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異世界物アニメの近作がほとんどすべて詰まらないので、自分で書いてみようかと思うのだが、何も思いつかない。まあ、この年になると、願望そのものが無いので、異世界での願望実現もさほど面白く思えないのかもしれない。そこで、異世界物のどこがどう面白いのか、あるいは失敗している異世界物の失敗の理由は何かを考えてみたい。

まず、異世界物がこれほど多く書かれ、作られるのは、明らかに「楽だから」である。考証や調査の必要がゼロだ。何となく知っているような中世西洋的世界を舞台に、主人公が異能力を獲得して「俺ツエー」をやるだけのことだ。その「異能力」には、こちらの世界では当たり前の能力や知識などが多い。たとえば薬学や衛生の知識など。あるいは戦術や戦略の「過去の歴史からの知識」など。まあ、そこまで行かないで、何やらケッタイな、「魔法能力」がなぜか身に付くという話も多いようだ。その世界では、魔法能力が当たり前、という場合もあり、主人公はなぜかその最強の能力を手に入れるわけだ。一種の「出来レース」である。そして視聴者は主人公と自分を同一視して、主人公の「俺ツエー」で快感を得るわけである。
まあ、これが基本だが、では、失敗した異世界物の失敗の理由は何か。

一番の失敗は、異世界を「ゲーム的世界」にしてしまうことである。ネットでも嘲笑の対象となっている「ステータスオープン」がその代表だ。これが出ると、異世界が単なるゲームとなり、視聴者の「主人公への感情移入」はかなり低下するし、その異世界での出来事に「生きるか死ぬか」の迫真性も(ゲームだから)当然なくなる。新作アニメの中では優秀な部類の「ダンジョン飯」ですら、「死んでも生き返る」という大前提が既にゲーム的であり、すべてが「冗談事」の範疇になるが、まあ、これは最初から話そのものがゲームのパロディ的な作品だ。

そこで、このよくある「失敗」をしないためには、あくまで「これはゲームではなく、小説内では現実なのだ」という姿勢を一貫させることだろう。たとえば、私は未読だが、映画を見るかぎり、「指輪物語」などは、その点では一貫していると思う。言い換えれば、ファンタジー作品では、「メタ描写」は禁物で、あくまで「真面目に」やらねばならないということだ。もちろん、「小説内現実」の中では冗談もおふざけもあっていいが、小説内の世界そのものを否定する(嘲笑する)記述があってはならないということである。とりあえず、「ゲーム的世界観」の排除が鉄則だろう。

そういう意味では、「GATE」などは、かなり成功した作品だと思う。現実世界と異世界との接続が見事であった。ただし、「魔法」の力と現実の軍隊の武力との比較が曖昧だったと思う。この問題は、軍隊は別としても、武力と魔力との比較の細かい設定が必要だろう。つまり、魔力とはどういうものかという設定だ。この点ではほとんどの異世界物がいい加減であるようだ。魔力は普通の物理的攻撃力より強いのか。強いとしたら、それはどのように強いのか。そもそも、魔力とは精神力だけの話か、物理力を伴うのか。たいていの異世界ファンタジーでは、後者のように表現されているが、私としては、よりリアルな方向で、「魔力とは高度な精神力だが、物理力は伴わない。少なくとも、通常の物理力を超える物理力を持たない」としたい。それでこそ、戦士が冒険者パーティにいる意味があるわけだ。(まあ、冒険者とか冒険者パーティ自体がゲーム的だが、それは置いておく。)
ちなみに、「オーバーロード」は導入部こそまさしくゲーム内世界だが、話が始まってからは、キャラたちが「その(ゲーム内)世界の中で生き、死ぬ」ということを徹底している。つまり、リアリズムである。だから成功しているのだと私は思っている。つまり、ゲームの中のキャラが本当に生きていたら、どうなるか、ということである。


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