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「silverfish files」というブログの読書記事から転載。
私の別ブログに載せたかもしれない記事だが、ここに載せるのは、ある意味、私の理想とする小説のスタイルがこれだからだ。漱石の「吾輩は猫である」も理想だが、あれは結構、話がしっかりしていて破綻はあまりない。ただし、寺田寅彦が批判していたように、最後のあたりではキャラ同士の会話が、「そのキャラ」だからそう話すのではなく、作者の思想をキャラに分割して喋らせているだけになっている。おそらく漱石が「猫」に飽きたのだろう。しかし、それが目立つのは実は、「猫」のそこまでの書き方に破綻が無かったからである。
尾崎士郎の「三国志」は、最初から最後まで滅茶苦茶で、そこが面白い。ついでだが、私がチッペラリー(遥かなチッペラリー)という軍歌を知ったのは、この小説によってである。古代中国で軍隊が行進する時に兵士らが歌うのが、英国軍歌「遥かなチッペラリー」なのであるwww

(以下引用)

018年2月28日 (水)

尾崎士郎の「三国志」

新説三国志/尾崎士郎(河出新書,1955)
 尾崎士郎といえば、戦前・戦中・戦後にわたって活躍した大作家で、『人生劇場』で一世を風靡したことで知られる。東京と愛知県の二箇所に記念館があり、文豪と言ってもいいだろう。
 この本は古本でたまたま見つけて買ったもので、新書版、200ページ程度の薄い本。三国志を語るにしては妙に短い。もともと「三国志」ものに興味があったから買ったので、尾崎士郎の名前で買ったのではない。
 とはいえ、何しろ大作家の書く三国志だから、どんなすごい作品かと思ったら…。
 これがとんでもないシロモノで、怪作としか言いようがない。どこからつっこんでいいのかわからない。

 登場人物のセリフが完全に現代語だとか、地の文に「テーブル」とか「ジャック・ナイフ」とかやたらカタカナ語が出てくるとか、それどころかセリフにまで「オー・ケー」とか「サンキュー・ベリー・マッチ」とか英語が混じる。
 しかしそれはまだいい。基本設定に矛盾があるのは困る。
 例えば、諸葛亮が初登場する時の年齢設定がおかしいとか。「まだ三十には間があると思われる年配であるのに、細長い顔に粗髭をのばし」などと書いてあるが、この時はまだ物語の序盤、何進が暗殺される直前なのである。とすれば189年、孔明はまだ8歳のはず。いくらなんでも年齢が違いすぎ。
 何よりも、ストーリーが何だかおかしい。肝心なところをはしょりまくっていて、話のつながりがめちゃくちゃになっている。黄巾の乱の後、劉備は督郵をぶん殴って行方をくらまし、いつの間にか流浪の軍団の長となって荊州に出現する。その間、呂布も出てこないし官渡の戦いもない。劉備と曹操とのからみも一切なし。
 そして話は、劉備が諸葛亮を軍師に迎え、新野に曹操軍を迎え撃つ直前で唐突に中断する。作者のやる気がなくなったのかと思ってしまうような中途半端な終わり方。
 まったく、なんじゃこれは、と言いたくなる小説だった。ある意味すごい。

 実は尾崎士郎の小説、他には1冊も読んだことがない。まさかこんな変な話ばかり書いていたわけではないだろう、と思いたい。

Shinsetsusangokushi

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最近よく言われる「無敵の人」は、確かに無敵である。
しかし、その種の人間が卑小にしか見えないのは、その行為が単なる身近な他人や通りすがりの人間の大量殺人にすぎないことが多いからである。つまり、「無敵」であるはずなのに、「弱敵」しか相手にしない卑怯さが、彼らを軽蔑すべき存在にしている。
これがたとえば北一輝とか大塩平八郎になると、国家や政府を相手に立ち上がった彼らの行為は、まさに英雄的行為である。いや、革命的行為だけが英雄的なのではなく、「強敵」に対して立ち上がった行為が英雄的なのである。それが世間的には悪と見做されても、それは英雄の行為だ。その種のものには、たとえばマルキ・ド・サドやニーチェがいる。文筆行為の中には、その種の英雄的行為がよく見られる。文筆の徒は柔弱な者と見られることが多いが、実は英雄にしかできない行為を為したことも多いのだ。ただし、それが人類の利益となる行為だったかどうかはまた別の話である。それで害を受けた善良な者たちも多いだろう。ここでは、善であれ悪であれ、普通人ができない行為をした者を英雄としている。

「無敵の人」がなぜ無敵になるか、その根本を言おう。それは、自分の人生と生命を捨ててかかるからである。それはしばしばその人の家族の人生も犠牲にする。だから、革命家と犯罪者は「無敵の人」としては同類なのである。
世間の多くの人が不自由と不満の人生を送る理由もまた同じ盾の半面だ。我々は、自分の人生、家族の人生を守るためにあらゆる不自由を忍んで生きるのである。
老人などは、もはや守るべき生命もほとんど無いのに、なぜあらゆる不自由を耐え忍ぶのか。それは、自分が明日死ぬ、という覚悟ができないからである。そして、自分の現状を作っている、社会的地位、名声、親類縁者などへの未練があるからである。

この一文は読みかけのトーマス・マンの「魔の山」の一節から想起した思念を書いたものなので、その一節(2か所)を引用する。

こういう事態(注:肺病からの回復が絶望的で、余命がほとんど無いこと)から僕にゆるされるすこしばかりの自由を、みなさんに大目にみていただきたいんです。高等学校で落第ときまってしまって、教師に質問もされないし、宿題もやらなくていい、あれと同じなんです。あの幸福な状態に僕は最後的にたどりついたんです。僕はもうなにもしなくていいし、もう数にもはいらない人間で、どうにでもなれなんです。



彼の感じたこと(注:主人公ハンス・カストルプ自身が、前述の若者アルピンの述懐を聞いて、彼自身の落第の経験を思い出したことへの感想)はだいたいつぎのようなことになる。つまり、名誉はりっぱな結構な特典をあたえてくれるが、不名誉もそれにおとらぬ結構なものであって、むしろ不名誉の特典はまったく広大無辺ともいえる性質のものである、というものであった。


多島斗志之の「症例A」を読了したが、凄い傑作である。ただ、さほど話題にもならなかったのは、題名のせいと、作者の知名度の低さのためだろう。これが若手の作家なら、その年の話題ナンバーワンになっていたと思う。
それよりも、題名が問題だ。まず、書店で買いたくなるタイトルではない。まるで魅力の無い題名である。もちろん、作者は報道記事における「少年A」「少女A」と同じく、病名を伏せながら、その病名が問題だ、ということを暗示したのだとは思う。しかし、一般人にとって魅力のある題名かというと、まったく魅力がない。もっと安直に「七つの顔の少女」とでもしたら良かったのではないか。ただし、真のヒロインは少女ではなく三十代の女性だが、それだと「売れない」ので、そこは誤魔化すわけだ。

なお、全体の話より、作中に出て来るエピソードで、敗戦時の日本で、美術館職員たちが進駐軍による美術品没収を怖れて、美術品の贋作を大量に作る話があるが、これなど、2時間くらいの娯楽映画に最適の話である。いわゆる「コンゲーム」(ゲーム的詐欺)物だ。有名どころでは「スティング」などがそれである。話の最後は、贋作作成集団の頭が、秘密の場所に保存した美術品を過誤による火災で焼失した、と言いながら、実はそれを独り占めして海外に売り、巨額のカネを得るという、これもまさにコンゲーム的オチである。
夏目漱石の「道草」を読んでいるが、一度に一節(おそらく新聞連載の一回分か)を読むとちょうどいい。頭も目も疲れない。
その中で「来たか長さん まってたほい」という俗言が出てきたが、この出典が何か数秒頭を悩ませ、おそらく歌舞伎だろうと結論した。長さんとは「幡随院長兵衛」だろう。江戸から明治までの庶民生活では歌舞伎と講談は基本娯楽だったはずである。
で、話の大筋と関係の無い人物名は「ーーー」として書かないのは創作の参考になる。これは読者の思考の負担を減らすわけだ。そして話の大筋に集中させる。
「道草」の主人公夫婦は作者夫婦そのものに近いのではないか。夫婦仲が悪いのも相性が悪いのも、かなり現実の反映だと思う。しかし、奥さんが夫以外と話す時の口調が女学生的とされているが実際、小津安次郎の作品の若い女性の話し方である。たぶん、戦後すぐまでは上流社会、あるいは都会の若い女性の話し方はそんなものだったのだろう。「~してよ?」「よくってよ」みたいな「~よ」という口調である。
まあ、お遊びだが、推理小説の謎(暗号)のネタになるかもしれない。



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