできないというか、やっても面白くないので、結局「一度か二度読んで終わり」というのが推理小説の宿命だろう。そして下手に文学的志向があるとかえって嫌みになる。
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