忍者ブログ
[61]  [62]  [63]  [64]  [65]  [66]  [67]  [68]  [69]  [70]  [71
・札幌の大火の前に理伊子が銀三郎のもとに奔るんだが、それをどういう手順にするか。
・岩野氏は炭鉱経営者としたので、札幌の大火と関係づけるにはどうするか。
・岩野氏の別企業として工場経営があるとする。
・その工場労働者がストライキをする場面を入れること。
・警官によるストライキ鎮圧。

・理伊子は田端兄妹のもとを一人で訪れる。そこで、銀三郎の「妻」を見て衝撃を受けるとともに、自分は彼女から銀三郎を「取り戻す」ことが可能だと考える。そこへ藤田に「承認」を与えたことを反省した銀三郎がやってきて(来る途中で警察隊によるストライキ弾圧現場を見て過ぎる)、理伊子とぶつかる。(ここまで、銀三郎中心に描写)銀三郎は理伊子を連れて、札幌の高級ホテルに行く。それとすれ違うように、藤田が田端家にやってくるが、その後(殺人場面)は描かれない。
・ホテルで一夜を過ごした銀三郎と理伊子だが、同じ夜に札幌の離れたところで大火が起こるのを目撃する。
・翌朝、岩野家に戻った理伊子を力弥が訪れ、田端兄妹の死体が焼け跡から見つかったと話す。理伊子は興奮して、それを確認するために、車で焼け跡に行く。後を馬で追う力弥。
・(工場は岩野氏とは無関係でもいい。)
・しかし、資本家や華族への群衆の憎悪の結果、「人殺し須田子爵の情婦だ」とされて理伊子は投石されて殺される。
PR
・雪の残る道路に落ちているアジビラ。靴に踏まれ、泥にまみれているが、煽情的な赤い大文字で、何かを糾弾するアジビラだと分かる。
・家々やビルの壁に貼られた同じアジビラを剥がす警官。その際、「夕張炭鉱」「労働者弾圧」「不正資本家を糾弾せよ!」などの字が読める。
・家の玄関の戸の隙間から投入されたアジビラを見つけて読む少年。その姿を見て慌てて少年の手からアジビラをひったくり、叱責する家人。
・岩野家の屋敷の前を通りながら、屋敷を見上げて、何かひそひそ話をする通行人たち。そのひとりは、着物の懐から例のアジビラを出し、相手に見せた後、すばやく引っ込める。
(上のシーンはすべて無音)

富士谷の家の中。富士谷、兵頭、栗谷が集まっている。
兵頭「あのビラを撒いた以上、我々に捜査の手が伸びるのは確実だ」
富士谷「前と話が違う。あんたは、この件で我々が逮捕されることはないと言っていた」
栗谷「まあ、俺はそうなると最初から思っていたけどな。富士谷さんも覚悟の上だろう?」
兵頭「逮捕されるとは言っていない。ただ、捜査されると言っただけだ。その追及から逃れるには、いい手がある。それは、もっと大きな事件を起こして混乱させ、しかも、その犯人を警察に密告することだ」
富士谷「俺は、これ以上の直接行動は嫌だ」
兵頭「アジビラ程度は直接行動の範疇に入らん。お前はまだ何もやっていないのだ。破壊無しに建設ができるか」
栗谷「誰を犯人にするんだ?」
兵頭「佐藤と桐井だ」
富士谷「それは可哀そうだ。我々とは方針が違うだけで、悪い奴らじゃない」
兵頭「犠牲無しに革命はできん。大きな事件を起こすことで、全国民にこの社会の悪に気づかせるのが目的なのだ。つまり、国民ひとりびとりが問題の存在に気づき、考えることが革命の第一歩なのだ。偉い学者が学界の片隅で何を言おうが、何の足しにもならん。俺たちのような無学者でも、行動すれば、社会は動く。まあ、要するに、家が火事になれば、生命の危険は誰でも分かるが、資本家が労働者の給与を低くするという「殺人行為」は、それが殺人行為だと気づかれないのだ。」
富士谷「だから、我々が火事を起こすのですか? それじゃあ、資本家と変わらないじゃないですか」
兵頭「どの家が火事になるかで意味は違ってくる」
栗谷「火事というのは、ただのたとえですか?」
兵頭「本物の火事でもいい。中身の腐った家は壊すか燃やすしかない。だが、我々が火をつける必要は無い。そういう仕事にはそれに適した連中がいる」
富士谷と栗谷、物問いたげに兵頭を見るが、兵頭は冷酷な微笑を浮かべているだけである。

(このシーン終わり)
・夜。霧が一帯を包んでいる。
・銀三郎が馬での遠出からの帰途である。町近くの林の中を通りかかると、林の陰から男が現れる。

懲役人藤田「ちょっとお待ち願えますか、須田子爵様」
銀三郎「何者だ」
藤田「藤田ですよ、あなたの忠実な家来です」
銀三郎「家来にした覚えはない」
藤田「まあ、自発的家来という奴で。それより、須田さん、あんた大変なことになっていますよ」
銀三郎「どういうことだ」
藤田「酒場で田端という野郎が騒いでいたんで、その話を少し聞いたら、あんたあいつの妹のキチガイと結婚しているらしいじゃないですか。まあ、うまく聞き出したんで、あっし以外はまだ知らないでしょうがね。このことが世間に知れたらまずいんじゃないですか」
銀三郎「どうでもいい話だ」
藤田「あっしなら、簡単にこの件を片付けられますがね。誰にも迷惑をかけないで、すべては秘密の沼の中に消えますよ」
銀三郎「お前がやりたいなら、何でも好きにしろ。俺にはどうでもいいことだ」
藤田「まあ、後払いでもいいんだが、少し手付を貰えませんかね。1円でいいんですが」
銀三郎「カネか。欲しいならやろう。踊って見ろ」
銀三郎、財布を取り出して1円札を空中に投げ上げる。藤田はそれを慌ててつかもうとする。
銀三郎は狂的な笑いをあげながら、次次に1円札を空中に投げ上げながら去っていく。

・藤田が風に舞うカネや地面に落ちたカネを拾う「踊る」姿。


(このシーン終わり)
松岡正剛の「千夜千冊」から引用。
べつに、兵頭のモデルとして大杉栄にこだわる気は無いが、彼のアナーキズムの根底が「究極の自由」への渇望にあったという点は確かなようだ。

征服の事実がその頂上に達した今日

とは、すべてが(不正は不正のままに)秩序化された世界ということかと思う。


(以下引用)


大杉栄
大杉栄自叙伝
中公文庫 2001
ISBN:4122038790

 紊乱という言葉を最近はあまり見かけなくなった。大杉栄の生涯はこの紊乱をもって進み、紊乱をもって途絶える。
 いまでは何が不穏であるかがわからなくなっている。しかし大杉栄はつねに不穏の上にいた。社会が不穏であるだけでなく大杉自身が不穏であった。大杉が生きることは、大杉だけではなく大杉の周辺を不穏にした。
 しかしその紊乱と不穏は「生の拡充」そのものが生んでいくものだった。有名なエッセイ「生の拡充」には、こうある。
 「生の拡充の中に生の至上の美を見る僕は、この反逆とこの破壊との中にのみ、今日の生の至上の美を見る。征服の事実がその頂上に達した今日においては、諧調はもはや美ではない。美はただ乱調にある。諧調は偽りである。真はただ乱調にある」。
 乱調、なのである。
 乱丁、でもある。大杉栄はひたすら乱調をもって紊乱であろうとし、乱丁をもって不穏であろうとし、その途次で虐殺された。「春三月縊り残され花に舞う」。

 大杉栄を一言であらわすとすれば革命家とよぶのがいちばんふさわしい。大杉と親交が深かった江口渙も「ぼくが会った人物のなかで、大杉こそが最も革命家らしい革命家だった」と述懐した。
 いまは日本に革命家など一人としていなくなったようだし、革命家をめざしている者もいない。おまけにひどいことに、今日の世界情勢では、革命家はたいていはテロリスト呼ばわりされている。むろんすべての革命家はテロを排除しはしない。革命家はテロリストでもありうる。
 しかし、テロリストであることは革命家の条件ではない。革命家の条件はいろいろある。大杉の場合、最後まで同志であることをやめなかった和田久太郎によれば、その条件は「強情と我儘」にあったという。和田は大杉が伊藤野枝とともに虐殺されたあと、たった一人で報復テロを敢行しようとした男であった。そんな和田が言うことだから、まさに大杉は強情で我儘だったのだろう。

 大杉は「傲岸」また「不遜」でもあった。たとえば15歳年上の堺利彦には友達扱いしたのみならず、たえずおちょくり、ほとんど一度も尊敬の姿勢をあらわさなかった。
 なぜ大杉が傲岸であったかといえば、そういう気質もあっただろうが、おそらくは「冬の時代」に自己対決するためだった。堺の恬淡たる“待機主義”も気にくわなかった。
 大杉が社会主義にめざめ、アナキズムに走ったとき、すなわち丘浅次郎の『進化論講話』やクロポトキンの『或る革命家の思い出』やバクーニンの『神と国家』に傾倒したとき、時代は明治33年をこえて20世紀に入っていた。明治33年は治安警察法が公示された年である。
 この時代、日本は日清日露の両戦争の間にあった。大日本帝国の確立期と社会主義の導入期と産業革命の実践期にあった。1903年、幸徳秋水と堺利彦はすかさず有楽町数寄屋橋に平民社をおこして週刊「平民新聞」を発行した。山川均がいた。18歳の大杉はさっそくここを訪れ、日本の社会主義の夜明けを嗅いだ。「萬朝報」から石川三四郎が、「二六社」から西川光二郎が加わり、木下尚江・内村鑑三中里介山・斎藤緑雨に加えて、画家の平福百穂・小川芋銭、それに宮崎滔天や竹久夢二・菅野スガが出入りしていた。ほぼ全員が日露戦争開戦に反対していた。
 直後に足尾鉱毒事件がおこり、田中正造は天皇に直訴した。直訴状は幸徳秋水が前夜に認(したた)めたものである。こうして大杉は田中や幸徳に強く刺激され、直接行動論に傾いていく。
 大杉は生活費のために堺が企画した売文社の「家庭雑誌」の編集に携わっていたのだが、一方では、直接行動をみずからに喚起させるようなことばかりをする。
 アジテーション「新兵諸君に与う」「青年に訴う」を激越に綴って起訴され、屋上演説事件と赤旗事件のたびに入獄した。赤旗事件のときが23歳である。2年にわたる入獄をおえた1910年、大逆事件と日韓併合がおこり、翌年に幸徳秋水ら12名が処刑された。「冬の時代」の寒風が吹き荒んだのである。

 こういう季節の渦中、堺の“待機主義”に大杉が満足できるはずがない。堺は無視され、大杉は荒畑寒村と「近代思想」の創刊とサンジカリズムに向かう。1912年(大正元年)、27歳である。
 それから5年後、ロシア革命が勃発した。大杉は幸徳秋水の死の背後に煮えたぎる行動主義に燃え、居ても立ってもいられなくなっていく。日本にロシア革命をおこしたかったのではない。ロシア革命のようなものしか革命だと思われないことに、怒りをおぼえたのだ。なぜなのか。そこには自由がないからだ。

 こうして大杉の革命家の条件は自由恋愛にもあらわれる。
 大杉は21歳のときに堀保子と結婚するのだが、1915年には神近市子を炎のように燃やし、翌年は辻潤の恋人であった伊藤野枝と恋愛関係に入って、その複雑な女性関係を新聞で詰(なじ)られ騒がれ、その年の冬には日蔭茶屋で神近に刺されるにおよんだにもかかわらず、断固として「生の拡充」をやめようとはしなかった。
 それを強情とか我儘とよぶのがいいのかどうかはわからないが、大杉は女性をなんとしても一個の人間として、男女にかかわりない存在者として扱いたかったのである。そこで大杉は自由恋愛の3カ条をあげる。一、互いに経済的に自立する。二、同居することを前提にしない。三、互いの性的自由を保証する。
 こんなことが革命家の条件になるはずはないし、男の勝手だと言われるのがオチであるのだが、大杉にはこれを邪気なく実践しつづけるものがあった。堀保子との結婚も夫婦別姓を通した(夫婦別姓の先駆である)。
 本書『自叙伝』はその全体の三分の二ほどが大杉のヰタ・セクスアリスのようなところがあるのだが、とくに日蔭茶屋事件前後の三角四角関係については、丹念というのか、無邪気というのか、大杉の「新しい女」にのみ期待する心情が吐露されていて、いささか不憫なほどである。しかし、女性からしてみればこんな大杉こそ紊乱の張本人なのである。

 一方、久米正雄は大見得が切れることが革命家大杉の特色であると見た。
 1920年10月、大杉は堺利彦や山川均が尻込みしたコミンテルン極東社会主義者会議に出席するために上海に密航し、コミンテルンの代表チェレンに向かって、こう大見得を切った。「僕は金を貰ひに来たのぢやない。日本は日本でどこから金が来なくても、今迄既に自分で自分の運動を続けて来たのだ。これからも同じ事だ。浄血がつくやうな金は一文も欲しくない」。
 『日本脱出記』にある言葉だが、これがなぜ大見得かというと、大杉ほど貧乏続きの男はいなかったし、大杉ほど好き勝手に人の金を借りるのがうまかった男もいなかったからである。後藤新平、頭山満、杉山茂丸、いずれも大杉の無心に手を貸した。このあたりのちの北一輝と共通するものがある。

 そもそも大杉は陸軍幼年学校に行ったほどだから、軍人になりたかった少年だったのである。子供時代は西郷隆盛に憧れた。元帥になりたかったのだ。
 しかし大見得を切る者など軍人にはなれっこない。軍人になるには、まず一兵卒としてのディシプリンが要請される。ところがはたして少年大杉は、男色事件(遊びだったとおもわれる)や学友殺傷事件などにより陸軍幼年学校を放校され、東京に出て外国語学校仏語科に入ったのである。
 ところがこれが幸いして、たちまち語学の才能を発揮した。内なる才能にひそんでいた「質の乱調」が創発したというべきか。

 大杉には有名な「一犯一語」という言葉がある。
 何かを犯して一回投獄されるたびに、外国語一カ国語をあらかたマスターしてしまおうというモットーだ。大杉自身はもっと過激に「俺は十カ国語で吃りたい」と言ってのけた。
 実際にも同時代の証言では、大杉の語学力は群を抜いていたらしい。なかでも大杉が賭けたエスペラント語に対する情熱と先駆性には脱帽したい。印刷工でエスペランチストであった山鹿泰治の影響によるのだが、言語におけるインターナショナリズムあるいはアナキズムをここまで突っ込んだ者は、日本にはそれほどいない。本郷に日本最初のエスペラント学校を開いたのは山鹿と大杉だったのである(ポーランドの眼科医ザメンホフが創案した世界語エスペラントが日本に入ってきたのは1900年ごろで、長崎の海星中学でフランス人教師ミスレルが教えたとされている)。
 ちなみにぼくは、学生時代にエスペラントの日本導入史や山鹿泰治に関心をもっていろいろ調べていたことがある。資料が少なくて苦労したが、二葉亭四迷、吉野作造、水平社の西光万吉・阪本清一郎・駒井喜作、岩佐作太郎、歴史学の黒坂勝美らがエスペランチストだった。その後、向井孝の『アナキズムとエスペラント――山鹿泰治・人と生涯』がまとまった。

 大杉にはまた「白紙主義」という有名な言葉がある。
 労働者は白紙の上に自分の言葉を一字一字、一行一行を書きつづけるべきだという意味なのだが、そこには言語そのものが自分たちの血肉とともに新たな言語となって起爆するべきだという思想も含まれていた。大杉は「一犯一語」、とりわけエスペラント語によって、すべての革命思想を白紙から創りたかったのである。
 1906年、神田美土代町の青年会館で開かれた日本エスペラント協会の創立大会で大杉がエスペラントに翻訳して朗読してみせたのは「桃太郎」だった。
 大杉はなんであれ独学者であって、革命すら独学でおこしたかったのである。ぼくは「白紙者」という尊称をこそ贈りたい。

 こんなふうに書いていけば、大杉にひそむ乱調哲学はすべからく革命家につながっているように思われようが、むろんそんなことで大杉栄という傍若無人な鬼才をプロフィールできるわけはない。
 そもそも大杉は「革命」という言葉よりずっと「自由」という言葉を本音で生きていた革命者であった。本書には「自叙伝」のほかに短文エッセイ「僕は精神が好きだ」が収録されているのだが、そこには「思想に自由あれ。しかしまた行為にも自由あれ。そしてさらにはまた動機にも自由あれ」という一文がある。
 大杉は精神そのままの思想を動機にさえ求めたのだった。もし革命というものがあるとすれば、その精神の起点こそが革命であってほしかったのだ。こんなふうにも書いている。「僕の一番好きなのは人間の盲目的行為だ。精神そのままの起爆だ」と。
 このような大杉の「白紙的盲目的独学的自由精神」を捉えてみると、実はその乱調哲学は自由のために生まれたというよりも、もっとやむにやまれぬ事情の突破のために培われたものだったという気がしてくる。

 ここではひとつだけその例示をあげることにする。たとえば、あまり語られてこなかったことに、大杉の乱調の哲学が大杉を幼児期から悩ませた吃音にもきっと起因しているのではないかということがある。
 実際にも大杉の吃音はかなりひどかったようで、山川均の自伝には、大杉がカキクケコの発音にさしかかると、あの大きな目をパチパチさせて、金魚が麸を飲みこむような口つきになったことが述べられている。陸軍幼年学校に入ったとき、「下弦の月」と言えないので、「上弦ではありません」と云って切り抜けたという話も残っている。また、後藤新平のところに借金に行ったとき、500円を借りるつもりがゴの発音が出ず、仕方なく300円と言って馬鹿をみたというような話を大杉自身が吹聴してもいる。
 こういう大杉を大杉自身は「内気」だとみなしていた。本書にはこのような文章が出てくる。
 「こう云うと人はよく笑うが、僕にはごく内気な、恥ずかしがりのところがある。ちょっとしたことですぐ顔を赤くする。人前でもじもじする。これも生まれつきであろうと思うが、吃りの影響も決して少なくあるまいと思う」。

 大杉栄は明治18年(1885)、四国丸亀の生まれだが、父親の転任によって新潟新発田に育っている。新発田はのちの大倉グループや大成建設をつくった大倉喜八郎の町である。日本で最初に自動車を輸入した男である。
 だから大杉には故郷がなかった。その後も、のべつ引っ越しし、引っ越しをしないときはたいてい監獄にいるか、あるいは官憲に付け回されて動いていた。日本を捨てようとしたことさえあった(日本脱出記)。すなわち大杉は一所不在の人、無住の人という意味でも「白紙者」なのである。故郷をもたなかった男だったのだ。永久の流浪者であって、転位者であり、母国喪失者なのだ。
 しかしだからこそ、大杉は「母なるもの」によって自由と革命と祖国と言語とを創りたかった。そのためには既存の秩序と既存の制度と既存の観念と既存の行動を犯していく必要があった。
 大杉の思想と行動はそのための証明書でなければならなかったのである。だからこそ大杉は、こう書いたのだ、「紊乱は僕等の真の生である」。

 1923年、大正12年、8月に大杉と野枝の子の長男ネストルが生まれた。ロシア革命時のウクライナ自由コミューンの闘士ネストル・マフノにあやかった命名である。
 9月11日、関東大震災が突然に東京を襲い、帝都は阿鼻叫喚の地獄と化した。朝鮮人が井戸に毒物を投げこんでいるという噂が旋毛風のように疾駆した。9月14日、伊藤野枝は戒厳令の焼け野原の中を乳母車をよろめきながら押し、足助素一を訪ねて金を借りた。足助は有島武郎の無二の親友で、有島から大杉・野枝を援助するように申し渡されていた。その有島はこのあと波多野秋子と軽井沢に心中自殺する。
 翌日、野枝は荒畑寒村の留守宅に夫人を見舞って激励し、16日には内田魯庵の『最後の大杉』によると、大杉と野枝は連れ立って洋装をして、鶴見・横浜方面に出掛けた。その夜、二人は戻らなかった。魯庵らはきっと鶴見の叔父のところに行ったのだろうと推測した。鶴見の叔父とは大杉の弟の大杉勇のことである。そこには大杉の妹あやめの子の橘宗一が預けられていた。また横浜には野枝と辻潤の子の一(辻まこと)が辻とともにいるはずだった。

 二人が鶴見でいくばくかの生活費を渡し、宗一を連れてその家を出たあたりのことまではわかっている。
 そのあと、麹町憲兵隊が大杉と野枝と宗一を拘引連行して、めった打ちにしたのち古井戸に投げこみ、上から煉瓦を次々に落として虐殺した、ということになっている。それは甘粕正彦憲兵大尉の指令だ、ということになっている。事実、甘粕は11月の軍法会議で懲役10年の刑罰をうけた。
 しかし、その後、甘粕はこのことについていっさい口を閉ざしたため、真相はいまだに闇の中にある。
 のちに、そのころ赤池警視総監のもとで官房主事に就いていた正力松太郎の証言によると、陸軍のタカ派たちが14日に大杉栄・吉野作造・大山郁夫・堺利彦を殺すと言っていたらしい。拉致決行暗殺断行は2日遅れたにすぎない。

 3人が殺された。大杉栄38歳、伊藤野枝28歳、宗一6歳。
 3人の墓は、伊藤野枝の故郷に近い福岡市今宿の山中にある。野枝は3度結婚して、7人の子供を生んだのである。そのうち大杉の遺児として、魔子、幸子、エマ(エマ・ゴールドマンからの命名、のちに九州エマと呼ばれた)、ルイズ(ルイズ・ミッシェルからの命名)、ネストルの5人の子が遺された。
 大杉栄とは何者だったのか。最近のぼくは、大杉栄の後半生をつくったのは伊藤野枝だったのではなかったかと思っている。

参考¶大杉栄を読むのは、ぼくがそうだったのだが、中公の「日本の名著」第46巻の「大杉栄」(1969)か、筑摩の「近代日本思想大系」第20巻の「大杉栄」が、いい。前者は多田道太郎の、後者は大沢正道の解説がつき、2冊を併わせると、『獄中記』『生の闘争』『青年に訴う』『日本脱出記』『人生について』『ロシア革命論』その他の、だいたいの著作が収録されている。岩波文庫からは、この2冊に未収録なものを含めて飛鳥井雅道がピックアップした『大杉栄評論集』が刊行されている。全集はいまは入手不可能な現代思潮社版がある。評伝もいくつかあるが、叩きつけたような文章の竹中労の『断影・大杉栄』(現代書館・ちくま文庫)、最も詳細で最もダイナミックに綴られている鎌田慧の『大杉栄・自由への疾走』(岩波書店)、大杉のパリ時代に焦点をあてた松本伸夫の『日本的風土をはみ出した男』(雄山閣出版)が生き生きとしている。
・風はあるが、良く晴れた初冬の日。郊外。
・乗馬して野原を行く、理伊子と力弥。地面には雪が残っている。

理伊子「軍人さんは乗馬もお上手ね」
力弥「理伊子さんこそ、お上手です。いつごろから乗っているんですか?」
理伊子「まだ、2年くらいですわ」
力弥「本当にお上手だ。我々は仕事上の必要から習っただけですから、最低限の技能しか持っていません。近衛騎兵などは、実に上手に馬を操りますよ。パレードで馬が暴れたら大変ですからね」
理伊子(力弥の言葉は耳に入らない様子で遠い前方を見て)「あら? あれは『噂の子爵様』ではないかしら」
・前方から同じく乗馬で近づいてくる銀三郎。
・軽く敬礼して銀三郎を迎える力弥。
銀三郎(力弥に会釈しながら理伊子に顔を向け)「そちらの軍人さんとは初対面だと思うが、紹介してくれますか?」
理伊子「真淵力弥少尉よ。少佐だったかしら? 私、軍隊の階級がよく分からなくて」
力弥(笑って)「外部の人には同じようなもんでしょう。どちらでもいいですよ」
銀三郎「須田銀三郎と言います。お見知りおきを」
力弥「須田子爵ですね。存じ上げております」
理伊子「ところで、お菊さんと鳥居先生の縁談はどうなりまして?」
銀三郎「関心がおありで? ただの庶民の縁談ですよ」
理伊子(冷笑を浮かべて)「もしかしたら、銀三郎さんが心穏やかでないのではないかと」
銀三郎「ほほう? 僕が菊に関心を持っていると?」
理伊子「そりゃあ、あんな可愛い娘が近くにいたら、若い男が関心を持たないほうが不思議でしょう」
銀三郎「残念ながら、僕は妻帯者なんで、そういう資格が無いんですよ」
理伊子、青ざめる。
理伊子(言葉を詰まらせながら)「そ、その方、あなたの奥様は、私が存じ上げている人なんですか?」
銀三郎「いや、知らんと思いますが、この前の園遊会であなたが少し話していた、田端退役大尉の妹ですよ。もっとも、あいつは退役大尉でも何でもなく、ただの上等兵上がりですがね」
理伊子「そうですか。ご結婚おめでとうと申し上げるべきでしょうね」
銀三郎「さて、おめでたいかどうか。相手は少し頭のおかしいビッコの女なんでね」
理伊子「御冗談でしょう? 本当なんですか?」
銀三郎「まあ、若気の至りですが、結婚したからには仕方がない。ということで、近いうちに世間にもこの話は伝わるでしょう」
一礼して去っていく銀三郎。呆然として馬上で凍り付く理伊子。心配げに見守る力弥。
力弥「そう言えば、その田端という男が分不相応なカネを手に入れたようで、酒場で騒いでいたそうです。しかも、郊外に家を買ったということですが、そのカネの出どころがもしかしたら須田子爵かもしれませんね」
理伊子「あなたも案外下々の噂に詳しいのね。そんな酒場などにお行きになるんですか?」
力弥(ムッとした顔で)「……同僚から聞いた話です。どうやらあなたにはあまり嬉しくない話のようですね」
理伊子「あら、どうして?あの須田子爵はもともと頭がおかしいという噂の人ですから、私は何とも思っていませんわ。さあ、風も冷たいし、そろそろ戻りましょう」

(このシーン終わり)

<<< 前のページ 次のページ >>>
プロフィール
HN:
冬山想南
性別:
非公開
P R
忍者ブログ [PR]

photo byAnghel. 
◎ Template by hanamaru.