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少し前の記事だが、私は人相と知性や人格の関係に興味があるので、写真付きのこの記事を保存しておく。天才の顔とはこういうものか。なるほど知性を感じさせる顔だが、実は、私が塾講師をしていた時の経験では、成績の優秀さと顔はまったく比例しなかった。まあ、テスト秀才(記憶能力優秀者)と創造的天才とは知性の質が違うのかもしれない。



現代数学で最重要の難問「ABC予想」を証明、論文掲載へ 京大・望月教授、8年越しで専門誌に

4/3(金) 14:00配信

京都新聞

 現代数学で最も重要な難問とされる「ABC予想」を証明したとする京都大数理解析研究所の望月新一教授の論文が、同研究所の編集する専門誌「PRIMS」に掲載されることが3日までに決まった。論文はインターネット上に2012年から公開されていたが、8年越しで専門誌に掲載されることとなる。

【写真】京大に看板「中止だ中止!」

 整数では足し算と掛け算ができるが、ABC予想はその二つの演算の絡み合い方に関する問題。1980年代に欧州の数学者たちに提唱された。ABC予想の成立を仮定すると、多くの未解決の予想が証明されるため重要な問題とされてきた。論文は四つあり、計約600ページに上る。
 PRIMSの編集委員長は望月教授だが、同研究所の柏原正樹教授と玉川安騎男教授が共同編集委員長となり、望月教授を除いた特別編集委員会をつくって今回の論文を審査した。
 望月教授は発表したコメントで、証明の難しさについて「既存の数学理論と難しさの種類が違うことはあると思う」と説明。専門の研究者にとっても「まったく違う枠組みの議論につまずいてしまうことも起こり得る」とした。
 望月教授は、16歳で米プリンストン大に飛び級で入学、19歳で同大学数学科を卒業。2002年に32歳で京大の教授に就任した。京都で研究してきた意味について「数学の研究を進めるには、ある程度話が通じる相手がある程度の人数いる環境でないと難しい」とし、数理解析研究所に優れた研究者たちが在籍する利点を強調した。

京都新聞











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前回引用した文章にこういう部分がある。


韓国式銅剣文化は紀元前5世紀頃から韓半島の清川江以南部地域を中心に発展していた青銅器文化に青銅器時代後期またはこの時期から鉄器が使用されはじめたことから初期鉄器時代とも呼ばれます。代表的な青銅遺物には刃部が直線的に伸びる韓国式銅剣をはじめ銅矛、銅戈のような武器と精文鏡、各種鈴類などの儀器があります。

つまり、朝鮮半島は紀元前五世紀のころには日本より「戦争の先進国」だったということであり、だからこそ大和朝廷が日本の支配政権になったのだろう。
なお、古代史における朝鮮半島は小さな集団が群立していただろうし、その総体を表すには「朝鮮」という呼び名と「朝鮮人」という呼び名しか適合しないわけで、私がいつもブログに「朝鮮」とか「朝鮮人」と書くのに差別的な意味はまったく無い。それが差別なら、日本を日本と言い、日本人を日本人と言うのも差別である。
国立博物館ホームページから転載。
写真の銅剣の形状は日本でこれまで出土した銅剣とほぼ同じで、銅剣は朝鮮半島から(銅剣のオリジナルは中国で、朝鮮半島は経由地にすぎないかもしれないが)日本に伝わったと見ていいのではないか。
そして、その金属の「柄」(中子?)の部分が異常に短いのは、これが木製の柄に付けて用いられたこと、そして、ここが重要だが、その金属の中子(と言ったか、木製の柄に収まる部分だ)の極端な短さは、これが「剣」ではなく、「槍」として用いられた事実を示すだろう。つまり、木製の柄の部分が後世発見されていないのは、金属部分だけが貴重品として特別に保管され、木製柄の部分は腐食して消滅したのだと思う。仮にこれが「剣」だったなら、横方向の打撃に耐えきれず、刀身が柄から即座に抜けて使用不可能になっただろう。刺突に用いる槍だから、打撃が縦方向で、木に埋める部分(中子)は短くても良かったのである。
なお、銅剣が祭祀のためのものだったという説は私は採らない。祭祀用なら、あれほどの数が作られたはずがない。数が増えれば「有難み」は減る道理である。たとえば「草薙の剣」が三つも四つも百以上もあったら、誰が有難がるか。
と書いた後で、写真の「銅剣」の形状(一見刃に見える部分の下から十センチくらいのところにすべてわずかな窪み、あるいは小さな欠落がある。)を見て、考えが変わった。
つまり、私は、「刃」に見える部分がすべて実際に刃だったと考えて、上記のことを書いたのだが、実は、一見刃に見える部分の一番下の十センチくらいは、木の柄に埋め込まれた、とすれば、やはり「銅剣」だったと見るのが正解かもしれない。つまり、丸い中子だけだと木の柄の中で刀身が回ってしまう(つまり、刃の向きが安定しない)可能性があるので、刀身が柄の中で回らないように、刀身の下十センチくらいは柄に埋め込んだ可能性がある、というわけだ。中心部を円筒状に少しくり抜いた二枚の木の柄で剣の両側から挟み、紐で柄全体をきつく巻くような形態だったのではないか。


(以下引用)


和順大谷里遺跡出土遺物 : 李 真 旼

1971年、和順郡大谷里の住民が排水路作業中に青みがかった光を放つ奇妙なものを発見しました。この金属製のものは古物商は手に渡りましたが、数多くの古物を見てきた古物商は苦悩の末に全南道庁に発見申告しました。その4ヵ月後、青銅遺物が発見された場所に対する調査が実施されました。その結果、遺構は一部破壊された状態でしたが、墓壙を二段に掘って丸太の木棺を置いた後、その周囲を割石で詰めたことが明らかになりました。

 和順大谷里遺跡出土遺物、初期鉄器時代、直径(右側銅鏡)18 cm、国宝第143号

和順大谷里遺跡出土遺物、初期鉄器時代、直径(右側銅鏡)18 cm、国宝第143号
37年ぶりに一堂に会した和順大谷里の青銅遺物

驚くべきことはこの遺跡で計11点の青銅遺物が一括で発見されたということです。韓国式銅剣3点、銅斧1点、銅ヤリガンナ1点のみならず、精巧の極致を見せる精文鏡2面、八珠鈴2点、双頭鈴2点が出土し、翌年、国宝第143号に指定されました。それから37年が過ぎた2008年2月には現地を整備するために国立光州博物館が再調査を行いました。37年前の調査は緊急収拾という性格であったため、木棺の下の状況などに対する精密な調査が行われていない部分もあったのです。調査を終える頃、南側の床面から韓国式銅剣2点が新たに発見され、37年ぶりにこの墓のすべての副葬品が一堂に会することになりました。

支配者の象徴、韓国式銅剣

和順大谷里遺跡から出土した青銅遺物は韓国式銅剣文化を代表するものです。韓国式銅剣文化は紀元前5世紀頃から韓半島の清川江以南部地域を中心に発展していた青銅器文化に青銅器時代後期またはこの時期から鉄器が使用されはじめたことから初期鉄器時代とも呼ばれます。代表的な青銅遺物には刃部が直線的に伸びる韓国式銅剣をはじめ銅矛、銅戈のような武器と精文鏡、各種鈴類などの儀器があります。

和順大谷里遺跡では長さが異なる韓国式銅剣が計3点出土しました。3点とも金属製の柄は発見されておらず、木製の柄を使っていたものと推定されます。韓国式銅剣は遼寧式銅剣と同様に剣身と柄が別々に作られていますが、刃部が直線的に伸び、その一部に曲線をなす抉入部と節を持つことが特徴です。

遼寧式であれ韓国式であれ銅剣は簡単に作ることができないものであることから支配者の象徴物と考えられます。青銅器時代の剣自体が持つ象徴性は銅剣に限ったものではありませんでした。青銅器時代の墳墓から出土している大型石剣や柄が大きく作られた石剣、支石墓の上石に刻まれた絵画などから石剣もやはり当時の人々にとってはその所有を誇示すると共に邪気を退ける物品であり崇拝の対象でもあったことが分かります。しかし、石剣は遼寧式銅剣に続いて韓国式銅剣が本格的に製作されはじめるとともに徐々に姿を消していきます。このことは遼寧式銅剣と石剣に見られた象徴性を韓国式銅剣が持つようになったことを物語っており、剣が本来有している刺したり切るという「武器」としての機能以上の意味を持っていたと言えます。

青銅器製作技術の極致、精文鏡

韓国式銅剣文化の段階には以前の時期に比べて青銅器の種類が多様化して数的に豊富になります。それだけでなく質的にも高い水準を見せるものがあり、それは青銅器製作技術の頂点を物語る「精文鏡」と呼ばれる鏡です。精文鏡は粗文鏡から発展し、その文様がさらに精密になったもので、鏡の裏面には2つの鈕が付いており、全面にわたって直線を利用した幾何学的な文様が施されています。和順大谷里から出土した2面の精文鏡の直径はそれぞれ18cm(①)、15.6cm(②)で、文様は大きく外側部分、中央部分、内側部分に分かれ、他の文様との組み合わせが見られます。

 和順大谷里遺跡で発見された2面の精文鏡。幾何学的文様が引き立つ精文鏡は青銅器製作技術が頂点に達したことを物語る遺物です。

和順大谷里遺跡で発見された2面の精文鏡。幾何学的文様が引き立つ精文鏡は青銅器製作技術が頂点に達したことを物語る遺物です。

幅1mmの中に2〜3本の細い線で埋められた三角集線文が主な文様ですが、①のように同心円文が施されることもあります。これらの同心円文は国宝第141号の精文鏡、唐津素素里遺跡出土の精文鏡などでも確認されています。鏡の外側部分を見ると、三角集約文がまるで光が放たれるような形に配置されており、全体的に太陽を表現したものと推定されています。

粗文鏡の場合、鋳型が残っているのに対し、精文鏡の鋳型はまだ発見されていません。また、精文鏡の文様は非常に精巧で現代の科学を以てしても復元に失敗するなど、これまでその製作技法を把握することが困難でした。ところが、2007〜08年にかけて崇実大学校韓国基督教博物館が所蔵している国宝141号精文鏡の保存処理を行う過程で鏡の製作と関連する多くの疑問が解けました。分析の結果、大部分の鋳型が滑石で作られたのとは異なり、精巧な技術を必要とする精文鏡には鋳物砂(細かい砂)で作られた鋳型を使用していたことが明らかになりました。

剣と鏡、誰がどのように使ったのか?

このような青銅器に対する最大の疑問は「どのように」作られ、「誰」が「どのような用途」で使ったのかでしょう。青銅器は基本的に銅と錫を混ぜて作られ、材質を改善するために鉛、亜鉛などを追加で入れることもあります。これらの金属を得るためにはまず鉱石の採取が行われます。青銅製品はそれぞれの鉱石を溶かして液体にし、それらを製品の用途に応じて一定の割合で混ぜた後、鋳型に注ぎます。鋳型で形作った青銅製品は最後に砥石を用いて縁を磨いたり、刃をつけたりして形を整えて仕上げます。青銅製品を作る際にはこのように複雑で細心の注意を払う工程が必要となるため、社会の構成員全員が持つことはできなかったでしょう。

韓国式銅剣や精文鏡はその大部分が墓から玉、土器など様々な副葬品と共に出土します。和順大谷里遺跡は墓壙を二段に深く掘り木棺の上に石を詰めた積石木棺墓と呼ばれる墓です。韓国式銅剣文化段階の青銅遺物が多く発見された遺跡を見るといずれも積石木棺墓です。以前の時期に流行した支石墓が支配者の墓であると同時に「集団」の記念物のような性格を持っていたとすれば、積石木棺墓は埋葬される「一人」のために深い墓壙を掘り、最高水準の青銅器を大量に納めたという点で、より強い力を持った支配者が登場したことを物語っています。剣と鏡はそのような強い力を持った支配者が生前使用していた物品だったのでしょう。韓国式銅剣は遼寧式とは異なり、剣身の幅が狭くシャープに直線化されています。また、銅の含有率が70〜80%と高い数値を示しており、単に権威を示す象徴物としてだけではなく、支配者が実際に使用した武器であった可能性もあります。

精文鏡は鈴などの儀器と共に錫の含有量が銅剣に比べて高いですが、これは光の反射や澄んだ音色を出すという効果を狙ったものと推定されます。したがって、青銅鏡は顔を映すという美容的な目的よりは、太陽の光を反射させる機能を持った儀器で儀礼の際に使用されたものと考えることができます。

祭政一致の社会を意味する剣と鏡

支配者の墓から発見された剣と鏡、これは何を意味するのでしょうか?剣は支配者としての政治的権威を、鏡は祭祀長としての儀礼的な権威をあらわしています。つまり、祭政一致の社会の存在を示唆しています。青銅器時代になると本格的な農耕が始まるとともに多くの人々が一箇所に集まり大規模なムラが形成されるようになります。定着生活が行われるなかで集団内だけでなく集団間の葛藤の調整や重要な決定を下したり、自然に対して豊穣と安寧を願う儀式を執り行う強い力を持った支配者が必要となったのでしょう。

とすれば、韓半島南部でこのように強い力を持った支配者が最初に出現する地域はどこだったのでしょうか?この問題を解く糸口が和順大谷里遺跡にあります。和順大谷里を含む韓半島西南部地域では、青銅武器と儀器など韓国式銅剣文化段階の遺物が古い時期から多く発見されています。つまり、このことは韓半島西南部地域で最初に階級化のかなり進んだ政治集団が出現し発展していったことを物語っています。

これも、些細な部分への疑問だが、これまでその疑問を誰も言ったことが無いのが不思議である。
何かと言うと、古事記や日本書紀で女性が自殺するのにしばしば「女陰(ほと)を鋭いもので突いて死ぬ」記述があることだ。これは実際に行われたことなのだろうか。自殺の仕方として異様に感じるのは私だけか。そもそも、女陰を箸で突いて、本当に死ねるのか。怪我をするだけで終わるのではないか。
私は、これは何かの比喩ではないかという気がする。つまり、「生殖器を傷つける」に似た行為をすることで、その後の生殖が不可能になり「生む性」としての人生を終わりにした、というアピールをすることであって、実際に死んだわけでも女陰を箸や何かで突いたわけでもないと思う。
少なくとも、私は世界の歴史の中でも現代の事件でも、女性が自分の女陰を突いて死んだという話は一度も読んだことがない。

(以下引用)


崇神天皇(十六)倭迹々姫命の婚姻と死・箸墓(日本書紀)

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原文

是後、倭迹々日百襲姫命、爲大物主神之妻。然其神常晝不見而夜來矣、倭迹々姫命語夫曰「君常晝不見者、分明不得視其尊顏。願暫留之、明旦仰欲覲美麗之威儀。」大神對曰「言理灼然。吾明旦入汝櫛笥而居。願無驚吾形。」爰倭迹々姫命、心裏密異之。待明以見櫛笥、遂有美麗小蛇、其長大如衣紐、則驚之叫啼。時大神有恥、忽化人形、謂其妻曰「汝不忍、令羞吾。吾還令羞汝。」仍踐大虛、登于御諸山。爰倭迹々姫命、仰見而悔之急居(急居、此云菟岐于)、則箸撞陰而薨。乃葬於大市。故時人號其墓謂箸墓也、是墓者、日也人作、夜也神作、故運大坂山石而造、則自山至于墓、人民相踵、以手遞傳而運焉。時人歌之曰、

飫朋佐介珥 菟藝廼煩例屢 伊辭務邏塢 多誤辭珥固佐縻 固辭介氐務介茂
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現代語訳

倭迹々日百襲姫命(ヤマトトトヒモモソヒメミコト)は大物主神(オオモノヌシノカミ)の妻となりました。しかし、その神は常に昼は見えず、夜しか現れませんでした。倭迹々姫命(ヤマトトトヒメノミコト)は夫(セナ)に語って言いました。
「あなたさまは、常に昼は見えないので、ハッキリとその尊顔(ミカオ)を見る事ができません。お願いしますから、もう少しゆっくりしてください。明日の朝に美麗(ウルワ)しい威儀(ミスガタ)を見たいと思います」
大神は答えて言いました。
「言理(コトワリ=言ってる事は)灼然(イヤチコ=よく分かる)だ。私は明日の朝にあなたの櫛笥(クシゲ=櫛を入れる箱)に入っている。頼むから私の形(=本性)に驚くなよ」
倭迹々姫命(ヤマトトトヒメノミコト)は心の裏(ウチ)で密かに怪しんでいました。夜が明けるのを待って、櫛笥(クシゲ)を見ると、とても美麗(ウルワシ)い小蛇(コオロチ)がいました。
その長さと太さは下衣の紐のようでした。それで驚いて叫びました。それで大神は恥ずかしく重い、すぐに人の形になりました。
「お前、我慢出来ずにわたしに恥をかかせた。
わたしも山に還って、お前に恥をかかせよう」
それで大空を踏んで、御諸山(ミモロヤマ)に登りました。
倭迹々姫命(ヤマトトトヒメノミコト)は仰ぎ見て後悔して、ドスンと座りました。
急居は菟岐于(ツキウ)と読みます。

それで箸で陰(ホト=女性器)をついて亡くなりました。
それで大市(オオチ=大和国城上郡大市=奈良県桜井市北部)に葬りました。世の人はその墓を箸墓(ハシノハカ)と名付けました。この墓は、昼は人が作り、夜は神が作りました。大坂山(奈良県北葛城郡二上山の北側の山)の意思を運んで作りました。山から墓に至る人民が並んで列を作って手から手へと手渡しに運びました。世の人は歌を歌いました。

大坂に 継ぎ登れる 石群(イシムラ)を
手遞傳(テゴシ)に越さば
越しかてむかも
歌の訳
大坂山の石を麓から頂上まで、どんどんと持って行った。大量の石。手渡しにどんどん持っていったから、いつかは山をすっかり持って行けるだろう。








これは安寧天皇の后についての記述だが、私が興味を持ったのはその中の「渟」の字で、日本書紀の人名でしばしば使われるがそれ以外では私は見たことがない。音読みは「テイ」で、意味は水がとどこおって流れない意味のようだ。「ぬ」という訓読みは私の漢和辞書には載っていない。「沼」の代わりに用いた漢字かもしれない。


即位3年の春1月の5日に渟名底仲媛命(ヌナソコナカツヒメノミコト)を立てて皇后(キサキ)としました。
別名を渟名襲媛(ヌナソヒメ)といいます
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HN:
冬山想南
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