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次の英文はスコット・フィッツジェラルドの「The great Gatsby」の冒頭に書かれた引用文(こういうのを何と言うのかは分からないが、昔の欧米の小説にはよく書かれたもので、ポーの短編などには必ず書かれていたと思う。作品と関係があるような無いような、不即不離の引用文である。)で、訳は、気が向いたら後で試みる。
ついでに言うと、その前に「Once again to Zelda」という献辞が書かれている。ゼルダは、フィッツジェラルドの妻で、この妻のために彼は散々な苦しみを味わったらしいが、どこまでも愛していたようだ。

Then wear the gold hat,if that will move her;
  if you can bounce high,bounce for her too,
Till she cry" Lover gold hatted,high-bouncing lover,
  I must have you"

      --THOMAS PARKE D'INVILLIERS--

そして、彼女がそれで心を動かすなら、金の帽子をかぶりなさい
 あなたが高く跳ねることができるなら、彼女のためにそうしなさい
彼女が叫ぶまで「金の帽子をかぶった恋人よ、高く跳ねる恋人よ
  あなたを私は選びます」

      トーマス・パーク・ディンヴィリエ

私は、「偉大なるギャッツビー」を実はほとんど読んでいないし、映画もきちんと見たことがない。しかし、この冒頭の詩を読み、ギャッツビーの物語の大筋を知って、フィッツジェラルドとゼルダの話を知っているだけで、私にはここに最高の詩情というものを感じるのであり、小説全体を読む必要を感じない。ついでに言えば、映画「華麗なるギャッツビー」のシーンの一部や、その音楽(74年版、つまりレッドフォード版の「デイジーのテーマ」または「What'll I do」)を思い出すと、なお詩情を感じる。つまり、さまざまな断片が、詩情の交響曲を作るわけだ。これは、単独の詩作品では起こらない稀有な例だろう。
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つげ義春に「無能の人」という作品があるが、このタイトルにはなかなか含みがあるように思う。普通なら「無能な人」のはずだが、それを「無能の人」とした、そこには、実は「無能はひとつの能力、あるいは個性なのだ」という意味が含まれていないか。もちろん、この作品自体は作者の分身と思われる主人公のダメダメな人生を戯画的に、またリアルに描いていて、そこには自分を卑下こそすれ、誇るニュアンスは無い。それでも、タイトルの「無能の人」には、私は「自分は無能な人ではなく、無能の人なのだ」という、かすかな自負を感じるのである。まあ、無能をひとつの能力だというのは私の強弁だが、少なくとも、「無能の人でも、この世に生きていていいのではないか」というつぶやきを私は感じる。まあ、昔の私小説で、自分の平凡で貧しい生活を描いたようなものだ。
それに対して「無能な人」には、「お前にはまったく存在価値がない」という断罪を私は感じる。
どうでもいい話だが、新語の中でも「必要性があって生まれた」ものがあり、これは否定されるべきものではないと思う。たとえば「目線」という言葉は1970年代くらいに一般化してきた言葉で、最初はテレビ局でドラマの撮影時に使われたものらしい。それがなぜ一般化してきたかというと、流行というだけでなく、言葉としての便利さがあったからだ。
それまでは「視線」という言葉しかなかったが、それと「目線」は明らかに違うのである。「視線を感じる」という言い方はあるが、「目線を感じる」とは言わないことで、両者が違うのは明白である。つまり、「視線」という言い方は、実際に目から何かの放射線が出ているイメージであるが、「目線」は単に見ている人の目と見られている物を結ぶ動線でしかないのである。そして、後者では両者の位置関係が大事になる。だから「上から目線」とは言うが「上から視線」とは言わないわけだ。
それに対して、芸能人たちが使い始めて、素人がそれを真似した結果、既にあった同じ意味の言葉が駆逐されて、新語が「使われて当たり前」の言葉になることもある。これは昔からたくさんあるようだ。まあ、軽薄な流行語だが、服の流行同様に、流行したから仕方が無い、という類のものである。洋服の時代に羽織袴で生活するわけにはいかないわけだ。
「いつか電池が切れるまで」に引用された小田嶋隆の文章である。
作家が老齢化して創作能力を失う原因のひとつが、「書く習慣を失う」ことかもしれない。高橋留美子のように、漫画を描くのが一番楽しい、という人は年を取っても創作能力は失われないようだ。
素人でも、下手な作品しか書けないことは分かっていても、書くことを続ければ、「創作能力」自体が向上するのではないか。なまじ、自分で自分の作品を批判的に見る習慣があると、書くのがいやになるだろう。


(以下引用)

 アイディアの場合は、もっと極端だ。
 ネタは、出し続けることで生まれる。
 ウソだと思うかもしれないが、これは本当だ。
 三ヵ月何も書かずにいると、さぞや書くことがたまっているはずだ、と、そう思う人もあるだろうが、そんなことはない。
 三ヵ月間、何も書かずにいたら、おそらくアタマが空っぽになって、再起動が困難になる。


 つまり、たくさんアイディアを出すと、アイディアの在庫が減ると思うのは素人で、実のところ、ひとつのアイディアを思いついてそれを原稿の形にする過程の中で、むしろ新しいアイディアの三つや四つは出てくるものなのだ。
 ネタは、何もせずに寝転がっているときに、天啓のようにひらめくものではない。歩いているときに唐突に訪れるものでもない。多くの場合、書くためのアイディアは、書いている最中に生まれてくる。というよりも、実態としては、アイディアAを書き起こしているときに、派生的にアイディアA’が枝分かれしてくる。だから、原稿を書けば書くほど、持ちネタは増えるものなのである。

「ガリア戦記」を読んでいるところなのだが、ローマが欧州を支配できたのは「言語の力」であり、特に有効だったのは「御為ごかし」という詐欺だったのではないか、と思う。野蛮な種族は言語を虚偽のために使うということに慣れていないため、相手の言うことを虚偽か真実かという二択でしか判断できない。しかし、御為ごかしという虚偽は、真実と虚偽の判別が困難なため、判断不能に陥り、しばしば虚偽に引っかかるのである。
その結果がローマによる欧州征服だった、というのが私の仮説だ。
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