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まあ、使うかどうかは分からないが、戦国時代初期(室町時代末期)の関東の政治情勢である。
この頃の「〇〇公方」とは要は将軍家(足利家)の親戚、くらいの意味だろう。本来は「天皇、朝廷(貴族)」を意味するが、彼らは武家の出であるので、平安からの貴族たちが彼らを本当に貴族と見ていたかどうかは怪しい。庶民の間でも、武家を「成り上がり」と見ていた可能性は高いと思う。要は、武家は「暴力」で権力を手にした連中なのである。権謀術数で権力を得た貴族がそれより偉いというわけでもないが。
室町幕府の滅亡の根底には、「応仁の乱」での幕府の無能さへの失望と同時に、世間のそうした足利家への軽蔑心があったのではないか。それが、後の「足利尊氏の悪役化」の一因でもあった気がする。子孫の不名誉が鼻祖に及んだわけだ。

(以下引用)

2021/12/25 14:54

1回答

なぜ公方はたくさん増えてしまったのですか?

日本史・182閲覧

ベストアンサー

1150021036

2021/12/25 15:35

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戦国初期の勢力争いは複雑怪奇で、「新九郎奔る」を読んでいても、さっぱり分からない。
であるから、そのあたりの時代や土地を話の舞台にして空想小説を書くのは無謀極まることではあるが、やってみたいので、やることにする。まあ、デタラメというか、「架空歴史」の話だという大前提で、それにもっともらしい雰囲気を与えるために、歴史的地名や人名、場合によっては歴史的事件を利用するだけである。まあ、とりあえず、最低限、下の太字の知識があればいいか。

鎌倉府は、関東及びその周辺を含む東国の経営にあたり、その長官を鎌倉公方と呼んだ。 2代将軍の足利義詮の弟基氏を初代公方として鎌倉に下向させ、その補佐役として上杉氏を関東管領とした。 公方は基氏の家系が世襲するが、代を重ねるごとに、将軍家との対立が深まり、将軍から任命されている関東管領との間も対立することになる。


京都より早く戦国時代に突入したきっかけが「享徳の乱」(1455~1483年)。
1439年に6代将軍・足利義教に父親(鎌倉公方・足利持氏)を殺された原因は、家臣である関東管領・上杉氏にあると睨んだ鎌倉公方・足利成氏が復讐し、関東管領・上杉憲忠(父親が公方だった頃の関東管領・上杉憲実の息子)を殺害(1455年)。
これにより、関東諸侯を巻き込んだ、公方家VS関東管領家の抗争に発展。
憲忠の死後、弟・上杉房顕が関東管領に就任、従弟の越後守護・上杉房定と合流して上野平井城に入った。
1455年、騒乱の中、足利成氏は鎌倉府を捨て、新たに古河に御所を作った(古河公方の誕生)。
関東は利根川を境界に東側を古河公方陣営が治め、西側を関東管領(上杉氏)陣営が支配する事となり、関東地方は事実上東西に分断される事になった。
1466年には、関東管領・上杉房顕が病死したため、顕定が後継となる。
京都では、1467年に「応仁の乱」(~1477年)が勃発。全国的に戦国時代の突入となった。
1476年には、関東管領側の武将・長尾景春が反旗を翻し、関東各地で合戦。
関東管領・上杉顕定は、古河公方派と戦いつつ、内紛の制圧にも追われた。
1477年、応仁の乱、終息。勝敗がつかないまま終わり、戦後罪に問われる守護もなかった。



今、何となくぼんやり考えている冒険小説の構想だが、登場人物は、すべて人間で、敵は主に人間だ。「水滸伝」の主人公側(盗賊、山賊)を敵側にするイメージである。ただし、敵側に密通している政府側の人間もいる。戦闘場面はリアリティ重視である。魔法は幻覚的なもの以外は出て来ない。
最後は、主人公たちが政府を作り、三国志的な話になる。

舞台も中国的なもの、あるいは中国そのものにするか、西洋中世的世界にするか、考慮中。→日本の戦国時代初期にする案で書く可能性が高い。

仲間のひとりを、「児女英雄伝」のヒロイン(性格も似ている)のような、義侠心のある日本刀使いの剣の名手(一見美少年風の男装)にし、
もうひとりは、ドワーフ的風貌の短躯でがっしりした豪傑、鎖鎌(ただし、鎌ではなく、鉄棒に鎖と分銅のついたもの)使いにする予定。
もうひとり、「三侠五義」の「白毛鼠」のような、ニヒルで冷酷で美男子の盗賊を仲間にするかどうか。それとも、敵にするか。(西洋人の落とし種で、髪が銀髪としてもいい。眠狂四郎的に)実写化するなら城田優。

主人公は弓の名人で、棒術の名手とする。ふだんは棒しか使わず、結果的に、人を殺さない。石投げも得意。性格は鷹揚闊達。呑気者だが、地頭はいい、勘もいい。目と耳と鼻が利く。体力抜群。狼並みの俊敏さ。熊並みの力。背は高い。筋肉質。顔は彫りが深い。

名前を新羅国光とする予定。私はどちらかといえば朝鮮・韓国人の男の性格は、陰湿で暴力的で陰謀好きな印象があってあまり好きではないが、「新羅三郎」という名前がなぜか好きなのである。本当なら、そのまま「新羅三郎」にしたいところだ。

高麗という苗字は『こうま、こうらい、こま、こうれい、こうり、たかれい、たかつぐ、たからい、たかよし、たかま』と呼ばれ、日本に2100人居るといわれています。

新羅の苗字は『にら、しんら』と呼び、日本に300人ほど居るそうです。

百済の苗字は『くだら、ひゃくさい』と呼ばれ、日本全国に800人いるといわれています。

この三つの苗字は皆さんもお分かりように、朝鮮半島の3国であった国の名前が、そのまま苗字になっています。

ただ、この方々に「あなたは朝鮮人ですか?韓国人ですか?」と聞くとだいたいは、「いいえ日本人です」と答えます。この苗字の由来は100%渡来人と断定は出来ませんが、古代朝鮮半島から日本へと渡り、その時につけた苗字か、秀吉時代の被虜人が当時付けられた名ではないかと考えられます。

まあ、日中洋の三種混合冒険小説だ。

先ほど考えたのだが、近距離から中距離での最強武器は槍ではないかと思う。ボクシングで相手のリーチが2メートルあるようなものだ。特に、刺突では最強。人間、いや哺乳動物一般は骨格的に「後退」の動きに向いていない。後ろに1メートル以上ジャンプして下がるのは無理である。つまり、槍の刺突から逃げられない。横へ逃げるなら、槍も横に振ればいい。槍の柄を相手が斬ろうとするなら、刀を振り上げた相手の顔を突けばいい。つまり、そういう動作はテレフォンパンチと同じで、予告的動作が生じるのである。
実際、戦国時代には歩兵(足軽、雑兵)は主に槍で戦ったのである。剣術は世の中が太平の時代になってから「趣味で」発生したにすぎない。槍は、馬上でも使える利点もある。
また、異世界冒険的な話なら、登場人物のひとりは、「手ぬぐい」で戦う男にしたい。手ぬぐいに石(拳大)を包み、それを振り回して相手を殴るのである。これは現実的な闘争でも有効だろう。パンチより何倍もの打撃を与え、こちらは殴っても拳も何も痛まない。常に、手ぬぐいと拳大の丸い石を所持し、即座にその「武器」を作るのである。で、必要ならその石を投げることもできるし、無くなってもいくらでも補充できる。
棒と手拭、これが新作小説の二大武器である。槍は、棒の先端に包丁か短刀を縛ればいい。

「悪のヒーロー ジャン」あるいは「ジャン・ジャック・テノーリオ」は、真面目な作品の予定なので、気を入れて書くつもりである。だから、気分が乗るまで時間がかかりそうだ。そこで、「思い付きの書きなぐり」作品を、先に書く。要するに、今の「異世界転生もの」があまりにつまらないので、中世騎士物語を土台にした冒険小説を書くつもりだ。「良識の範囲だからこそ面白い」という作品にするつもりで、「思い付きの書きなぐり」と矛盾していると言われそうだが、私的には矛盾していない。つまり、前者は小説の内容であり、後者は書く姿勢の問題だ。自由に気楽な気持ちで書くが、内容はあくまで「その世界の中では矛盾も飛躍もない」わけである。

とりあえず、鎧が豆腐のように斬れる名剣の獲得というのが、中盤までの「旅の目的」で、後半は怪物や魔法使いとの対決を経て、国家の大動乱の話にしてみたい。最終的には、主人公が国王になる。
別ブログに書いた記事だが、創作自体はこのブログで書いていこうと思っているので、その構想を載せておく。作品題名は「ジャン・ジャック・テノーリオ」にしようかと思っている。

(以下自己引用)

「悪のヒーロー ジャン」の構想

2,3日前から読んでいたモリエールの「ドン・ジュアン」を今朝の寝床の中で読み終えたのだが、実に傑作である。中世的な不合理な精神への批判として完璧だ。しかし、当時の宗教や道徳への痛烈な批判が内容なので、当時は、そして現代でも物議をかもす作品だろう。
これを読んで、私はこれをアニメ化したら面白いだろうなと思ったが、もちろん映画化やテレビドラマ化でもいい。しかし、ほとんどが会話劇なので、映像化は困難というか、映像化しても魅力に欠けるだろうな、と思う。そこで、この話の中心思想、つまり哲学を内包しながら、話にはもっと起伏を与え、事件性、冒険性、アクションを多くするのが一番だと思ったが、先ほど散歩の中で考えたのは、サドの「呪縛の塔」(私は前にうっかり「虚栄の塔」と書いた記憶がある。「虚栄の市」とごっちゃにしたのだろう。)のラストの部分、主人公と神(か悪魔)との対話の場面である。宇宙を背景に、主人公と神が論争する、というのはイメージ的に興奮するのではないか。
で、私がその時考えたのは、「精神においては人間は神と対等だ」ということである。正直言って、どんな神話や宗教の神も、私を納得させる精神性が無い。ユダヤ教やキリスト教、イスラム教の神も、ギリシャ・ローマ神話の神も、単に「人間の願望の集積」でしかないように思える。そこには、いわば「哲学」が無いのである。だから、合理性もない。単に、超越的存在だから人間はそれに従うしかないだけだ。それでは、王族や貴族には庶民が逆らえない権力と暴力性があるから従うしかないのと同じではないか。
で、その作品の題名を「悪のヒーロー ジャン」とする予定である。主人公はもちろんドン・ジュアン(スペイン読みではドン・ファン)で、私の作品では「ジャン・ジャック・テノーリオ」にする予定である。貴族の特権を利用して悪の限りを尽くす主人公の名前に、「民権論」のジャン・ジャック・ルソーを連想させる「ジャン・ジャック」を使ったのは、対比効果を狙ったものであるが、実は既成概念への反抗という点ではドン・ジュアンとルソーは近いのである。
主人公のジャン・ジャックは、無道徳の漁色家で高慢そのものだが、この話の中ではヒーローらしからぬ情けない姿をしばしば見せるし、ヒロインたちも、欠点を見せる。つまり、我々凡人と同じなのである。しかし、不合理性(の桎梏)への反抗と、その勇気という点でジャン・ジャックはヒーローの資格を持つ。
で、話をあまり真面目に(深刻に)しないために、場面場面で小さなギャグをたくさん入れたい。たとえば、ジャンに捨てられたヒロインのひとりが完膚無きまでにジャンを弁舌でとっちめ、さっそうと帰ろうとした瞬間、何かに躓いて無様に転ぶなどの、初歩的なギャグである。それによって、むしろヒロインの可愛さを出したい。これは、フィールディングの「トム・ジョウンズ」の中で、ヒロインの完璧な美少女で性格の良さ抜群のソファイア・ウェスタンが馬に乗ろうとして転がり落ちる場面がヒントだ。
ちなみに、「神との論争」は、原作で主人公のドン・ジュアンが雷に打たれて地獄に落ちた、その後の場面である。劇では地獄落ちが暗示されているが、私はそれを宇宙という法廷での人間と神との論争の場面にするわけである。まあ、「2001年宇宙の旅」のラストあたりみたいな映像であれば最高だ。



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