忍者ブログ
[1]  [2]  [3]  [4]  [5]  [6]  [7]  [8]  [9
「笑いの考察」は、創作活動の上で必須に近いものだと私は思っているので、参考までに「紙谷研究所」から記事の一部を転載する。もちろん、筒井のこの文章はずっと昔に読んでいるが、下の引用記事のほうが正確だろう。
「風刺」で笑うというのは、「権威が攻撃されているのが気持ちいい」という快感、ある意味では下品な精神のためだろう。嫌いな人間がいじめられているのを傍観する小学生の心理だ。ただ、いじめは弱者が対象だが風刺は強者が対象であるという違いである。
だが「パロディ」はたとえば「提灯に釣り鐘」という対比に似ている。対比そのものから生まれる「頭脳の浮遊感覚」を楽しむのである。べつに提灯にも釣り鐘にも畏怖や軽蔑の気持ちを持つ必要は無い。単に「似た形のものが、同じように『ぶら下がっている』こと」を発見した喜びである。つまり、科学者の発見の喜び、あるいはその発見を知って知識が増える喜びに近い。風刺とパロディどちらが高級な精神であるかは自明だろう。
もちろん、風刺が無用だとか無意味ということではない。昔から笑いは敵を攻撃する武器でもあったのである。スィフトのように、人間存在そのものを風刺の対象として冷然と切り捨てた巨大な風刺家は、最大級の哲学者以上の知性である。



(以下引用)

 筒井康隆の風刺・パロディ論争を思い出す(「笑いの理由」/筒井『やつあたり文化論』、新潮文庫所収)。

 最近「差別語」論争について振り返る機会があって久々に読み返していたために、記憶に残るところがあったのだ。

 

 

 筒井は風刺とパロディを区別して、パロディにおいて「原典の本質を理解していない」という批判を厳しく批判する。

なぜかというと、原典の本質を衝いているというだけでは創造性に乏しいことがあきらかで、ある程度以上の文学的価値は望めない。そこで途中から原典をはなれ、その作品独自の世界を追求したり、自分の主張をきわ立たせるために原典を利用する、などというパロディもあらわれた。パロディの自立である。(筒井前掲書KindleNo.3035-3038)

 そして筒井自身の作品について触れ、原典の本質とも細部ともかかわりなく、「むしろ遊離している」とさえ主張する。「原典の本質理解」に拘泥することを、衒学趣味、悪しき教養主義だとするのである。

 他方で、風刺についても述べる。

 筒井は、笑いにおける精神的死の典型は、大新聞社の紙面を飾る1コマ風刺マンガだとする。実際に「面白くもおかしくもない」とのべ、「時にはカリカチュアライズした似顔絵だけの漫画」などとこき下ろす。このようなものを新聞社がありがたがる理由について、笑いの中核には「現代に対する鋭い風刺」が必ずなければならないという貧しい信念が大新聞社的良識があるからだ、とした。“チャップリンの方が、マルクス兄弟よりも高級だ”という風潮をあげながらこう述べる。

なぜこういう誤解があったかというと、常識の鎧を身にまとった人間というものは、笑う際にも意味を求め、意味のある漫画しか理解できない傾向があり、これはあの事件のもじりであろうとか、なるほどあのひとは誇張すればこんな鼻をしているとか、そういった卑近な連想によってのみ笑う(筒井前掲書KindleNo.2853-2856)

 対比的に筒井は、自らの「ドタバタ喜劇」の目指すものを、人間の意識の解放、常識の破壊、想像力の可能性の追求などとしている。

PR
小説家や漫画家の作家生命というのは創作活動を始めてから10年程度、長くて20年くらいがおおまかな目安になるのではないだろうか。それ以上に「現役生活」の長い創作家はもちろんいるが、その大半は「名ばかり」現役で、あるいは若手に交じって活動はしていても、その創作内容の質的レベルは絶頂期の半分以下のレベルに落ちていると思う。これは「時代に合わなくなる」という類の話ではなく、創作家の「容量」はある程度限度がある、という仮説だ。
まず、世間の事象に興味や関心を持てるのは、それらに対して無知な若者の特権である。若者の鋭敏な感受性と、世間の物事を知った感動がぶつかるところに創作衝動は生まれるわけで、つまり創作とは基本的には若者の土俵だと言えるだろう。
年を取ってから創作活動に入った人は、そのジャンルの事柄に若者の特権である「無知さ」はあるから、その人の個性が「ジャンル自体の面白さ」とぶつかることで新しい作家個性を生み出すことはある。しかし、その人の「作家容量」が尽きたら、それで創作物の個性も終わりである。後は「自己模倣」を繰り返すだけだ。
それに、長い間作家活動をしていると、どうしても自分の作品個性に飽きてくるだろう。ほとんどの老大家は、過去の作品の「縮小再生産」になるものだ。たまに新しいチャレンジをしたら、「年寄りの若作り」の無残さになる。つまり、「自分が本心から興味を持っていないもの」を相手にするからそうなるのである。
つまり、創作家というのは、ある程度の創作活動をして「自分の表現したいものはほぼ言い尽くした(描き尽くした)」と思えば、引退するのが正しい生き方だろう。先日他界した白土三平の早すぎる「創作家引退」(宣言はしないが、創作をやめていた)は、正解だったと思う。

ただし、以上は自分の身を削って創作活動をする商業創作家の話で、アマチュア創作家の場合はこの限りではない。100歳を過ぎてから画家になってもいいのである。


「書は読まれたり。肉は悲し」は、ヴァレリーの詩の一節だが、「肉」は「肉体」の意味だろう。訳は堀口大学だったと思うが、「肉は悲し」という表現はかなり大胆だと思う。だからこの一節はその奇矯さのために人口に膾炙したのではないか。
だが、かなり曖昧さのある詩句で、「書」は特定の書か、「あらゆる書」か不明で、書を読んだらなぜ「肉は悲し」となるのか、誰か説明した人はいるのだろうか。
単純な解釈としては、「あらゆる書を読んだら、もはや人生に対する興味は失われる。書とは、現実人生より高次な人生なのである。あらゆる書を読んだ後の人生に何の意味があるだろうか」というのは自然な解釈だと思うが、これはリラダン式の「生活などは召使に任せておけ」という、知的貴族精神だ。
問題は原詩の「書」が単数形か複数形かである。これが単数だと、この詩句の解釈はまったく変わることになる。「ある一冊の書を読むことで、『肉体の悲しさ(生そのものの悲しさ)』を痛感する」、そのような書とは何なのだろうか。まあ、聖書の「伝道の書」などはそれに近いかもしれない。「空なるかな空なるかな空の空なり」
アニメの「タッチ」を再見(視聴)しているのだが、南というヒロインを見ていて「トロフィーとしての人間」という概念が頭に浮かんできた。

(22日追記:今、「はてな匿名ダイアリー」を読んでいたら、こういうコメントに出会って驚いた。ここでは女全体をトロフィーとしているが、女性をトロフィーとして見るのはネットではありふれたことなのだろうか。
  • 男が少女漫画読まないのはトロフィー(女)が自己主張するからでしょ)


南というヒロインを達也と克也(勝也だったか)という双子の兄弟が奪い合うというか、争奪戦を繰り広げ、途中で克也が死んで「試合不成立」となるが、達也は素直に南を自分の物にできない。それは、南が「トロフィー化」した存在だから、「試合不成立」だと達也にはそれを自分の物にする「資格」が無いからだ。
女性の間で南というヒロインが不人気なのも、南のこの「トロフィー性」にあるのではないか、というのが私の仮説だ。つまり、どこか「非人間的」であるように感じるからだろう。それは単に南が超優等生の美少女で万能のヒロインで、適度に愛嬌もあるという「欠点の無さ」への嫉妬ではないと思う。要するに南自身が自分を二人の男の間のトロフィーであることを受け入れた、その傲慢さ、あるいは非人間的な印象のためではないか。
もちろん、南が「克也を利用して自分の夢をかなえる」というズルさへの反発もあるだろう。(それを克也自身が快く受け入れているのは、また別の話だ。)
で、達也は、克也が死んだ以上、南というトロフィーを手に入れるためには、克也の「実績」を乗り越えないといけないわけである。そういう点では達也も(南の)犠牲者だと言える。まあ、普通の男なら、例の部屋で二人きりになった時にさっさと南の身体を手に入れるだろうが、それでは面白くも何ともない、ただの「石原慎太郎」的小説である。少年漫画としても「不健全」だ。
そこで、達也は悪戦苦闘して(というほどでも実は無い。彼も単に戦闘意欲に乏しい怠け者なだけで、最初から超人設定されているのである。)南というトロフィーを得る「資格」を得る。そういうわけで、この漫画を成立させている骨子のひとつは「トロフィーとしての人間」である、というのが私の結論だ。

政治がからむと町山智弘は馬鹿というか視覚異常(視野狭窄)になると思っていたが、これほどとは思わなかった。
古代の歴史的人物を現代の視点で見て「ポリコレ的に間違っている」という映画評論家は評論家失格だろう。
たとえ(近代の)ヒトラーでも、監督や脚本家が彼を英雄として描いても問題はまったくない。(ただし、それを公開するかどうかは映画会社の判断による。政治的危険性を考慮して公開しないのもひとつの判断だ。)それはイエスを神の子として描くのと同じ程度に創作者の主観にすぎないからだ。芸術の問題(つまり批評の問題)としては、その作品が創作物として優れているかどうかだけが問題になる。
世の多くの人は、「表現の自由」と「公開の自由」を混同している。献血ポスターに無意味に巨乳の萌え絵イラストを描くのは作者の勝手だが、それを公開するかどうかは注文した側の責任であり、非難するのは誰でも自由である。(非難した人を非難するのも自由だ。)注文者がその非難を無視する自由もある。だが、その非難が正当だと思う人間が多い場合は、公開することが注文者の不利益になるだけの話だ。

なお、この一文は「キングダム」とはまったく無関係である。私はこの作品を(漫画もアニメも絵が下手なので)一度も見たことがない。



(以下引用)

張芸謀監督が秦の始皇帝を賛美した『HERO英雄』の危険性みたいな。
引用ツイート
小野寺系 / Kei Onodera
@kmovie
·
アニメの「キングダム」最新話を見たけど、主人公たちが沖縄戦の日本兵の立場になってて唖然とした。前々から成長物語として秦国の歴史を描く危うさを感じてたけど、主人公をもう応援できないし、悪でしかないでしょ。念のためコミックも確認したけど、後でどんなフォローを入れても駄目なものは駄目。

<<< 前のページ HOME 次のページ >>>
プロフィール
HN:
冬山想南
性別:
非公開
P R
忍者ブログ [PR]

photo byAnghel. 
◎ Template by hanamaru.