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たなかしげととかいう人のツィートだが、議論の前提部分が不確かな感じがある。いや、私も正確な理解はしていないが、「氏」と「姓」の区別をして論じているのか、下の文章でははっきりしない。基本的に「氏」はその一族の社会的記号だろうし、一部の一族だけに許されたものだったと思う。確か、「源平藤橘」の四氏しかなかったのではないか。だから、素性の知れない成り上がりは、無理やりに自分を「源氏の末裔である」とか何とか偽系図を作ったと思う。
姓は、その「一家」の表象である。しかし、これは武家特有と言うか、中世以降のものではないか。貴族にも姓があったと見るのかどうか、私はよく知らない。貴族社会では、「家」より「一族」が重要だったのは確かだろう。名乗りの際に「藤原の何とか」と言えば、「ああ、藤原一族のあの家だな」というのは貴族なら誰でも即座に分かるので、「何々家」と言う必要もなかったと思う。
言うまでもなく、庶民にはこうした氏姓制度は無関係の話である。庶民には氏どころか姓も無く、名前だけがあった。それが、明治の一応は「四民平等」の原則で戸籍を作るために新たにでっち上げたのが現代の「姓」の大半であり、だから、「住居が田んぼの中にあるから田中」とか、「川の上にあるから川上」とか「村の中にあるから中村」のような姓が多いわけだ。
なお、下のツィートに関して言えば、庶民のほとんどは百姓だから「家業を継ぐ」理由で氏や姓が必要か不要かというのは論点がずれている。家業も氏姓制度も無関係に、百姓に生まれれば百姓というのが江戸時代の庶民の宿命である。「家業」を継ぐのは商人や職人だが、職人に氏や姓は不要だし、商人に必要なのも氏や姓ではなく「屋号」である。

(以下引用)

そもそも明治以前にはほとんどの人は「氏」というものを持っておらず、それにもかかわらず家産を継承して家業を継続することはできていたわけで、「家」を継ぐのに「氏」は必要ない。
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赤道ギニアというのがどこにあるのか知らないが、たぶんアフリカの一国だろう、と思う。そして、アフリカにはなぜか「ン」で始まる言葉が多い印象がある。「ム」と表記されている言葉も「ン」かもしれない。「ムガベ」と「ンガベ」の違いはすぐに同じ発音とされるだろう。
「ン」は、口をまったく開けないで発声する音だが、アフリカあたりでその音が多用されているとしたら、その理由は何なのだろうか。他の土地では語頭に「ン」を使う例は少ないと思う。
ちなみに、尻取り遊びで相手が「ん」で終わる言葉をうっかり言うと、(本当はそこで勝負は終わりだが)それに「ンコ」と答える冗談がある。この「ンコ」が、日本語で唯一、「ん」で始まる単語ではないかwww

(以下引用)

爆発したのは赤道ギニアの最大都市バータの軍事基地「Nkoa Ntoma」・・・ンコア・ントマ。発音が難しい

「おじゃる丸」は、NHK教育の最長寿番組(同じのを繰り返し放映しているだけだろうが)ではないか。原作者の犬丸りんが若くして自殺したのを知っているのは若い世代には少ないだろう。
 
監督の大地丙太郎も、結局これが代表作みたいである。

(以下引用)

266: 名無しさん@おーぷん 21/02/11(木)23:51:45 ID:???
紅茶2回入れたティーバッグあるけどいる?

268: 名無しさん@おーぷん 21/02/11(木)23:58:26 ID:???
>>266
うすいさちよさんじゃないですか
28歳独身の方はすれちですよ

269: 名無しさん@おーぷん 21/02/11(木)23:59:46 ID:???
>>268
さちよさんは紅茶のティーバッグは一週間近く使うはずよ

271: 名無しさん@おーぷん 21/02/12(金)00:07:52 ID:???
>>268
うすいさんなら5回くらいのじゃないと譲ってくれないと思うわ

270: 名無しさん@おーぷん 21/02/12(金)00:02:41 ID:???
>>268
爆w
かなり前に使用済み紅茶のティーバッグを
「可燃ごみで出す前に乾燥させた方がいい」
とマンション1Fのベランダに干していたら近所の小学生に見つかり
「うすいさちよん家だ!」
と騒がれたけど私のナイスボリューミーバディを見た小学生が
「なんだ違うや」
と走り去ったのを思い出した

あれから2kgは痩せたんだから!
女性は評論を書くのに向いていない気がする。
論理を正確に追うよりも、自分の主張の正当性を主張するのが最優先になるのではないか。つまり、読者を敵と味方に分け、敵を粉砕するために文を書いており、論理そのものを追求し、「問題が解けること自体に快感を覚える」というところが女性の評論文には欠如しているように私には思える。
ただし、評論とは言っても、ひたすら「これが好き!」と言うだけの、つまりファンレター的文章も評論文の中に入れられることはある。その場合は、男性よりむしろ女性の文章のほうが面白い場合もある。つまり、どこまで行っても女性は「何よりも感情が優先する」生き物だ、と言っていいかと思う。
女性の哲学者が滅多にいないのも、「論理より感情」という女性の本能に由来するというのは言い過ぎだろうか。

戦闘的フェミニズムの指導者たちの言説がほとんど社会に受け入れられないのは、彼女たちの言説が徹頭徹尾党派的な、アンフェアなものだからだと思う。つまり、自分たちに不都合な事実は無視し、有利な事実だけを言い立てる。そんな言説が理性的なものとして受け入れられるはずはない。
言い訳に聞こえるだろうが、私は女性の権利拡張と権利擁護の支持者である。しかし、それは戦闘的フェミニズムによってむしろ阻害されていないか。

男の場合は、かなりの馬鹿でも、論理で考える時に感情を混ぜるのは間違いだ、ということは生来的に知っている気がする。逆に、些細な世間話でも話が非論理的になると我慢できない、という面もあり、これは欠点でもある。つまり、「論理的にしか会話できない」人間もおり、そうなると、恋人とのイチャイチャも幼児をあやすこともできないわけだ。
萩尾望都の「思い出を切りぬくとき」というエッセイ集の中に、ベラスケスの絵の構造の凄さを、ピカソの再構成した絵によって知る、という部分がある。

(以下引用)

私が、視点が定まらないと言ったその構図が、いかに数学的に完璧なものか、大きすぎると言った画布や空間の配慮が、画面の中にどのような意味をもっていすわっているか、横に並ぶ王女とそのお付きが、どんな面と線と方向に行くか、そのすべての面と線と方向を一手に引きついで、奥の開いて光のさすドアが、一気にこの宇宙を引きこみ、向こうへ解放しようとしている。

(引用終わり)

この、絵の中の動きあるいは動線、あるいは(視線の)導線というものをレオナルド・ダ・ヴィンチがその手記の中で書いていた気がするが、斜め読みしただけの記憶なので、確かではない。

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