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ジョージ・メレディスの或る小説についてのグーグル翻訳が意味不明で面白いので、一部を転載する。

「意図的に行われていることは、目的を持って行われます。」

などというのは、頭で考えてもなかなか思いつく表現ではない。小泉進次郎はそれが自然にできるのだから、ある意味天才か。

(以下引用)

過去100年間、リチャード・フィーフェルは、その欠点をすべて持ち、メレディスの最も優れた作品の一つと考えられ、小説の後の多くの発展の先駆者としての地位が広く認められている[アーノルド・ベネットは、「リチャード・フィーフェルルでは、何と絆の緩みなんだろう。なんてルネッサンスなの!...「それは弱い本で、エピソードの力に満ちていて、機知に満ちています」と認めながら、ある種の夜明けのアナウンサーでした。 J.Bプリーストリーは「英語のフィクションに関する限り..現代小説はリチャード・フィーフェルの試練の出版から始まったことは間違いありません。 [8] バージニア・ウルフの評価は次のものでした。

彼はトロロープジェーン・オースティンの地味な現実を守ろうとしない。彼は私たちが登ることを学んだすべての通常の階段を破壊しました。そして、意図的に行われていることは、目的を持って行われます。普通の、これらの空気と恵みのこの反抗、そのサーとマダムとの対話の形式は、人間のシーンの新しい、オリジナルの感覚のための道を準備するために、日常生活のそれとは異なる雰囲気を作成するためにすべてそこにあります。

そして再び:

著者が同時に20人の心を持っているように見えるときに来るそれらの裂け目で本はひび割れています。しかし、それは確かにそのキャラクタードローイングの深さと独創性ではなく、その知的力の活力とその叙情的な強さによって、奇跡的に一緒に保持することに成功します。 [9]

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私は銃には詳しくないが、この写真は弾丸の仕組みが分かる、いい写真なのではないか。
素人と言うか、銃に興味の無い人は、弾丸の全体が飛んでいくと思っているような気がする。そうではなく、弾丸には弾頭、弾薬、薬莢の3部分があると理解したらいいかと思う。つまり、弾丸はそれ自体が「小さなロケット」だが、飛んで行くのは「弾頭」だけなのである。拳銃は発射台、薬莢はロケットの部分品と言うよりむしろ(拳銃という発射台を保護するための)使い捨て発射台と見たらいい。一発撃つごとに薬莢は外に排出される必要があるわけだが、そのことをいい加減に描いている漫画やアニメは無数にある。下の拳銃では散弾も使えるようで、弾頭部分が「小さな散弾」「大きな散弾」「普通の弾頭」の三種類ある。
拳銃好きな人は男には多いと思うが、拳銃の本体というか本質部分は弾丸にあり、拳銃自体はただの発射台にすぎない。だから、鉄パイプの一方に弾丸を詰め、その後部から強く鉄針(拳銃の撃針に相当する)で叩くだけでも発射できるはずである。様々な拳銃のあの優美な形態は、「本質的でないからこそいろいろな形にできる」わけだ。



画像

高津カリノという漫画家がいて、web4コマ漫画が主な活動だと思うが、5回もアニメ化されているようだ。書籍化もされていて、私も「working!」はたぶん全巻読んだ。アニメも面白かった。(実に理想的なアニメ化で、たぶん原作を超えている。)
で、ここで論じるのは、「高津カリノ作劇メソッド」である。
つまり、大きな事件らしい事件もほとんど起こらない、日常の話だのに、なぜ読者や視聴者の興味をつなぐことができるのか。そこに何かのメソッドがあると思うわけである。
彼女(作者)の興味の中心が恋愛にあることは確かだろう。まあ、どちらかと言えば「恋愛以前」「恋愛未満」の男女のモヤモヤした関係が、自然と(あるいは誇張されて)小さな事件やドラマを生む、というのが「高津カリノメソッド」だろうと思う。なお、その事件はだいたい「誤解」から生じる。当人たちは大真面目に悩むが、悩む意味が無いことで悩むのだから、はたから見たらこっけいなわけだ。
このメソッドだと、舞台さえ変化させればいくらでもドラマは作れることになる。ファミリーレストラン、役所、声優業界などだ。自分で堂々と言っているように声優業界などまったく知らないようだが、自作のアニメ化に立ち会うことで一般人よりは知っているだろう。他のふたつは、おそらく経験のある職場だと思う。つまり、「場所(話の舞台)」の知識があるわけだ。これだけでも、完全に頭の中で舞台を設定する「なろう小説」の類よりは読者に実感を与える点で有利である。
で、その舞台が、恋愛という異分子を投入することで、或る意味「非日常的な」ドラマが生じるのが「高津メソッド」の本質かと思う。これは、多くのテレビドラマ、特にヒット作品の特徴でもあるのではないか。
とすると、私のように恋愛にほとんど興味の無い人間が「面白いドラマ」を書けるはずがないという、情けない結論になる。まあ、何を面白いと思うかは個人差があるだろうが、世間の多くの人は、政治や戦いよりは恋愛や笑いを好むだろうというのは想像できる。で、私は政治には興味があるが、政治のドラマを書くだけの知識も能力も無いわけである。
としたら、無理にでも恋愛と笑いのあるドラマを考える努力をするべきかな、というのが当座の結論である。恋愛に興味が無いというのも、「自分には関係ない話だから」というだけのことで、恋愛が人間を動かす最大のエネルギーのひとつでドラマの柱であることはよく知っているのである。ちなみに、恋愛方面が苦手な創作者は暴力というドラマを追いかける傾向があると思う。その恋愛は単なるエロ、性欲方面になりがちなのではないか。


(追記)高津カリノの作劇メソッドに追加しておく。それは「登場人物が基本的に変人か馬鹿であること」だ。ただし、馬鹿も変人も善良な人間が多い。と言うより悪人は出ないから読後感がいい。馬鹿だから、誤解しやすく、悩むことが多いのだが、読者から見るとその姿がおかしいわけだ。で、問題解決(誤解が解けること)で、人間関係が少し深まり、つまり男女の間が接近することになる。漫画的には、絵柄が可愛いのですべてがおままごと的な印象になり、読む側のストレスが無い。多少無理な設定も「まあ、漫画だからね」ということで、その無理さもギャグ化される。つまり、高津メソッドは小説では使えない可能性が高い。


(追記)今、高津カリノのツィッターを見ると、私が分析するまでもなく、当人がこう言っていた。www

私の漫画に転生したら十中八九職場等狭い世間で異性とくっつけられるから転生予定の人は気を付けてくれよな!(・ω<)




某ブログから孫引き引用。

(以下引用)

戦闘教師「ケン」 華東大乱編 より

上記文抜粋
・・・・・・・・・・・・
旧軍による略奪の構造
ゲーム会の仲間の一人から「日本軍は何故あんなに略奪したのか」と聞かれた。
別に日本人を責める目的ではなく、あくまで歴史的関心からである。
この点、幸いにして最近、日中戦争関連の本を何冊か読んでいたので助かった。
まず、日華事変の特に初期の場合、略奪の主体は主に日本軍ではなく、中国・国民党軍であった。
国民党軍が退却する際に、民家を略奪して火をかけ、場合によっては兵装を捨てて略奪した民間人の服に着替えて、そのまま軍から逃亡してしまうのである。
初期の日本兵の記録を読んでいると、「中国兵というのは自国の民に酷いことをするものだ」みたいなことがよく書かれており、実際のところそう思ったのだろう。
日本兵による略奪が増加してくるのは、南京陥落前後である。
戦線が拡大したことで、兵站機能が大きく低下したにもかかわらず、兵站能力を無視した作戦を行ったことが第一。
国民党、共産党を問わず、ゲリラ戦が行われた結果、対ゲリラ戦(COIN)の中で殲滅戦が行われ、ゲリラと関係があると思われた家は略奪と放火の対象となり、それは時とともに激化、対象も際限なく拡大していった。
多くの場合、日本軍であっても作戦開始に際しては兵站を準備する。
策源地には兵站の山ができ、一応は規定数が準備される。つまり、計算上は問題ない。
ところが、日本軍は自動車化が遅れており、トラックもあるが、作戦を開始して敵地や不整地を走るようになると、途端に故障が続出してしまい、牛馬による輸送に頼ることになる。
作戦開始後、数日は補給が届くが、5日もすると補給が滞ってしまうのはザラであった。
策源地で「これだけ物資があれば今回は大丈夫」と思った兵も、数日後には「あれは何だったのか」と疑問を覚えたという。
一方、兵卒は尋常ならざる糧食を持たされる。
陸軍の場合、米麦が一日6合分を基準とし、副食物(乾燥味噌、同野菜、缶詰など)を含めて約1.3kg。これを7日分持たされるので、これだけで9kgとなる。それ以外の武装と兵装を合わせて30kg前後になるのが普通だった。
ドイツ軍やアメリカ軍の場合、2日分あるいは3日分しか携行しないので、糧食は2~3kg程度で済む。
そのため、日本兵は「糧食は後で取りに来れば良い」などと理由をつけて、糧食を放置あるいは隠匿して少しでも身軽になろうとした。
結果、作戦開始から5~7日もすると、糧食を欠くところとなり、民家から「徴発」するところとなる。
最前線の部隊は軍票などを使って一応は購入の形をとり、中国人も応じる。
が、後から来た部隊には「売れない」「もう何もない」という話になり、日本兵は「では強制徴発だ」となってしまう。
暴力的に略奪をした場合、証拠を隠滅するため、理由をつけて放火する。
さらに遅れてやってきた増援部隊は、延焼して略奪され尽くした村を見て、「俺らの食い物どうすんだ!」と激昂し、近隣の村に略奪に向かうことになる。増援部隊もみな徒歩で行軍するため、前線に着く頃には糧食がなくなっているためだ。
結果、中国戦線では「最前線の部隊が一番楽」とすら言われたという。
それでも、中国軍が先に略奪、放火して退却するケースも多く、中国人民は自国軍と日本軍の双方によって略奪されるところとなった。これが、後の国共内戦で人民解放軍が圧勝する原因にもなる。
また、作戦の計画段階では期間を1週間など、兵站がギリギリ機能する範囲で設定されるのだが、殆どの場合、作戦中に期間が延長されるため、延長期間は殆ど兵站が機能しなくなってしまう。そのため、「糧食は前線で調達」が基本となり、実質的に略奪が容認されるところとなる。
ドイツ軍でもアメリカ軍でも兵站計画は重視されており、兵士一人ごとに必要なカロリーから弾薬まで緻密に計算した上で、その作戦が実施可能かどうかの判断がなされた。
ところが、日本軍の場合、まず作戦計画が策定され、その計画に従って兵站計画が作られるため、補給が可能かどうかが問われることは少なく、そもそも兵站を専門とする幹部(陸大)の育成すらされていなかった。そのため、作戦会議などにおいても、兵站将校の発言力は極めて弱かった。
この4月に政府によって否定された「従軍慰安婦」は、そもそも前線兵士を後送、休養させることができない日本軍の制度、体質が「慰安婦を伴って前線に出る」選択をなさしめた結果であり、この点でも「従軍」は当時の実態を表していたのである。
私は、日本の天皇家の祖は百済の王族だろうと思っているが、百済の滅亡は660年で、大化の改新より後のようだ。このあたりの時間のずれは、合理的に説明できないものか。まあ、べつに百済にこだわることもなく、朝鮮半島南部の小国の王族としてもいい。要するに、朝鮮の「骨品制」は日本の天皇の「万世一系」思想の基になっているだろうということで、松本清張も天皇家についてそれに近い考えを持っていたようだ。


骨品制

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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骨品制(こっぴんせい)は、朝鮮半島の古代国家新羅で導入されていた身分制度である。

概要[編集]

この場合の「骨」は血統家系を意味し、すなわち骨品とは出身氏族や血統の正当さを以って品位に代える、という考え方であり、制度はこれに基づいている。新羅の王都のみにおいて導入された氏族の序列をつけるための制度で、地方では適用されていなかった。

出身氏族により五段階に身分を区別し[1]、特に王族に属する者を最上位に置いて真骨(ジンゴル)と呼び(中でも父母共に王族に属する者を特別に聖骨(ソンゴル)と呼んだ)、以下、六頭品、五頭品、四頭品、平民と下る序列を行った。

王都では骨品制により身分の制限を受けた。就任可能な官職や結婚の自由、利用可能な服職、乗り物、贅沢品、家屋までが骨品で規制された。高級官僚に挙がるに上位の骨品だけが許され、諸官庁の長官はほぼ真骨が占めた。新羅時代に事実上の貴族と呼べるのは、この真骨のみである。

元々独自の身分体系を整えそれを重視していた朝鮮半島の三国は、後に新羅が百済高句麗を征服したことで、この制度により移された百済・高句麗の王族や貴族は低い骨品を与えて冷遇するとともに、将来に渡って変わらない身分上の絶対的格差を備えることで新羅一国による事実上の統一が図られることになった。

新羅の官位制度[編集]

三国史記』新羅本紀によれば、建国の当初のころは「大輔」という官名が最高位のものとして確認されるが、第3代儒理尼師今の9年(32年)に、下表の17階級の官位(京位)が制定されたとする。枠外の官位としては、第23代法興王の18年(531年)に宰相に相当するものとして「上大等(上臣)」が設けられた。また、三国統一に功績のあった金庾信(『三国史記』によれば、黄帝の子の少昊金天氏の子孫[註釈 1])を遇するものとして、第29代武烈王(金春秋、キム・チュンチュ)の7年(660年:この年百済を滅ぼす)には伊伐(角干)の更に上に「大角干(大舒発翰)」、さらに武烈王の息子の第30代文武王(金法敏)の8年(668年:この年高句麗を滅ぼす)には「太大角干(太大舒発翰)」という位が設けられた。

新羅王が新たに即位すると、直ちに最高官位の上大等(古くは大輔、舒弗邯)が任命され、その王代を通じて権力の頂点にたつという例が多い。これは貴族連合政治体制の現れであると見られている。強力な王権が確立した三国統一の後にも上大等が任命されるという慣習は続いているが、真徳女王の代になって651年には国家機密を掌握する執事部が設けられ、その長官の中侍が上大等に代わって政治体制の要となった。

京位は首都金城に居住する六部のための身分体系でもあり、これに対して地方に移り住んだものに対しては外位という別途の身分体系を併せ持っていた。しかし百済・高句麗を滅ぼした後、両国の遺民を取り込みに対抗していくため、京位・外位の二本立ての身分制度を再編することに努めた。673年には百済から帰属してきた者のうち、百済の2等官の達率の場合には、金城に移住した者に対しては京位10等の大奈麻に当て、地方に留まった者には外位4等の貴干を当てた。翌674年には外位を廃止して、京位に一本化した。

高句麗官位と新羅官位[編集]

さらに唐との戦闘を終えて684年報徳国を滅ぼして半島内の混乱を収拾した後、686年には高句麗人に対しても官位(京位)を授けた。このときには高句麗の3等官の主簿[2]に対して京位7等の一吉を当てた。

あわせて官制を参照。

このようにして、百済・高句麗両国の官位体系の序列を格下げした形で新羅の身分体系に組み入れることによって、それまで三国独自に展開されていた身分体系が新羅の政治秩序のもとに一本化され、統一国家としての内実を整えることに成功したと考えられている。



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