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今、何となくぼんやり考えている冒険小説の構想だが、登場人物は、すべて人間で、敵は主に人間だ。「水滸伝」の主人公側(盗賊、山賊)を敵側にするイメージである。ただし、敵側に密通している政府側の人間もいる。戦闘場面はリアリティ重視である。魔法は幻覚的なもの以外は出て来ない。
最後は、主人公たちが政府を作り、三国志的な話になる。

舞台も中国的なもの、あるいは中国そのものにするか、西洋中世的世界にするか、考慮中。→日本の戦国時代初期にする案で書く可能性が高い。

仲間のひとりを、「児女英雄伝」のヒロイン(性格も似ている)のような、義侠心のある日本刀使いの剣の名手(一見美少年風の男装)にし、
もうひとりは、ドワーフ的風貌の短躯でがっしりした豪傑、鎖鎌(ただし、鎌ではなく、鉄棒に鎖と分銅のついたもの)使いにする予定。
もうひとり、「三侠五義」の「白毛鼠」のような、ニヒルで冷酷で美男子の盗賊を仲間にするかどうか。それとも、敵にするか。(西洋人の落とし種で、髪が銀髪としてもいい。眠狂四郎的に)実写化するなら城田優。

主人公は弓の名人で、棒術の名手とする。ふだんは棒しか使わず、結果的に、人を殺さない。石投げも得意。性格は鷹揚闊達。呑気者だが、地頭はいい、勘もいい。目と耳と鼻が利く。体力抜群。狼並みの俊敏さ。熊並みの力。背は高い。筋肉質。顔は彫りが深い。

名前を新羅国光とする予定。私はどちらかといえば朝鮮・韓国人の男の性格は、陰湿で暴力的で陰謀好きな印象があってあまり好きではないが、「新羅三郎」という名前がなぜか好きなのである。本当なら、そのまま「新羅三郎」にしたいところだ。

高麗という苗字は『こうま、こうらい、こま、こうれい、こうり、たかれい、たかつぐ、たからい、たかよし、たかま』と呼ばれ、日本に2100人居るといわれています。

新羅の苗字は『にら、しんら』と呼び、日本に300人ほど居るそうです。

百済の苗字は『くだら、ひゃくさい』と呼ばれ、日本全国に800人いるといわれています。

この三つの苗字は皆さんもお分かりように、朝鮮半島の3国であった国の名前が、そのまま苗字になっています。

ただ、この方々に「あなたは朝鮮人ですか?韓国人ですか?」と聞くとだいたいは、「いいえ日本人です」と答えます。この苗字の由来は100%渡来人と断定は出来ませんが、古代朝鮮半島から日本へと渡り、その時につけた苗字か、秀吉時代の被虜人が当時付けられた名ではないかと考えられます。

まあ、日中洋の三種混合冒険小説だ。

先ほど考えたのだが、近距離から中距離での最強武器は槍ではないかと思う。ボクシングで相手のリーチが2メートルあるようなものだ。特に、刺突では最強。人間、いや哺乳動物一般は骨格的に「後退」の動きに向いていない。後ろに1メートル以上ジャンプして下がるのは無理である。つまり、槍の刺突から逃げられない。横へ逃げるなら、槍も横に振ればいい。槍の柄を相手が斬ろうとするなら、刀を振り上げた相手の顔を突けばいい。つまり、そういう動作はテレフォンパンチと同じで、予告的動作が生じるのである。
実際、戦国時代には歩兵(足軽、雑兵)は主に槍で戦ったのである。剣術は世の中が太平の時代になってから「趣味で」発生したにすぎない。槍は、馬上でも使える利点もある。
また、異世界冒険的な話なら、登場人物のひとりは、「手ぬぐい」で戦う男にしたい。手ぬぐいに石(拳大)を包み、それを振り回して相手を殴るのである。これは現実的な闘争でも有効だろう。パンチより何倍もの打撃を与え、こちらは殴っても拳も何も痛まない。常に、手ぬぐいと拳大の丸い石を所持し、即座にその「武器」を作るのである。で、必要ならその石を投げることもできるし、無くなってもいくらでも補充できる。
棒と手拭、これが新作小説の二大武器である。槍は、棒の先端に包丁か短刀を縛ればいい。

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「悪のヒーロー ジャン」あるいは「ジャン・ジャック・テノーリオ」は、真面目な作品の予定なので、気を入れて書くつもりである。だから、気分が乗るまで時間がかかりそうだ。そこで、「思い付きの書きなぐり」作品を、先に書く。要するに、今の「異世界転生もの」があまりにつまらないので、中世騎士物語を土台にした冒険小説を書くつもりだ。「良識の範囲だからこそ面白い」という作品にするつもりで、「思い付きの書きなぐり」と矛盾していると言われそうだが、私的には矛盾していない。つまり、前者は小説の内容であり、後者は書く姿勢の問題だ。自由に気楽な気持ちで書くが、内容はあくまで「その世界の中では矛盾も飛躍もない」わけである。

とりあえず、鎧が豆腐のように斬れる名剣の獲得というのが、中盤までの「旅の目的」で、後半は怪物や魔法使いとの対決を経て、国家の大動乱の話にしてみたい。最終的には、主人公が国王になる。
別ブログに書いた記事だが、創作自体はこのブログで書いていこうと思っているので、その構想を載せておく。作品題名は「ジャン・ジャック・テノーリオ」にしようかと思っている。

(以下自己引用)

「悪のヒーロー ジャン」の構想

2,3日前から読んでいたモリエールの「ドン・ジュアン」を今朝の寝床の中で読み終えたのだが、実に傑作である。中世的な不合理な精神への批判として完璧だ。しかし、当時の宗教や道徳への痛烈な批判が内容なので、当時は、そして現代でも物議をかもす作品だろう。
これを読んで、私はこれをアニメ化したら面白いだろうなと思ったが、もちろん映画化やテレビドラマ化でもいい。しかし、ほとんどが会話劇なので、映像化は困難というか、映像化しても魅力に欠けるだろうな、と思う。そこで、この話の中心思想、つまり哲学を内包しながら、話にはもっと起伏を与え、事件性、冒険性、アクションを多くするのが一番だと思ったが、先ほど散歩の中で考えたのは、サドの「呪縛の塔」(私は前にうっかり「虚栄の塔」と書いた記憶がある。「虚栄の市」とごっちゃにしたのだろう。)のラストの部分、主人公と神(か悪魔)との対話の場面である。宇宙を背景に、主人公と神が論争する、というのはイメージ的に興奮するのではないか。
で、私がその時考えたのは、「精神においては人間は神と対等だ」ということである。正直言って、どんな神話や宗教の神も、私を納得させる精神性が無い。ユダヤ教やキリスト教、イスラム教の神も、ギリシャ・ローマ神話の神も、単に「人間の願望の集積」でしかないように思える。そこには、いわば「哲学」が無いのである。だから、合理性もない。単に、超越的存在だから人間はそれに従うしかないだけだ。それでは、王族や貴族には庶民が逆らえない権力と暴力性があるから従うしかないのと同じではないか。
で、その作品の題名を「悪のヒーロー ジャン」とする予定である。主人公はもちろんドン・ジュアン(スペイン読みではドン・ファン)で、私の作品では「ジャン・ジャック・テノーリオ」にする予定である。貴族の特権を利用して悪の限りを尽くす主人公の名前に、「民権論」のジャン・ジャック・ルソーを連想させる「ジャン・ジャック」を使ったのは、対比効果を狙ったものであるが、実は既成概念への反抗という点ではドン・ジュアンとルソーは近いのである。
主人公のジャン・ジャックは、無道徳の漁色家で高慢そのものだが、この話の中ではヒーローらしからぬ情けない姿をしばしば見せるし、ヒロインたちも、欠点を見せる。つまり、我々凡人と同じなのである。しかし、不合理性(の桎梏)への反抗と、その勇気という点でジャン・ジャックはヒーローの資格を持つ。
で、話をあまり真面目に(深刻に)しないために、場面場面で小さなギャグをたくさん入れたい。たとえば、ジャンに捨てられたヒロインのひとりが完膚無きまでにジャンを弁舌でとっちめ、さっそうと帰ろうとした瞬間、何かに躓いて無様に転ぶなどの、初歩的なギャグである。それによって、むしろヒロインの可愛さを出したい。これは、フィールディングの「トム・ジョウンズ」の中で、ヒロインの完璧な美少女で性格の良さ抜群のソファイア・ウェスタンが馬に乗ろうとして転がり落ちる場面がヒントだ。
ちなみに、「神との論争」は、原作で主人公のドン・ジュアンが雷に打たれて地獄に落ちた、その後の場面である。劇では地獄落ちが暗示されているが、私はそれを宇宙という法廷での人間と神との論争の場面にするわけである。まあ、「2001年宇宙の旅」のラストあたりみたいな映像であれば最高だ。



前回記事の続きだ。
異世界の「魔力」とは精神力の高度なものだ、という前提にすると、高度な精神力の持ち主は、たとえば他人の精神を支配することができたり、幻想を見せたりすることができる、となり、あるいは、その精神に恐怖を与えて死に至らしめることも可能になる、ということになるのではないか。
それに対抗するには、こちらも高度な精神力を持つ必要があるわけだが、その「鍛錬」は可能か。何をすれば精神の鍛練になるのか。昔なら、座禅とか瞑想などがその手段だっただろうが、そもそも、座禅とは、座り込んで何をしているというのか。瞑想も、妄念と何が違うのか。
まあ、真面目に論じるのではなく、小説や漫画原作での「魔術」や「魔力」を、馬鹿馬鹿しくないものにできればいい、という程度の話である。
通常のスポーツでも、精神の強い弱いは勝負の決定的な差になることはあるだろう。まして、命を賭けた勝負ならなおさらだ。だから昔の剣豪は精神を鍛え、座禅などもしたわけだ。だが、そういう話と、娯楽作品での「魔術の考察」は違うだろう。
現実の人間で言えば、ラスプーチンなどは、魔力に近い能力を持っていたのではないか、と思われる。あるいは、西洋民間伝承にある「魔眼(エビルアイ)」は、強力な催眠術だろうと思われる。

さて、娯楽作品における「魔力」をどういうものにするか、物理的武力との優劣をどうするか、だ。なかなかその本題に入るのが困難なので、うろうろとその周辺を歩き回っているわけである。

異世界物アニメの近作がほとんどすべて詰まらないので、自分で書いてみようかと思うのだが、何も思いつかない。まあ、この年になると、願望そのものが無いので、異世界での願望実現もさほど面白く思えないのかもしれない。そこで、異世界物のどこがどう面白いのか、あるいは失敗している異世界物の失敗の理由は何かを考えてみたい。

まず、異世界物がこれほど多く書かれ、作られるのは、明らかに「楽だから」である。考証や調査の必要がゼロだ。何となく知っているような中世西洋的世界を舞台に、主人公が異能力を獲得して「俺ツエー」をやるだけのことだ。その「異能力」には、こちらの世界では当たり前の能力や知識などが多い。たとえば薬学や衛生の知識など。あるいは戦術や戦略の「過去の歴史からの知識」など。まあ、そこまで行かないで、何やらケッタイな、「魔法能力」がなぜか身に付くという話も多いようだ。その世界では、魔法能力が当たり前、という場合もあり、主人公はなぜかその最強の能力を手に入れるわけだ。一種の「出来レース」である。そして視聴者は主人公と自分を同一視して、主人公の「俺ツエー」で快感を得るわけである。
まあ、これが基本だが、では、失敗した異世界物の失敗の理由は何か。

一番の失敗は、異世界を「ゲーム的世界」にしてしまうことである。ネットでも嘲笑の対象となっている「ステータスオープン」がその代表だ。これが出ると、異世界が単なるゲームとなり、視聴者の「主人公への感情移入」はかなり低下するし、その異世界での出来事に「生きるか死ぬか」の迫真性も(ゲームだから)当然なくなる。新作アニメの中では優秀な部類の「ダンジョン飯」ですら、「死んでも生き返る」という大前提が既にゲーム的であり、すべてが「冗談事」の範疇になるが、まあ、これは最初から話そのものがゲームのパロディ的な作品だ。

そこで、このよくある「失敗」をしないためには、あくまで「これはゲームではなく、小説内では現実なのだ」という姿勢を一貫させることだろう。たとえば、私は未読だが、映画を見るかぎり、「指輪物語」などは、その点では一貫していると思う。言い換えれば、ファンタジー作品では、「メタ描写」は禁物で、あくまで「真面目に」やらねばならないということだ。もちろん、「小説内現実」の中では冗談もおふざけもあっていいが、小説内の世界そのものを否定する(嘲笑する)記述があってはならないということである。とりあえず、「ゲーム的世界観」の排除が鉄則だろう。

そういう意味では、「GATE」などは、かなり成功した作品だと思う。現実世界と異世界との接続が見事であった。ただし、「魔法」の力と現実の軍隊の武力との比較が曖昧だったと思う。この問題は、軍隊は別としても、武力と魔力との比較の細かい設定が必要だろう。つまり、魔力とはどういうものかという設定だ。この点ではほとんどの異世界物がいい加減であるようだ。魔力は普通の物理的攻撃力より強いのか。強いとしたら、それはどのように強いのか。そもそも、魔力とは精神力だけの話か、物理力を伴うのか。たいていの異世界ファンタジーでは、後者のように表現されているが、私としては、よりリアルな方向で、「魔力とは高度な精神力だが、物理力は伴わない。少なくとも、通常の物理力を超える物理力を持たない」としたい。それでこそ、戦士が冒険者パーティにいる意味があるわけだ。(まあ、冒険者とか冒険者パーティ自体がゲーム的だが、それは置いておく。)
ちなみに、「オーバーロード」は導入部こそまさしくゲーム内世界だが、話が始まってからは、キャラたちが「その(ゲーム内)世界の中で生き、死ぬ」ということを徹底している。つまり、リアリズムである。だから成功しているのだと私は思っている。つまり、ゲームの中のキャラが本当に生きていたら、どうなるか、ということである。


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