不倫騒動で「西郷どん」出演を辞退した女優斉藤由貴(51)が、フジテレビ系スペシャルドラマ「黒井戸殺し」(4月放送)でドラマ復帰することが14日、分かった。
昨年7月期のTBS系連続ドラマ「カンナさーん!」以来7カ月ぶりとなる。
脚本家三谷幸喜氏(56)が、アガサ・クリスティの名作「アクロイド殺し」を日本で初めて映像化する、野村萬斎(51)主演のオールスターミステリー。
①
My voice sounded as if it came from the grave.
“Can I see the manager?” I said, and added solemnly, “alone.” I don’t know why I said “alone”.
“Certainly,” said the accountant, and brought him.
The manager was a calm, serious man. I held my fifty-six dollars, pressed together in a ball, in my pocket.
“Are you the manager?” I said. God knows I didn’t doubt it.
“Yes,” he said.
“Can I see you,” I asked, “alone?” I didn’t want to say “alone” again, but without this word the question seemed useless.
*難しい単語も構文も無しで、英語というものは書けるものだな、という感じだ。こうした短い文章に習熟するほうが、英語上達の上でも早道だろう。
(注)
pressed together in a ball:札束が一緒くたに握り潰されて丸くなっている、ということ。
(研究)
but without this word the question seemed useless
・直訳すれば「だが、この言葉無しでは質問が無効な気がしたのだ」となるが、下の試訳では少し意訳してある。また、段落分けも少し変えてある。訳の上では邪道かもしれないが、もちろん、その方がいいという判断によるものだ。
[試訳]
私の声は墓から出てきたかのように響いた。
「マネージャーに会えるかね?」私は口座係に言った。そして「他の人無しでだ」と厳かに付け加えた。どうして自分がそんなことを言ったのか、私は知らない。
「もちろんです」と口座係は言って、マネージャーを連れてきた。
マネージャーは静かな、真面目そうな男であった。私は自分の65ドルをポケットの中で握りしめていたので、それは握り潰されてボールのように固まっていた。
「あなたがマネージャーかね?」私は言った。神かけて、私はそれをまったく疑ってもいなかったのだが。
「そうです」彼は言った。
「話をしたいのだが」と私は言った。「他の人抜きで」
「他の人抜きで」などと言うつもりはまったく無かったのだが、そう言わないと次の言葉が出てこないような気がしたのだ。
MY BANK ACCOUNT(私の銀行口座)
STEPHAN LEACOCK
* 最初に言っておくが、この英文は原文そのままではなく、易しくリライトされたもののようである。だから非常に読みやすいのだが、上級者向けではない。しかし、うまくリライトされている感じであり、十分に面白いはずである。
* (注)は中学生レベルの読者を想定してつけてある。
* (研究)は英語的に興味深いところや、作品解釈上の留意点を書いてあるが、ただの雑談にすぎないものもある。
①
When I go into a bank I get frightened. The clerks frighten me; the desks frighten me; the sight of the money frightens me; everything frightens me.
The moments I pass through the doors of the bank and attempt to do business there, I become an irresponsible fool.
I knew this before, but my salary had been raised to fifty dollars a month and I felt that the bank was the only place for it.
So I walked unsteadily in and looked round at the clerks with fear. I had an idea that a person who was about to open an account must necessarily consult the manager.
I went to a place marked “Accountant”. The accountant was a tall, cool devil. The very sight of him frightened me.
(注)
irresponsible:責任能力の無い、当てにならない was about to:今にも~しようとする "Accountant”:会計係 *銀行なら口座係とでも言うのかもしれない。
(研究)
frighten:ぎょっとさせる
・日本語の「驚かされる」には、実はあまり驚かされるニュアンスが無い。「君には驚かされるよ」などと平然とした口調で言ったりする。したがって、ここでは「肝を潰す」などの訳語がいい。この「frighten」は、いわば作品全体のキーワードであり、この後の彼の行動のすべては彼が「frighten」したことから来ている。誰でもそういうことはあるもので、場違いな場所に行った時の舞い上がった気分がこれから先の話の展開の鍵になっている。
frightenとfrightens
・第一段落後半の文はセミコロンによる並列描写だが、複数形の語が主語の時には動詞には「三単現のS」は付いておらず、単数の時には付いている。注意したいのは「 the sight of the money」や「everything」は単数扱いであると言うことだ。
fifty dollars a month
・もちろん、大した金額ではない。だが、本人にとってはなかなか大したものという気分だったので、つい銀行に口座を開こうなどと大それたことを考えてしまったのである。それが悪夢の体験になるとも知らず。
I knew this before
・「this」が何を指すのか、解釈に迷うが、指示語は直前の記述を指すという原則通りに、この時の自分の精神状態を指すと解釈する。「this」が銀行を指すなら、「this place」とか言いそうであるし。
[試訳]
「私の銀行口座」 スティーブン・リーコック
①
銀行の中に入った時、私はぎょっとした。事務員たちに私はぎょっとした。並んだ机に私はぎょっとした。金の並んだ光景にぎょっとした。すべてに私はぎょっとした。
銀行のドアを通ってそこで何かの用事をする段になると、私は責任能力の無い馬鹿になってしまう。
そうなることは前から分かっていた。しかし、私の給料が月50ドルに上がったので、銀行こそがその金を置くべき場所だと私は思ったのである。
そこで私は不確かな足取りで中に入り、びくびくしながら事務員たちを眺め回した。銀行口座を開こうとする者はすべからく銀行のマネージャーに相談する必要があるという考えを私は持っていた。
私は「口座係」と書かれた場所に近づいた。口座係は背の高い、冷酷そうな悪魔であった。彼のその姿は私を脅かした。漱石の『文学論』の「滑稽的連想」による小論
ある表現に対する聞き手や読み手の反応は、その表現の内容による部分と、音韻による部分があるが、音韻による連想が内容による連想と不調和を醸し出した時に、滑稽感が生じることがある。これが洒落・地口である。もちろん、音韻に無関係に、内容の対比による滑稽感もある。たとえば、「提灯に釣り鐘」は、どちらもぶら下がる物というだけの共通性しか無く、ただその一点で、軽い提灯と重々しい釣り鐘が並列されたことが聞き手に滑稽感を催させるのである。また、対比ではなく連続の意外さが滑稽感を生む場合があり、「恐れ入谷の鬼子母神」は、「恐れ入った」という言葉で終わるかと思っていたのが、「入谷」と続き、さらに「鬼子母神」と続く、その意外感がこの洒落の生命だろう。つまり、「入り」から「入谷」と続いた勢いでとんとんと「鬼子母神」が出てくるところが面白いのである。鬼子母神に何かの意味があるわけではない。
一般に、滑稽感とは、何かの心理的落差によるものだと仮定しよう。言い換えれば、「期待された内容」と「実際の内容」の落差から生じた心理的な浮遊感が滑稽感の正体であるとしてみよう。
我々は、謹厳な紳士にはそれにふさわしい言動・威厳を期待する。その紳士がこければ、見ている人間はその威厳の失われた状態と、その前の威厳との落差に滑稽感を覚えるのである。「こける」ことが喜劇の基本であるのは、それが、一瞬でその人間の状況を「喜劇的状況」に変えるからである。すべて失敗が喜劇的であるのも、同じ原理だ。
漫才では、話す内容が滑稽である場合と、話す当人が笑われる場合がある。後者は身体的条件、口調、表情などが笑う理由となる。
落語家の場合は、当人自身が笑われるというよりは、純粋に話す内容によって笑わすのが基本である。だから、林家三平や桂枝雀などは異端であったと言える。
身体的条件によって、すでに笑いの対象となる場合があるということは、前に述べた「心理的落差」が滑稽感の原因だという説に反するように見える。しかしこれは、社会の気風による習慣的条件づけにしかすぎない。ある風貌や身体的条件が笑いの対象になるかどうかは、固定的なものではない。肥満体が威厳の条件の一つであった時代もあったのである。一つだけ重要な事実を言えば、風貌が笑いの対象となる存在は、「愛すべき存在」とか「無害な存在」と理解されているはずである。それを逆手に取って、たとえばピエロの格好・メーキャップをした人物が凶悪な殺人鬼であった場合などは、その落差は滑稽感ではなく恐怖感を増幅することになる。恐怖と笑いは実は無縁のものではないということだ。
心理的落差の簡単な例は、漱石の『吾輩は猫である』の冒頭だ。「吾輩」という自称の語は、偉人豪傑が使いそうな威張った印象の言葉だが、その後に「猫である」と続き、しかも「名前はまだ無い」と来る。飼い主から名前もつけられていない程度の猫が「吾輩」と名乗るその落差が滑稽なのである。(このことは小林信彦も言っていることだが、おそらく誰でもその仕組みは直感しているはずだ。)
心理的落差が滑稽感の原因だということを示す事柄を二、三挙げてみよう。これはブラック・ジョークだが、両手両足の無い身体障害者の息子を持った父親に、その友人が「お久しぶり。最近、息子さんはどうしている」と聞くと、父親は、「うん、最近は野球チームに入って頑張っているよ」と答える。「へえ、すごいね。で、ポジションはどこ?」「うん、セカンドだよ」「ほほう、セカンドベースマンか」「いや、セカンドベースなんだ」
あまりにも非人間的なジョークなんで、これを紹介しただけで人非人扱いされそうだが、それ以来、私はセカンドと聞いただけでこの話を連想してしまうのである。このジョークのポイントは言うまでもなく、人間がその尊厳を奪われ、物扱いされたところにある。どういうわけか、我々は、ひどい目に遭っている人間を見ると、同情すると共に、笑いたくもなるようなのである。だから、スラップスティック喜劇は、「誰かがひどい目にあうことの繰り返し」なのである。トムとジェリーだろうが、トゥイーティーとシルベスターだろうが、ロードランナーとコヨーテだろうが、可愛い鼠や小鳥に、猫やコヨーテがひどい目にあわされる話である。
先ほどのブラック・ジョークに戻ると、どこに心理的落差があるかと言うと、身体障害者の少年が少年野球チームで頑張っているという部分で我々は乙武的なけなげな頑張りをイメージするのだが、その頑張りがまったくナンセンスな頑張りであることに、我々の持っていた常識的モラルに支えられた「意味の世界」が崩壊するというところがポイントなのである。つまり、我々は日常生活の中で、意味に縛られていて、その事に無意識の不自由感を感じている。そこで、ナンセンスによって意味の世界から解放されると、快感を感じるのである。その精神マッサージが笑いである。笑いは、社会的秩序や常識への反逆であり、しばしば不道徳なものとなるのは当然である。大昔には、笑いといえば、敵への嘲笑であり、人から笑われるということは、死ぬほどの屈辱だったのである。(笑いが武器であったということは、柳田国男も言っていた。)
自分が自分であることの不快感、あるいはある物はその物以外ではありえないことの不快感を我々の無意識は感じている。その牢獄を破壊し、そこから我々を解放するのが笑いだ。笑いとは常識的世界(日常の秩序)の破壊だと定義してもいいだろう。狂人は笑わない。笑えないから狂人になるのである。笑う余裕がある間は、我々の精神は無事だと言えるだろう。
今度はほのぼの系のジョークである。(たしか、藤子不二夫のエッセイで読んだ記憶がある。)動物園の入り口から入ろうとした男が、そこに象が座っているのを見た。やがて出口から出ようとすると、そこにも別の象が前の象とは反対向きに座っていた。そこで男が象に、「君たち、何をしてるんだい」と聞くと、「ブックエンドごっこだよ」。
まあ、この話でにやりとかくすりとか笑う人もいるだろうし、まったく面白くないと言う人もいそうである。この話のポイントは、まずはイメージである。動物園をはさんで、二匹の象が座っていて、彼らはブックエンドごっこをしているのである。これは幼児的な可愛らしさだ。絵本的な絵柄である。もちろん、象が人間の言葉を解すること自体、童話的でもある。ここには、破壊的なものは無い。誰かがひどい目に遭わされるわけでもない。だから、痙攣的な笑いは生み出さないが、それでも笑いの要素はある。それは、「幼児の笑顔を見れば、誰でもつられて笑う」という笑いである。これを天使の笑いとでも言おう。 これは破壊的な笑いとは対照的なものだが、それでも「心理的落差」はある。それは、「意外性」だ。この話の結末は、落語のオチのようなもので、それが無邪気な印象なために気が付きにくいが、十分に意外性のあるオチなのである。そのオチ(結末)が危険な方向で終わればブラックジョークになるというだけのことである。
以上から、予想と実際の「心理的落差」からくる「浮遊感」が笑いの根本であり、その落差が「常識的秩序を破壊する」場合に笑いが発生すると見ていいだろう。象のブックエンドに常識破壊があるかと言えば、そもそも象が人語を解すること自体シュールレアリスティックな話であり、童話的世界は常識的現実の破壊でもあるのである。
やや強引な論理を積み重ねてきたが、最後に、笑いを作る方式を考えよう。
漱石の『文学論』での笑いの分析を我流で解釈すれば、本来は結びつかない二つの事柄をわずかな共通点で強引に結びつけ、その落差によって聞く人を驚かせるというのが笑いの創造の基本であるようだ。あるいは、物事の常識的解釈に対して、あえて非常識な解釈を行い、しかもその解釈に屁理屈なりに理屈がある、という場合に、その意外性が笑いになるようである。
たとえば、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」というビートたけしの有名なフレーズがなぜ面白いかというと、やはりここには秩序破壊、常識的世界の破壊がある。しかも、そこには理屈が通っているのである。それは、車は、歩行者側が赤信号でも、歩行者が横断歩道を渡れば止まらざるをえないという事実だ。車という物理的な危険性を持った存在に対し、歩行者が無意識に感じている敵対意識が、このフレーズであぶり出され、やむなく止まっている車の前を堂々と歩いていく歩行者の姿を人々はイメージしたのである。それは、車という強者と歩行者という弱者の逆転、現実の秩序の破壊だ。
不倫騒動で「西郷どん」出演を辞退した女優斉藤由貴(51)が、フジテレビ系スペシャルドラマ「黒井戸殺し」(4月放送)でドラマ復帰することが14日、分かった。
昨年7月期のTBS系連続ドラマ「カンナさーん!」以来7カ月ぶりとなる。
脚本家三谷幸喜氏(56)が、アガサ・クリスティの名作「アクロイド殺し」を日本で初めて映像化する、野村萬斎(51)主演のオールスターミステリー。
戦略と戦術の覚え書き
Ⅰ マキァヴェッリ「戦争の技術」より
① 騎兵が歩兵より強いというのは間違いであること
馬は臆病な動物であり、戦場で思い通りに動かすのは容易ではない。前方に危険が待ち構えていると知れば、馬は前進しない。また、通常の場合、馬は拍車で容易に前進はするが、制動をかけ、停止させるのは容易ではない。また、馬は平坦で広い土地を走るのに適しており、山岳の斜面や湿地、林間などでは行動が著しく制限される。したがって、馬の利点は一にその機動性、速度にあり、騎兵自体の攻撃力が高いわけではない。騎兵が有効なのは、追撃の場面、あるいは兵力の速い展開が必要な場面である。
(中山注:ただし、以上は、アジア遊牧民の騎兵作戦を度外視しており、騎馬からの弓の射撃、ヒットアンドアウェイ戦術が歩兵に対して有効なことを考慮していない。)
② 大砲は歩兵に対してはそれほど有効ではないこと
大砲が有効なのは、城や砦などの建造物攻略においてであり、歩兵に対してはそれほど怖い武器ではない。というのは、(中山注:弾丸自体が破裂する近代の大砲とは異なり)大砲の与える被害は弓や小銃とそれほど差があるわけではなく、散開した歩兵に対して効率的なものではないからである。また、大砲の弾丸は直線的に飛ぶものであるから、平野において彼方の敵歩兵を狙う場合、僅かな角度の誤りによって、弾丸はその頭上を飛び越え、あるいはその前方の地面に当ることになる。(中山注:城を狙うのが、立てた紙を的にすることに喩えられるのに対し、平野で歩兵を狙うのは横にした紙を的にすることに喩えられる。この大砲の弱点は現代の戦闘でも同様だが、弾丸自体の破裂と、その猛然たる爆音、硝煙による恐怖が、大砲の威力を実際以上に見せているのだろう。)
③ 槍が有効な局面は限度があること
古代ギリシアやローマの密集陣形では、槍兵が中心だったと考えられているが、槍を使うにはある程度の空間が必要であり、味方自体が密集していると、槍を扱うことが困難になる。つまり、軍隊が前進していく、その最初の接触の局面では槍先を揃えた兵士の前進は脅威であるが、戦争が乱戦状態になると、槍は逆に不利な武器になるのである。乱戦では、盾と剣が有効であり、その剣も、切るよりも突く攻撃が重装備した敵には有効である。
(中山注:槍の有利さは、相手の届かない距離から攻撃できる点にあり、これに馬のスピードを加味して考えたら、馬上からの弓の攻撃と馬上からの槍の攻撃は歩兵よりも優位であると言えるだろう。)
Ⅱ 「尉繚子」より
① 戦争は長引かせてはならない。近郊では一日、千里の遠方なら一月、はるかな辺境でも一年を越してはならない。
② 将帥の不適格者とは、精神が平衡を欠き、判断力に乏しく、人の意見を徴する雅量を持たぬ人間である。
② 自軍が一体となって行動すれば、敵は集結すれば散開できず、散開すれば集結できず、左翼は左翼に、右翼は右翼に膠着させられ、なす術も知らぬ状態になる。
③ 法の整備こそが軍備の第一要件である。統制の無い軍隊では、剛勇の士のみが敵陣に突進し、したがって、剛勇の士のみが真っ先に死ぬ。こういうことでは味方の損害は敵に百倍し、戦えば戦うほど敵を利することになる。これが凡将の率いる軍隊である。また、遠征の途上や戦場で逃亡する兵士に対し、凡将は無策である。これでは士気が低下しないはずがない。さらに、戦場において、自らの安全のみをはかり、他人の背後に隠れようとする兵士に対し、凡将は無策である。
④ 統制の原則。賞罰の規定が明確であること。その適用が厳正であること。士卒百人に一人の卒長を置き、士卒千人に一人の司馬を置き、士卒万人に一人の将軍を置く。この組織に立って、法制を確立すれば、強力な軍隊となる。一人を制御できるなら、十人を制御できる。十人を制御できるなら、百人、千人、万人でも同じことである。こうして統制された軍隊に、戦闘訓練を施し、整備された兵器を与えることである。(中山注:「呉子」の中に、一人の兵士を教育し、その一人が十人を教育し、その十人が百人を教育することで、全体の訓練ができる、とある。)
⑤ 刃物をふりかざした暴漢には誰も近づかない。これはその男に勇気があり、他の人間すべてが臆病だからではない。死を覚悟した人間と生に執着する人間との相違である。(したがって、兵士を育てるとは、大軍を必死の一暴漢に変貌させることである。)
(中山注:いかにして「必死の一暴漢」に変貌させるか。日本軍の「戦陣訓」のような軍隊的モラルを叩き込むことがその一つ。米国海兵隊のように、日常の訓練の中で兵士の人間性を奪い、徹底的な殺人マシーンに作り変えることもその一つ。つまり、敵は人間ではない、という思想を叩き込むこと。)
④ 人民が平時には生産に、戦時には戦闘におのおのが全力をあげて取り組むようにすることが国を保つ道である。そのためには、賞罰規定を明瞭にし、生産にいそしまぬ者は生活できず、戦争に協力しない者は栄誉を受けられないようにする。さらに、上下の関係を信によって結び、空言を許さないようにする。
⑤ 国を保つには人材が必要である。
⑥ 戦争の五要件。1、作戦計画 2、司令官の選定 3、進攻態勢 4、防衛態勢 5、軍紀の確立。 この五項目について、あらかじめ彼我の優劣を綿密に計量してから戦争は行うべきである。これが戦う前に勝つということだ。
⑦ 命令は変更するな。命令が度々変更されると、部下は、また変更されるだろうと思い、命令に従わなくなる。いったん命令を下したら、大筋で間違いが無い限りは変更せず、多少の疑念は押し切って実行しなければならない。指揮官が確信を持って命令を下せば、部下は疑念を抱かない。信じられない指揮官のために全力を尽くそうとする部下はいない。全力を尽くさずに、死を賭して戦うことはできない。
⑧ 上に立つ者が率先垂範すれば、士卒は手足のように働く。指揮官に敬服し、発奮するのでなければ、士卒は生命を投げ出す気にはならない。生命を投げ出す気がなければ戦えない。
⑨ 相互扶助の観念を民間に養成することで、戦場での協力、発奮も生まれる。勇猛無比の軍隊の基盤は、個々の勇気にではなく、一丸となって戦うところにある。
⑩ 戦争準備段階、あるいは治国の五大要件。1、食料の備蓄 2、論功行賞の徹底 3、人材抜擢 4、兵器の整備 5、賞罰の厳正な適用
⑪ 上に厚く、下に薄いことは国家滅亡の兆しである。官僚のみが富み、君主が富を独占する国家は滅亡するのみである。
⑫ 力を分散すれば弱くなる。
⑬ 信頼感の欠如した軍隊では、下部が勝手に動いても上部はこれを制止できす、流言が至るところに広がり、兵士は任務を守らず、行動を起こせば敗北必至となる。
⑭ 指揮官たる資格は、部下に敬慕されるとともに、畏怖されることである。
⑮ 成算も立たぬうちに軽軽しく物事を口に出す指揮官は部下から軽んじられるようになる。
⑯ 正義のための戦争なら、率先して兵を起こし、敵の機先を制して正義の戦であることを天下に明らかにせよ。利害のための戦いなら、万やむをえず応戦するという形にせよ。すなわち、後手を取ることで大義名分を得るのである。
⑰ 軍隊の構成は、5人に伍長、十人に什長、百人に卒長、千人に率、万人に将軍を置く。これらの幹部が倒れたら、ただちに他の者が代わって指揮をとる訓練をしておく。
⑱ 挙兵の前に、あらかじめ敵情を十分に把握し、検討を加えておかねばならない。
⑲ 敵国内に進攻する際には、迅速に行動し、交通路を遮断して敵を城市に孤立させる。こうして敵を分断した上で、一つまた一つと要害の地を抜き、砦を落とす。一城を占領すればそれを拠点としてまたさらに幾多の交通路を遮断する。攻撃がこのように進行すれば、敵将は互いに不信の念を抱き、敵兵は互いに反目し、軍律も効力を失うに至る。敵兵は渡河点も確保できず、砦を修復する余裕もなく、陣地を構築する暇もない。城があっても無きに等しい。分遣隊は本隊と合流できず、遠征軍は本国に帰れない。兵力はあっても無きに等しい。家畜を集める余裕も、穀物を収納する余裕も、軍需物資を蓄積する余裕もない。これらは、すべて、敵の虚を衝いて迅速に行動することによる帰結である。
⑳ 城の防御において、外城を設けず、周辺に障害物も構築せずに本城だけに頼るのは得策ではない。また、城内に立てこもって防御のみを行うのも得策ではない。城はそれ自体、地の利を得ているのだから、それを利用すれば、一人の兵士が十人の敵兵に相当する。したがって、城攻めには相手の十倍の兵力が必要だとされるのである。
(中山注:だが、外部からの援軍がなければ、戦闘が無くても必ず食料は減少し、兵力も損耗して、やがて必ず落城することになる。)
22 (城の防衛の最後の段階で、)決死の一戦をする時には、弱兵を前衛に立てる。(中山注:弱兵で相手を消耗させ、精鋭で勝利を得る。つまり、戦力を完全に使うのである。)
23 敵を凌ぐ12の要件
① 指揮官の威厳は命令や態度を軽軽しく変更せぬことで保たれる。
② 恩恵は時宜を失わず施すことで所期の効果をあげ得る。
③ 機略とは、事態の変化にすかさず対応することである。
④ 戦争とは士気の争奪戦である。
⑤ 攻撃とは敵の意表を衝くことである。
⑥ 守備とは味方の内情を敵に秘匿することである。
⑦ 失策を犯さぬ根底は、数量に関する綿密な把握である。
⑧ 苦境に陥らぬ要件は、兵員・武器・軍需物資におけるゆとりである。
⑨ 慎重さとは、どんな些細なことにも注意を怠らぬことである。
⑩ 知謀とは、根本的な問題について思慮を働かすことである。
⑪ 弱点を取り除くためには果断でなければならぬ。
⑫ 民心を得るには謙虚でなければならぬ。
24 敵に乗ぜられる12の欠陥
① 確信に基づかぬ行動。後悔の種である。
② 無辜の民衆を殺戮すること。災いのもとである。
③ 上官のえこひいき。部下の不平の原因である。
④ 指揮官が自分の失敗を認めぬこと。不祥事のもとである。
⑤ 人民を収奪し尽くすこと。不測の事態のもとである。
⑥ 敵側の離間工作に乗せられること。指導者の不明である。
⑦ 命令を安易に下すこと。部下は無責任な行動を取る。
⑧ 賢人を退けて、用いないこと。指導者は固陋に陥る。
⑨ 利欲に目がくらむこと。災厄のもとである。
⑩ 小人を重用すること。害毒のもとである。
⑪ 防衛態勢を怠ること。国家滅亡のもとである。
⑫ 指揮官の命令が無いこと。軍は混乱に陥る。
25 賞罰の適用。賞は下っ端に。罰は大物に与えよ。処刑される人間は大物であるほど、表彰される人間は小物であるほど反響は大きい。このことで、賞罰が厳正に適用されていることを知らしめることになる。
26 天の時は地の利にしかず、地の利は人の和にしかずとは真実である。将帥たるもの、天文気象に左右されず、地勢の不利にも動揺せず、他人の意見に盲従せず、縦横に独歩すべきである。それによって勝敗の帰趨を握ることができるのである。有能な者を抜擢して用い、法令を明確詳細に規定して実行し、人民を労わり用いれば、結果はおのずと吉となるのである。
総括
以上、マキァベリと尉繚子の中から、特に興味深い部分を書いてみた。馬と大砲についての「戦争の技術」の中の記述は、目からうろこが落ちるようである。我々は、騎馬は歩兵より有利で、大砲の破壊力は脅威であると盲目的に信じているが、そうではないことが、論理的に示されている。ちなみに、これらの言葉は、マキァベリの同時代のある軍人の言葉をマキァベリが記録したものである。単なる兵法家ではなく、現実の戦場の体験者ならではの発言と言えよう。
尉繚子は孫子や呉子ほど有名ではないが、古代の戦争の要諦を的確かつ総合的にまとめてある点では、孫子呉子以上に優れていると私は思う。孫子は兵法の始祖的存在で、いわば歴史的価値があるにすぎず、本質的価値という点では尉繚子はもちろん、呉子にも劣ると私は見ている。しかし、もちろん、戦争の一般論としての価値の高さは言うまでも無い。孫子が乗り越えられたことは、前の時代の思索を元に、後の思索が加算された当然の結果ではあるが、孫子の中には魅力的なフレーズも沢山あり、人生の戦略にも通じる古典としての価値は今でもある。そこが、他の戦術書との違いだろう。もっとも、尉繚子にも日常の組織論として読んでも意味深い言葉は多々あるのだが。