松岡正剛の「千夜千冊」記事の一部だが、歌の本質について、面白いというか、示唆的な内容である。ただし、その「歌」とは和歌、あるいは短歌のことだろう。そこに大衆歌謡、つまりポピュラーソングを加えたら、「性欲恋愛」を歌う歌が9割くらいの分量を占めるのはもちろんだが、それ以外の歌もかなりあるのである。
つまり、さまざまな「詩情」というのがあり、たとえば死も絶望もある種の詩情の素材になるわけだ。あるいは「望郷」の詩情というのも昔は多かった。ここでは故郷がある種の恋愛対象だったわけだ。つまり、恋愛性欲だけでなく、「何者かに対する魂を揺るがす感情」が歌の生命だということだろう。恋愛や性欲にそれが一番発現しやすいというだけのことである。その感情をおとなしい言葉で言えば、「もののあはれ」である。
ちなみに、小説の8割くらいはその「もののあはれ(詩情)」を欠いていて、それは娯楽にはなるが、しみじみとした感動とは無縁である。
(以下引用)
そこで折口は、日本の歌には「歌を望みえない方へ誘ふ力」として3つの問題があるように思うと書いた。「歌の享けた命数に限りがあること」「歌人が人間として大きくも立派でもないこと」「批評がないこと」である。
そもそも折口にとっては、日本の歌は「呪言、片歌、叙事詩の三系統の神言」から発したもので、こうした発生の事情をつぶさに見ていると、「歌は性欲恋愛の気分を離れることはできないのではないか」と哀しい予想をしたのだった。
つまり、さまざまな「詩情」というのがあり、たとえば死も絶望もある種の詩情の素材になるわけだ。あるいは「望郷」の詩情というのも昔は多かった。ここでは故郷がある種の恋愛対象だったわけだ。つまり、恋愛性欲だけでなく、「何者かに対する魂を揺るがす感情」が歌の生命だということだろう。恋愛や性欲にそれが一番発現しやすいというだけのことである。その感情をおとなしい言葉で言えば、「もののあはれ」である。
ちなみに、小説の8割くらいはその「もののあはれ(詩情)」を欠いていて、それは娯楽にはなるが、しみじみとした感動とは無縁である。
(以下引用)
そこで折口は、日本の歌には「歌を望みえない方へ誘ふ力」として3つの問題があるように思うと書いた。「歌の享けた命数に限りがあること」「歌人が人間として大きくも立派でもないこと」「批評がないこと」である。
そもそも折口にとっては、日本の歌は「呪言、片歌、叙事詩の三系統の神言」から発したもので、こうした発生の事情をつぶさに見ていると、「歌は性欲恋愛の気分を離れることはできないのではないか」と哀しい予想をしたのだった。
PR
最近よく言われる「無敵の人」は、確かに無敵である。
しかし、その種の人間が卑小にしか見えないのは、その行為が単なる身近な他人や通りすがりの人間の大量殺人にすぎないことが多いからである。つまり、「無敵」であるはずなのに、「弱敵」しか相手にしない卑怯さが、彼らを軽蔑すべき存在にしている。
これがたとえば北一輝とか大塩平八郎になると、国家や政府を相手に立ち上がった彼らの行為は、まさに英雄的行為である。いや、革命的行為だけが英雄的なのではなく、「強敵」に対して立ち上がった行為が英雄的なのである。それが世間的には悪と見做されても、それは英雄の行為だ。その種のものには、たとえばマルキ・ド・サドやニーチェがいる。文筆行為の中には、その種の英雄的行為がよく見られる。文筆の徒は柔弱な者と見られることが多いが、実は英雄にしかできない行為を為したことも多いのだ。ただし、それが人類の利益となる行為だったかどうかはまた別の話である。それで害を受けた善良な者たちも多いだろう。ここでは、善であれ悪であれ、普通人ができない行為をした者を英雄としている。
「無敵の人」がなぜ無敵になるか、その根本を言おう。それは、自分の人生と生命を捨ててかかるからである。それはしばしばその人の家族の人生も犠牲にする。だから、革命家と犯罪者は「無敵の人」としては同類なのである。
世間の多くの人が不自由と不満の人生を送る理由もまた同じ盾の半面だ。我々は、自分の人生、家族の人生を守るためにあらゆる不自由を忍んで生きるのである。
老人などは、もはや守るべき生命もほとんど無いのに、なぜあらゆる不自由を耐え忍ぶのか。それは、自分が明日死ぬ、という覚悟ができないからである。そして、自分の現状を作っている、社会的地位、名声、親類縁者などへの未練があるからである。
この一文は読みかけのトーマス・マンの「魔の山」の一節から想起した思念を書いたものなので、その一節(2か所)を引用する。
こういう事態(注:肺病からの回復が絶望的で、余命がほとんど無いこと)から僕にゆるされるすこしばかりの自由を、みなさんに大目にみていただきたいんです。高等学校で落第ときまってしまって、教師に質問もされないし、宿題もやらなくていい、あれと同じなんです。あの幸福な状態に僕は最後的にたどりついたんです。僕はもうなにもしなくていいし、もう数にもはいらない人間で、どうにでもなれなんです。
彼の感じたこと(注:主人公ハンス・カストルプ自身が、前述の若者アルピンの述懐を聞いて、彼自身の落第の経験を思い出したことへの感想)はだいたいつぎのようなことになる。つまり、名誉はりっぱな結構な特典をあたえてくれるが、不名誉もそれにおとらぬ結構なものであって、むしろ不名誉の特典はまったく広大無辺ともいえる性質のものである、というものであった。
しかし、その種の人間が卑小にしか見えないのは、その行為が単なる身近な他人や通りすがりの人間の大量殺人にすぎないことが多いからである。つまり、「無敵」であるはずなのに、「弱敵」しか相手にしない卑怯さが、彼らを軽蔑すべき存在にしている。
これがたとえば北一輝とか大塩平八郎になると、国家や政府を相手に立ち上がった彼らの行為は、まさに英雄的行為である。いや、革命的行為だけが英雄的なのではなく、「強敵」に対して立ち上がった行為が英雄的なのである。それが世間的には悪と見做されても、それは英雄の行為だ。その種のものには、たとえばマルキ・ド・サドやニーチェがいる。文筆行為の中には、その種の英雄的行為がよく見られる。文筆の徒は柔弱な者と見られることが多いが、実は英雄にしかできない行為を為したことも多いのだ。ただし、それが人類の利益となる行為だったかどうかはまた別の話である。それで害を受けた善良な者たちも多いだろう。ここでは、善であれ悪であれ、普通人ができない行為をした者を英雄としている。
「無敵の人」がなぜ無敵になるか、その根本を言おう。それは、自分の人生と生命を捨ててかかるからである。それはしばしばその人の家族の人生も犠牲にする。だから、革命家と犯罪者は「無敵の人」としては同類なのである。
世間の多くの人が不自由と不満の人生を送る理由もまた同じ盾の半面だ。我々は、自分の人生、家族の人生を守るためにあらゆる不自由を忍んで生きるのである。
老人などは、もはや守るべき生命もほとんど無いのに、なぜあらゆる不自由を耐え忍ぶのか。それは、自分が明日死ぬ、という覚悟ができないからである。そして、自分の現状を作っている、社会的地位、名声、親類縁者などへの未練があるからである。
この一文は読みかけのトーマス・マンの「魔の山」の一節から想起した思念を書いたものなので、その一節(2か所)を引用する。
こういう事態(注:肺病からの回復が絶望的で、余命がほとんど無いこと)から僕にゆるされるすこしばかりの自由を、みなさんに大目にみていただきたいんです。高等学校で落第ときまってしまって、教師に質問もされないし、宿題もやらなくていい、あれと同じなんです。あの幸福な状態に僕は最後的にたどりついたんです。僕はもうなにもしなくていいし、もう数にもはいらない人間で、どうにでもなれなんです。
彼の感じたこと(注:主人公ハンス・カストルプ自身が、前述の若者アルピンの述懐を聞いて、彼自身の落第の経験を思い出したことへの感想)はだいたいつぎのようなことになる。つまり、名誉はりっぱな結構な特典をあたえてくれるが、不名誉もそれにおとらぬ結構なものであって、むしろ不名誉の特典はまったく広大無辺ともいえる性質のものである、というものであった。
多島斗志之の「症例A」を読了したが、凄い傑作である。ただ、さほど話題にもならなかったのは、題名のせいと、作者の知名度の低さのためだろう。これが若手の作家なら、その年の話題ナンバーワンになっていたと思う。
それよりも、題名が問題だ。まず、書店で買いたくなるタイトルではない。まるで魅力の無い題名である。もちろん、作者は報道記事における「少年A」「少女A」と同じく、病名を伏せながら、その病名が問題だ、ということを暗示したのだとは思う。しかし、一般人にとって魅力のある題名かというと、まったく魅力がない。もっと安直に「七つの顔の少女」とでもしたら良かったのではないか。ただし、真のヒロインは少女ではなく三十代の女性だが、それだと「売れない」ので、そこは誤魔化すわけだ。
なお、全体の話より、作中に出て来るエピソードで、敗戦時の日本で、美術館職員たちが進駐軍による美術品没収を怖れて、美術品の贋作を大量に作る話があるが、これなど、2時間くらいの娯楽映画に最適の話である。いわゆる「コンゲーム」(ゲーム的詐欺)物だ。有名どころでは「スティング」などがそれである。話の最後は、贋作作成集団の頭が、秘密の場所に保存した美術品を過誤による火災で焼失した、と言いながら、実はそれを独り占めして海外に売り、巨額のカネを得るという、これもまさにコンゲーム的オチである。
それよりも、題名が問題だ。まず、書店で買いたくなるタイトルではない。まるで魅力の無い題名である。もちろん、作者は報道記事における「少年A」「少女A」と同じく、病名を伏せながら、その病名が問題だ、ということを暗示したのだとは思う。しかし、一般人にとって魅力のある題名かというと、まったく魅力がない。もっと安直に「七つの顔の少女」とでもしたら良かったのではないか。ただし、真のヒロインは少女ではなく三十代の女性だが、それだと「売れない」ので、そこは誤魔化すわけだ。
なお、全体の話より、作中に出て来るエピソードで、敗戦時の日本で、美術館職員たちが進駐軍による美術品没収を怖れて、美術品の贋作を大量に作る話があるが、これなど、2時間くらいの娯楽映画に最適の話である。いわゆる「コンゲーム」(ゲーム的詐欺)物だ。有名どころでは「スティング」などがそれである。話の最後は、贋作作成集団の頭が、秘密の場所に保存した美術品を過誤による火災で焼失した、と言いながら、実はそれを独り占めして海外に売り、巨額のカネを得るという、これもまさにコンゲーム的オチである。
次の英文はスコット・フィッツジェラルドの「The great Gatsby」の冒頭に書かれた引用文(こういうのを何と言うのかは分からないが、昔の欧米の小説にはよく書かれたもので、ポーの短編などには必ず書かれていたと思う。作品と関係があるような無いような、不即不離の引用文である。)で、訳は、気が向いたら後で試みる。
ついでに言うと、その前に「Once again to Zelda」という献辞が書かれている。ゼルダは、フィッツジェラルドの妻で、この妻のために彼は散々な苦しみを味わったらしいが、どこまでも愛していたようだ。
Then wear the gold hat,if that will move her;
if you can bounce high,bounce for her too,
Till she cry" Lover gold hatted,high-bouncing lover,
I must have you"
--THOMAS PARKE D'INVILLIERS--
そして、彼女がそれで心を動かすなら、金の帽子をかぶりなさい
あなたが高く跳ねることができるなら、彼女のためにそうしなさい
彼女が叫ぶまで「金の帽子をかぶった恋人よ、高く跳ねる恋人よ
あなたを私は選びます」
トーマス・パーク・ディンヴィリエ
私は、「偉大なるギャッツビー」を実はほとんど読んでいないし、映画もきちんと見たことがない。しかし、この冒頭の詩を読み、ギャッツビーの物語の大筋を知って、フィッツジェラルドとゼルダの話を知っているだけで、私にはここに最高の詩情というものを感じるのであり、小説全体を読む必要を感じない。ついでに言えば、映画「華麗なるギャッツビー」のシーンの一部や、その音楽(74年版、つまりレッドフォード版の「デイジーのテーマ」または「What'll I do」)を思い出すと、なお詩情を感じる。つまり、さまざまな断片が、詩情の交響曲を作るわけだ。これは、単独の詩作品では起こらない稀有な例だろう。
ついでに言うと、その前に「Once again to Zelda」という献辞が書かれている。ゼルダは、フィッツジェラルドの妻で、この妻のために彼は散々な苦しみを味わったらしいが、どこまでも愛していたようだ。
Then wear the gold hat,if that will move her;
if you can bounce high,bounce for her too,
Till she cry" Lover gold hatted,high-bouncing lover,
I must have you"
--THOMAS PARKE D'INVILLIERS--
そして、彼女がそれで心を動かすなら、金の帽子をかぶりなさい
あなたが高く跳ねることができるなら、彼女のためにそうしなさい
彼女が叫ぶまで「金の帽子をかぶった恋人よ、高く跳ねる恋人よ
あなたを私は選びます」
トーマス・パーク・ディンヴィリエ
私は、「偉大なるギャッツビー」を実はほとんど読んでいないし、映画もきちんと見たことがない。しかし、この冒頭の詩を読み、ギャッツビーの物語の大筋を知って、フィッツジェラルドとゼルダの話を知っているだけで、私にはここに最高の詩情というものを感じるのであり、小説全体を読む必要を感じない。ついでに言えば、映画「華麗なるギャッツビー」のシーンの一部や、その音楽(74年版、つまりレッドフォード版の「デイジーのテーマ」または「What'll I do」)を思い出すと、なお詩情を感じる。つまり、さまざまな断片が、詩情の交響曲を作るわけだ。これは、単独の詩作品では起こらない稀有な例だろう。
つげ義春に「無能の人」という作品があるが、このタイトルにはなかなか含みがあるように思う。普通なら「無能な人」のはずだが、それを「無能の人」とした、そこには、実は「無能はひとつの能力、あるいは個性なのだ」という意味が含まれていないか。もちろん、この作品自体は作者の分身と思われる主人公のダメダメな人生を戯画的に、またリアルに描いていて、そこには自分を卑下こそすれ、誇るニュアンスは無い。それでも、タイトルの「無能の人」には、私は「自分は無能な人ではなく、無能の人なのだ」という、かすかな自負を感じるのである。まあ、無能をひとつの能力だというのは私の強弁だが、少なくとも、「無能の人でも、この世に生きていていいのではないか」というつぶやきを私は感じる。まあ、昔の私小説で、自分の平凡で貧しい生活を描いたようなものだ。
それに対して「無能な人」には、「お前にはまったく存在価値がない」という断罪を私は感じる。
それに対して「無能な人」には、「お前にはまったく存在価値がない」という断罪を私は感じる。
プロフィール
HN:
冬山想南
性別:
非公開
カテゴリー
最新記事
P R