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前回記事の続きだ。
異世界の「魔力」とは精神力の高度なものだ、という前提にすると、高度な精神力の持ち主は、たとえば他人の精神を支配することができたり、幻想を見せたりすることができる、となり、あるいは、その精神に恐怖を与えて死に至らしめることも可能になる、ということになるのではないか。
それに対抗するには、こちらも高度な精神力を持つ必要があるわけだが、その「鍛錬」は可能か。何をすれば精神の鍛練になるのか。昔なら、座禅とか瞑想などがその手段だっただろうが、そもそも、座禅とは、座り込んで何をしているというのか。瞑想も、妄念と何が違うのか。
まあ、真面目に論じるのではなく、小説や漫画原作での「魔術」や「魔力」を、馬鹿馬鹿しくないものにできればいい、という程度の話である。
通常のスポーツでも、精神の強い弱いは勝負の決定的な差になることはあるだろう。まして、命を賭けた勝負ならなおさらだ。だから昔の剣豪は精神を鍛え、座禅などもしたわけだ。だが、そういう話と、娯楽作品での「魔術の考察」は違うだろう。
現実の人間で言えば、ラスプーチンなどは、魔力に近い能力を持っていたのではないか、と思われる。あるいは、西洋民間伝承にある「魔眼(エビルアイ)」は、強力な催眠術だろうと思われる。

さて、娯楽作品における「魔力」をどういうものにするか、物理的武力との優劣をどうするか、だ。なかなかその本題に入るのが困難なので、うろうろとその周辺を歩き回っているわけである。

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