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昔、私は生徒に人気の無い予備校講師で、生徒との世間話も苦手だったのだが、ある時、教務員室の私の席の傍である教師と生徒たちが世間話をしていた。で、それを聞くともなく聞いていたのだが、そこで度々起こる笑いに私は驚いた。その笑いの元になった誰それの発言が少しも面白くなかったのである。それが何度も繰り返され、私は、同じ仲間の間の「笑い」というものの性格を少し理解した気がした。つまり、同じ仲間なら「(発言者が笑いを取る意図で言えば)何を言っても笑う」という暗黙の協定がある、ということだ。
下の「権力関係の笑い」も、本質はそれと同じである。

(以下引用)


『災間の唄』出版記念 小田嶋隆・武田砂鉄対談 後編

糸井重里と松本人志を小田嶋隆・武田砂鉄が改めて語る「“機嫌の悪い人って嫌だよね”で糸井村のムードに」「松本に笑いが上納されている」

「松本人志は、織田信長が「あっぱれじゃ」と言うと「ほほー」みたいな世界に入っちゃっている」

糸井重里と松本人志を小田嶋隆・武田砂鉄が改めて語る「機嫌の悪い人って嫌だよねで糸井村のムードに」「松本に笑いが上納されている」の画像2
『災間の唄』を発売した小田嶋隆氏と武田砂鉄氏(写真/尾藤能暢)

──糸井氏の「ユーモアが大事だよね」ということともつながりますが、この本のなかで小田嶋さんはユーモアや笑いが持つ暴力性も繰り返し指摘されています。その代表格こそ松本人志ではないかと。

〈笑いは権力に抵抗するための有効な手段だと言われている。もちろんそういう側面もあるのだろう。でも、テレビ経由で流れているお笑いネタの大半は、強い者が弱い者をナブる時に起こるアクシデントを笑うパターン芸で、むしろ権力の作用そのものだったりする。〉(2017年10月17日)

小田嶋 私が若いころに面白かった人といえばだいたい左側の人で、野坂昭如とか青島幸男とか、あるいは橋本治とか。右側の人たちは喚いてばかりいて、いつも興奮していて、およそユーモアのない人たちだったんです。それで私自身は思想的に左だったわけじゃないけど、左側の人たちのほうが柔らかみや余裕なんかがあってかっこいいよねと思っていたわけです。ところが、吉本が笑いの中心になってから、批評的な笑いが一切消えて、後輩をいびってみんなで笑うような、ほもソーシャルのなかの笑いが主流になってしまった。松本人志はそのチャンピオンでしたからね。松本は地頭が良くて、教室の後ろのほうでときどき面白いことを言って混ぜっ返すタイプ。それが力を持ってしまったということが、なんていうのかな、真面目に考えることをバカバカしくしちゃう空気をつくり出したんじゃないのかな。

──2019年にも〈松本人志がヤンキーのヒーローたり得たのは、勉強漬けのインテリの知的武装をワンフレーズのボケで無効化してしまうその地頭の良さにあったわけなんだけど、この20年ほどのていたらくを見ていると、「勉強しない地頭」の劣化サンプルみたいなことになっている。〉とツイートされていましたよね。

小田嶋 松本人志がすごく面白かった時期は、とにかく不思議なアドリブの冴えがあったんですけど、でも、あそこから何も成長していない。

武田 たぶん、いまの小田嶋さんのたとえで言うと、これまで、教室の後ろでやんややんや騒いでいた人たちが、いまはもう、教壇に立っているわけですよね。で、その教壇から生徒に対して何を求めるかといえば、同調です。教壇でやっていること、言っていることの面白さに気付けとか、あるいは、いい感じに揺さぶってみろと迫る。僕はナンシー関さんのコラムが大好きでしたが、ナンシー関さんは生前、松本さんのことを高く評価されていた。それは、業界の仕組みに突っかかっていく一匹狼的なところへの評価だったはず。いま彼を見て一匹狼と思う人はいないでしょう。一匹狼ではなく、群れの長です。

小田嶋 それはビートたけしも同じで、軍団つくっちゃったでしょう? たけしがすごくつまんなくてもみんな笑う。松本周辺に起きている笑いも同じ。いつもパターンが一緒なんですけど、同じことを混ぜっ返すだけなのにすごく笑いをとるんです。ある若手芸人が「これ美味しくないですね」って言ったとすると、「それ『美味しくないですね』か?」って言うだけなんですよ。オウム返しするだけで笑いがとれる。あれはなぜ笑いがとれるかと言えば、その立場にいるからなんですよ。

──教壇に立っているから、と。

小田嶋 中小企業の社長がなんか言うとどっと受けるとか、織田信長が「あっぱれじゃ」と言うと「ほほー」みたいな。その世界に入っちゃっている。お笑いの世界じたいがそういうピラミッド構造のなかで、下の者は「私は笑っていますよ」というサインを出す。あれは権力関係の笑い。笑いが上納されているんですよ。

──視聴者もそこに組み込まれていますよね。

小田嶋 これを笑わないと笑いのセンスがないって言われてしまうことへの同調のなかで笑うという動作が発生している。

武田 EXILEグループの皆さんは、一斉に笑いながら、手を叩いて立ち上がります。全体で同意しているぞ、というのを作る、見せる、というのが大事なんでしょうかね。

小田嶋 彼らはTRIBEって言っていますからね。「部族」「種族」ですよ。

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「うっせえわ」を、「若者はマイノリティである」という、なかなか斬新な視点から論じた文章の末尾だが、こうした「若者への理解のある」やや老いた若者は、若者の目にどう見えるのだろうか。それこそ「聞いたふうなこと言ってら、うっせえわ」となるのではないかwww

つまり、現代の若者は「他者に理解されない」ことを自分の優越性(つまり、相手は自分より知性や感受性が下だから自分を理解できない)として保持したいという心理があるのではないか。と言うより、いつの時代でも一部の若者はそうではないか。「うっせえわ」の歌は一度も聞いたことが無いが、その中に「自分は優等生だ、天才だ」という歌詞があるらしいので、そう推定したわけである。
そういうタイプの若者には、金八先生など、唾棄すべき存在だったと思う。


(以下引用)


「うっせぇわ」を聞いた30代以上が犯している、致命的な「勘違い」

わかった気でいる年長者に言いたいこと
鮎川ぱて @しゅわしゅわP プロフィール

冒頭で宣言した通り、年長世代には耳の痛い文章になってしまったかと思う。彼らが苦労知らずでここまできたわけではないことを、若者は少なくとも机上では知っている。いま読んでいるあなたが47歳なら就職氷河期第一世代。自分たちも被害者世代なのに、どうしてこうも拒絶されなければならないのか。そう思うかもしれない。

各世代には世代ごとの被害者意識がある。森喜朗も「(自分にとっては)ふつうのことを言っただけなのに、怒られた」と“被害者意識”を持っていると思う。

だがやはり、年長世代は数が多いのだ。若者があなたたちを「一切合切凡庸な」と指差してしまうのは、数が多すぎて顔が見えないのだ。マジョリティは強者である。ではマジョリティであるだけで加害者になるのかというと……ときにそういう場合もあると言わざるをえない。「うっせぇわ」は、その被害者たちの声なのだ。

最後に念のため。LGBTQ当事者に無理やりカミングアウトを強いてはいけないように、本稿の議論を根拠に「お前らは本音を言ってないらしいな、言いなさい!」などと若者に強要してはいけない。本音を言わない権利を尊重してほしい。まずはそれから。

その上で、自分たちの数の多さ=声の大きさにブレーキをかけて、「現代の代弁者」の役を正しく若者に譲るなら、そのずっと先には「分断」が解消した別の光景が見えてくるかもしれない。








女性は評論を書くのに向いていない気がする。
論理を正確に追うよりも、自分の主張の正当性を主張するのが最優先になるのではないか。つまり、読者を敵と味方に分け、敵を粉砕するために文を書いており、論理そのものを追求し、「問題が解けること自体に快感を覚える」というところが女性の評論文には欠如しているように私には思える。
ただし、評論とは言っても、ひたすら「これが好き!」と言うだけの、つまりファンレター的文章も評論文の中に入れられることはある。その場合は、男性よりむしろ女性の文章のほうが面白い場合もある。つまり、どこまで行っても女性は「何よりも感情が優先する」生き物だ、と言っていいかと思う。
女性の哲学者が滅多にいないのも、「論理より感情」という女性の本能に由来するというのは言い過ぎだろうか。

戦闘的フェミニズムの指導者たちの言説がほとんど社会に受け入れられないのは、彼女たちの言説が徹頭徹尾党派的な、アンフェアなものだからだと思う。つまり、自分たちに不都合な事実は無視し、有利な事実だけを言い立てる。そんな言説が理性的なものとして受け入れられるはずはない。
言い訳に聞こえるだろうが、私は女性の権利拡張と権利擁護の支持者である。しかし、それは戦闘的フェミニズムによってむしろ阻害されていないか。

男の場合は、かなりの馬鹿でも、論理で考える時に感情を混ぜるのは間違いだ、ということは生来的に知っている気がする。逆に、些細な世間話でも話が非論理的になると我慢できない、という面もあり、これは欠点でもある。つまり、「論理的にしか会話できない」人間もおり、そうなると、恋人とのイチャイチャも幼児をあやすこともできないわけだ。
萩尾望都の「思い出を切りぬくとき」というエッセイ集の中に、ベラスケスの絵の構造の凄さを、ピカソの再構成した絵によって知る、という部分がある。

(以下引用)

私が、視点が定まらないと言ったその構図が、いかに数学的に完璧なものか、大きすぎると言った画布や空間の配慮が、画面の中にどのような意味をもっていすわっているか、横に並ぶ王女とそのお付きが、どんな面と線と方向に行くか、そのすべての面と線と方向を一手に引きついで、奥の開いて光のさすドアが、一気にこの宇宙を引きこみ、向こうへ解放しようとしている。

(引用終わり)

この、絵の中の動きあるいは動線、あるいは(視線の)導線というものをレオナルド・ダ・ヴィンチがその手記の中で書いていた気がするが、斜め読みしただけの記憶なので、確かではない。

立派な論文であると思う。



(以下引用)

見出し画像

浮世絵が陶磁器の包み紙として海を渡ったのは本当?という話。

2021/02/27 13:13

浮世絵に関心がある方なら、浮世絵がヨーロッパへ輸出する陶磁器の包み紙として使われていたという話を、どこかで聞いた記憶があるのではないでしょうか。それがきっかけとなって、浮世絵の素晴らしさがヨーロッパに伝わるようになった、と。

もう少しちゃんとした説明ですと、フランスの版画家であるフェリックス・ブラックモンが、陶磁器の緩衝材として用いられていた『北斎漫画』をたまたま発見。浮世絵の魅力を仲間たちに伝えたことをきっかけとして、「ジャポニスム」と呼ばれる日本美術ブームが、ヨーロッパで始まったと伝えられています。

浮世絵は、もともと日本において、安い値段で販売される紙屑同然のものでしたが、その芸術的な価値がヨーロッパの人たちによって初めて見出されるようになったという文脈でも、この話はしばしば語られています。

皆さんはこの話を聞いた時、どのような様子をイメージしたでしょうか?現在、陶磁器を持ち運ぶ際、新聞紙やプチプチでくるんで、緩衝材とすることがあります。それと同じように、一枚の浮世絵版画をくしゃくしゃにして、陶磁器を包んだり、隙間を埋めたりしている様子ではないでしょうか。

浮世絵を陶磁器の包み紙にしたというこの話、使い勝手のよいエピソードのためか、いろいろなところで言及される一方、その根拠は省略されているケースがしばしばです。そこで今回は、この逸話について検証してみたいと思います。

そもそも、ブラックモンが『北斎漫画』を発見したというエピソードは、フランスの美術史家であるレオンス・ベネディットの著作(Léonce Bénédite,《Félix Bracquemond l'animalier》, in Art et décoration, févr.1905, p.39)を根拠としています。

小山ブリジット氏の『夢見た日本 エドモン・ド・ゴンクールと林忠正』(高頭麻子・三宅京子訳、平凡社、2006年)に日本語訳が掲載されていますので、一部を引用してみましょう。

一八五六年。この年号は確かなのだが、ブラックモンが月日が確定できるかどうかは分からない。とにかく一八五六年のある晴れた朝、ブラックモンは版画の原版『家鴨たちが〔彼女を〕追い越していった』を携えて摺り師のドゥラートルのところへ出かけていった。(中略)
実は、ドゥラートルのところでおしゃべりをしているとき、ブラックモンは奇妙な綴じ方をされた赤い表紙の小さな本を見つけたのである。この本ははるか遠方から到来したものだった。柔らかで弾力的な材質だったため、日本の磁器製品の箱に仕切り材として入れられていたのだ。ブラックモンは、興味をそそられ、それをめくってみた。そして職人や曲芸師、子供、風景、昆虫、花などが、見事なまでに生き生きと表情豊かに描かれた、荒いタッチのデッサンに衝撃を受けた。

1856年、ブラックモンが、知人の家で日本の磁器製品の箱の仕切り材として入れられていた絵本を発見したのです。(※実際は1856年ではなく、数年後の出来事との指摘もあります。ブラックモンがジャポニスムの先駆者であると言えるかどうかは議論がありますが、今回はこの件については省略します。)

ベネディットの著書では、この後、ブラックモンはドゥラートルに絵本を譲ってもらうように頼みますが、断られます。しかし、それから1年か1年半ほどして、ドゥラートルの弟で版画家のラヴィエイユの手を経た後、ブラックモンはその絵本を手に入れ、周囲の人に見せてまわります。その絵本は『北斎漫画』の1冊であった、ということが語られています。

さて、ここで注目すべきは、ブラックモンが発見したのは、一枚摺りの版画ではなく、一冊の絵本だったということです。念のため、原文を引用して確認しておきます。

Chez Delâtre, en effet, tout en causant, Bracquemond découvrit un petit livre bizarrement broché, à couverture rouge. Ce livre venait de très loin. En raison de sa matière souple et élastique, il avait servi à caler des porcelaines expédiées par des Français établis au Japon. 

un petit livre=一冊の小さな本が、caler des porcelaines=磁器の仕切り材として提供されていた、とあります。

ここで『北斎漫画』の大きさを見てみましょう。太田記念美術館が所蔵する『北斎漫画』3編です。

IMG_3542のコピー

寸法は、縦23㎝、横16㎝、厚さが約1㎝です。実際に持ってみると、確かに固すぎず、柔らかすぎず、仕切り板にするには最適です。おそらく、ちょっと厚めの段ボール板のような感覚で、磁器を運ぶ箱の中に『北斎漫画』を入れたのでしょう。

『北斎漫画』は和綴じ本ですので、綴じている紐を外すと、ご覧のように、一枚の薄い紙となります。紙は薄く、またさほど大きくないため、茶碗をしっかり包もうとすると、少し足らない感じです。

IMG_3544のコピー

『北斎漫画』が陶磁器の緩衝材になっていたと聞くと、このように本をバラバラにして包み紙のようにして使っていたという印象を持たれるかもしれません。しかし、ブラックモンが見たのは一冊に綴じられた絵本の形をしたものだったのです。

また、大島清次氏が『ジャポニスムー印象派と浮世絵の周辺』(中央公論社、1980年。ただし引用は講談社学術文庫、1992年より)において、「日本の陶器そのものについての珍奇さについてはそこで一向にふれていないわけであるから、以前からさほど珍しくないこととして日本陶器のパリ到来を受け止めていたということにもなるだろう。」と述べているように、日本の陶磁器がやってくることは珍しくなかったようです。

それにも関わらず、ブラックモンが『北斎漫画』を熱心に欲しがったのは、『北斎漫画』のような絵本が仕切り板として用いられることが珍しいことであったと推測されます。輸送作業をする際、たまたま手ごろなものとして選ばれたと考えられるのです。

以上の話をまとめますと、ブラックモンのエピソードから、『北斎漫画』という一冊の絵本が、陶磁器運搬の緩衝材(仕切り板)として用いられたことがあったのは確かなようです。しかし、それはたまたまの出来事であった可能性が高く、また、一枚摺の浮世絵版画が包み紙として陶磁器をくるんでいたという事実までは確認できませんでした。

管見の限りでは、ブラックモンの話の他に、浮世絵が陶磁器の包み紙として日本からヨーロッパに運ばれたという根拠を確認できておりません。

モネがル・アーブルで包み紙にされていた浮世絵を見たという話もあるようですが、大島清次氏が前掲書で「一八五六年頃にル・アーブルで出会いがあったとする説もあり、これは後年モネが、マルク・エルダーの質問に答えて、『アムステルダムのある商人からアルフトの壺を買ったら、ただで大量にゆずってくれた』といっているところから発しているようだ。」と述べているように、浮世絵は包み紙として用いられてはいません。

では、浮世絵が陶磁器の包み紙であったという話はどこから来ているのでしょうか。大島清次氏の前掲書に、レオンス・ベネディットの著作を踏まえた、以下のような記述があります。

ところが、一般に流布されている北斎漫画発見のいきさつによると、ブラックモンが印刷屋ドラートルの仕事場の片隅で問題の赤表紙の画帖をはじめて見たときには、それが日本から送られてきた陶器のパッキングに使われていたという。

さかのぼって、戦後直後に刊行された、小林市太郎『北斎とドガ』(全国書房、1946年)には、

茲にブラックモンが見つけ出したといふ『北斎漫画』は、ペンネルの『フィスラーの生涯と芸術』によれば、初め摺師ドラートル(Delâtre)によつて家人のなせる支那瓷器の包装中より救ひ出され、

さらにさかのぼって、今から100年以上前、大正時代に刊行された小島烏水『浮世絵と風景画』(前川文栄閣、1914年)には、

仏国の陶器画作者ブラックモンFelix Bracquemondは、安政三年に、偶然その友人の宅で、陶器の荷造り中に、包み紙やら詰め紙にやらになつてゐた或小冊子の画本を発見し(後略)

とあります。「陶器のパッキング」「支那瓷器の包装中」「包み紙やら詰め紙にやらになつてゐた」という表現は、浮世絵が陶磁器の包み紙になっていたことを必ずしも示してはいないのですが、そのように誤解してしまう読者がいた可能性は十分に考えられます。『北斎漫画』発見のエピソードが伝わっていく中、同時に誤解も広まっていったのでしょう。

以上、ブラックモンの『北斎漫画』発見のエピソードを検証してみました。私が知らないだけで、実際に浮世絵版画が陶磁器の包み紙として海を渡っていたという事実があるかもしれません。もし具体的な典拠をご存知の方がいらっしゃいましたら、ぜひともご教示ください。

追記

国家鮟鱇 @tonmanaangler様より、いくつかの情報提供がありましたので、ご紹介いたします。

①小島烏水「葛飾北斎の富嶽三十六景 附富嶽百景」(『江戸末期の浮世絵』梓書房、1931年)

ゾラが乾物屋から購つた乾絡(チーズ)の包み紙が、偶然にも、安物の錦絵(一説に北斎の「漫画」の反古)であつたのだが、慧眼なるゾラは驚喜のあまり、之を十襲珍蔵して、版画家のブラツクモンに誇示し、ブラツクモンも、それが「病みつき」になつて、浮世絵を獵りもし、吹聴もしたなどといふ伝説がある。

チーズの包み紙が錦絵であったという記述です。ただし、チーズですので、包まれたのはフランスででしょう。小島烏水が何を典拠にしているかは不明です。ご存じの方、ご教示ください。

②瀬木慎一「明治以前における浮世絵の海外流出」『浮世絵芸術』24号、1970年。

唯二冊の根本資料とは、次のものである。
 Paul Lafond: Degas, 1918. Paris.
   E.R. and J. Pennell: Whistler. 1908. London
(中略)
後著によると、いっそうくわしく、それは、ブラックモンの手に渡るまえに、二人の手をへている。最初、モンマルトルのムーラン・ド・ラ・ギャレットの下に住んでいた名摺師オーギュスト・ドラトル Augusut Delâtreが、家人のした陶器の包装中より救い出し、それが当時の大印刷者ラヴィーユ Lavielle(中井宗太郎「北斎とドガ」はこれをラヴェイユ Lavieilleと語記している)に渡り、そして、さいごにブラックモンのものとなった。
(中略)
以上である。ここで一般の文献の記載と異なる点は、第一に、ブラックモンが最初の発見者ではないということ、第二に、陶の器包装中より救い出したとはいえ、それは日本から直接来たものではなく、家人がした包装のなかからであるということ、第三に、従って、「漫画」がもともと、どこにあったかは不明であるということである。
包装とはいっても、「漫画」は本であるから、つつみ紙にはならず、むしろつめものとして使用されたのだろう。それならば、日本において、輸出陶器の包装をするために、無智なものがわけもわからずに本をつめこむというようなことをする可能性は、じゅうぶんにありそうだ。それがパリに到着した後、ドラトル家でふたたび、同様に使用されたのであろうか。

瀬木氏は、ドゥラートルの家人が『北斎漫画』で陶器の包装をしたと述べております。しかしながら、典拠としているE.R. and J. Pennelの The life of James McNeill Whistlerを確認してみたところ、以下のようにありました。

 Whistler was in Paris in 1856, when Bracquemond "discovered" Japan in a little volume of Hokusai, used for packing china, and rescued by Delâtre, the printer. It passed into the hands of Laveille, the engraver, and from him Bracquemond obtained it. 

「陶器の梱包として使われ、ドゥラートルによって救い出された北斎の絵本」とあり、ドゥラートルの家人が『北斎漫画』で陶器の包装をしたとは書いてありません。これは、小林市太郎(※中井宗太郎は瀬木氏の誤記と思われます)『北斎とドガ』(全国書房、1946年)の以下の記述をそのまま参照したためと考えられます。

茲にブラックモンが見つけ出したといふ『北斎漫画』は、ペンネルの『フィスラーの生涯と芸術』によれば、初め摺師ドラートル(Delâtre)によつて家人のなせる支那瓷器の包装中より救ひ出され、ついでラヴェイユ(Laveille)の手に渡り、つひにブラックモンの所有となつたもので、(後略)

また、The life of James McNeill Whistlerは、内容が一致することから、先に刊行されたレオンス・ベネディットの著作を参考にしたと推測されます。

③瀬木慎一「明治以前における浮世絵の海外流出」『浮世絵芸術』24号、1970年。

恐らく一八七〇年のこととおもわれるけれど、モネがオランダ旅行したとき、ある食料品で、燻製の鯡やローソクの包紙として、歌麿、写楽、北斎などの版画が使われているのを見て、びっくりしてもらいうけたといいう話が、アンリ・フォシォン Henri Focillon の「北斎」(パリ、一九二五年刊)に見えるし、エミール・ベルナール Emile Bernardも、ファン・ゴッホが、パリ時代に、ある骨董屋で、つつみ紙に用いられているものをもらったり、あるいは田舎家から、傷んだまま放置されていたものを一箱買いこんできたという話を、「ファン・ゴッホの手紙」Viencent Van Gogh dans la Plume. Paris, 1891.の序文に書きとめている。

 瀬木氏によれば、ヨーロッパの人たちが浮世絵を鯡やローソク、骨董品の包み紙として用いていた記録があるそうです。だとすると、ヨーロッパの人たちも、日本人と同様に、浮世絵を消耗品として見ていた時期があったことになります。

Henri FocillonのHokusai, le Fou Génial du Japon Moderneを2017年版の書籍で確認したところ、以下のような記述がありました。

Octave Mirbeau raconte comment Claude Monet le découvrit en Hollande, dans la boutique d’un épicier qui enveloppait ses paquets dans des estampes d’Hokusai, d’Utamaro, de Kōrin, et qui fut heureux de s’en débarrasser, car il trouvait ce papier peu solide.

オクターヴ・ミルボーの話によれば、クロード・モネはオランダの八百屋で、北斎、歌麿や光琳の版画で荷物を包んでいたのを発見した、八百屋は紙があまり丈夫ではないと思っていたので、喜んで版画を処分した、と。瀬木氏の記述と少々異なりますが、日本と古くから交易があったオランダでは、浮世絵が大量に輸入され、そのような雑な扱われ方をされていたのでしょうか。

また、エミール・ベルナールの序文の日本語訳(エミル・ベルナール編・硲伊之助訳『ゴッホの手紙』上巻、岩波文庫、1955年、22頁)には、以下のような記述があります。

壁に日本の版画を鋲で貼り、一部の画布を画架に立てかけほかのは積み重ねて置いた。私のために巻いた包を用意してくれていて、それは古道具屋から堀出した品物の包紙だった中国の画であった。

この翻訳によれば、包み紙だったのは、浮世絵ではなく、中国の絵画でした。後日、原文を調査してみます。

文:日野原健司(太田記念美術館主席学芸員)

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