(以下引用)
2.リボルバーの装弾は非常に面倒で、実戦要求に符合しない
3.リボルバーの威力は小さすぎ、実戦の需要を満たせない
4.リボルバーの外形は自動拳銃のように携帯や使用が便利ではない
5.リボルバーのトリガープルは重く、発射時に正確な照準を狂わせやすい
6.リボルバーの重心はグリップと比較的遠く、射撃時に手に力が要り、射弾が低くなりやすい
7.リボルバーはシリンダーとバレルの間の隙間から火薬ガスが噴出する
8.発射音が小さく、威嚇効果が小さい
9.リボルバーの分解結合は不便である
10.リボルバーは外部に露出する部品が多すぎ、少しの適切でない操作がその性能に影響する可能性がある
11.リボルバーの撃発機構とシリンダーの間の機構動作は複雑であり、潜在的故障率は高い
12.リボルバーにはスライドストップに当たる機構がなく、射に対し適時に改めての装弾を促すことができない
14.リアサイトのノッチの幅が不適合であり、フロントサイトがはっきり見えず、夜間射撃ならなおさら照準は不可能である
15.チャンバーの抗堪力が自動拳銃に及ばず、チャンバー内圧力の急上昇は容易にチャンバーの破裂を引き起こす
16.リボルバーは遅発が起きた際にチャンバーの破裂が必然である
17.リボルバーのチャンバー内圧力は均等でなく、チャンバーの破裂はその潜在的危険である
18.蛇足である「セーフティー」は長所を喪失させる物笑いの種である
19.セーフティをかけた後にシリンダーが型通り回転し、使用者に「不発だ」との誤った判断をさせる
20.トリガーを途中まで引いたら変更できない。さもないと次が空撃ちになる危険がある
21.国産9mm警察用リボルバーの2種類の弾の内外弾道は異なり、ゴム弾は発射後にチャンバーに残渣を残す
22.ゴム弾の戦術技術指標は模糊としており、使用者は使いようがない
リコイルの衝撃を肘を曲げて吸収するクセがある奴はリボルバー向き
オートマチック使う理由がないとかスレが立てられるのかな
精密早撃ちandその状態での連射。実際競技種目になってる射撃法でもある
何言ってんだ?クィックドロウはシングルアクションのトリガー引きっぱなしでハンマー操作だけで連射かつ複数に当てる競技だ
早撃の世界記録もシングルアクションで行い、その速さはのび太より速くしかも抜き撃ちで行う
整備環境やパーツの補充環境が安定してるならオートの方がいいけどそうでないなら実地向きはリボルバー
ただそんなとこまで環境求められた上で尚且つ日々の護身レベルでオート使うかリボルバー使うかなんて誤差という事実
そこまで求められてるような環境の殆どはARやSMGのような大型火器が宛がわれるし拳銃メインなんて事は無いんだから
これどうやってんの
脇に携帯してるオートマチックが路上で突然の喧嘩おっぱじめたとき
オートマチックを構える間にリボルバーは必殺の間合いからの腰撃ちで終わる
これが現実
距離をとるならアサルトライフルやライフルになるわけだし
それは相手がオートマチックだからだ
早打ちガンマンとナイフ使いがお互いの間合いで戦ったら早打ちのほうが早い
だからこそ瞬時の判断を求められるような状況ではグロックが推奨される
抜いてから打つまでの動作は腰撃ちに絶対に勝てない
仮に何ももっていない手で構える動作の真似をしたところで
腰うちにはかなわないだろう
グリップセーフティとかトリガーセーフティのオートマチックで予め弾を装填しておくのと何が違うの?
反骨精神のまろびでる一匹狼がもつ銃はリボルバーで決まり
整備少なくて済むしどうせ一発しか撃てないしで威嚇が目的らしいし
ミリタリーなんて懐古主義じゃなければくそつまんねえ界隈だろうが
別の見方をすれば、現実の事件でも「誰でも犯人とされる可能性はある」ということだ。ある証拠が他の証拠より重要だとか確実だというのは捜査側の主観でしかない可能性は常にある。それが、膨大な冤罪事件が生じる所以だ。
まあ、その前からナンセンスな日常の芝居(たぶん、我々の隣人としての異星人、あるいは狂人と我々普通人の会話の齟齬による笑い)があったのが、最後の狂笑への布石のようなのだが、一切覚えていない。最後に異星人が正体を現すのだが、チャチな着ぐるみと、全身タイツと、ステテコ腹巻などの集団で、それが「タラランタン・タン・タン・タン・タン」のリズムの単調な曲(最初は昔のCM曲の「ウガチャカ・ウガウガ」でもいい)で一斉に原始人的な、あるいはゴリラのような仕草の踊りを始めると、音楽の高まりと共に観ている者が狂人になっていくという感じだ。
どこかの大学生演劇グループに作ってもらいたい芝居である。題は「さあ、キチガイになりなさい」でいいのではないか。もちろん、フレドリック・ブラウンの名作のタイトルの借用だ。観客を本当に狂人にするか、笑い死にさせることができればお手柄だ。
前半は精神病院で患者たちが普通人の世界を皮肉る芝居をやる、という話でもいい。コオロギ食とか、風刺の材料はいくらでもあるだろう。
孝謙上皇との出会い・権力の拡大
この年孝謙上皇は、平城宮の改修などの関係で近江国の「保良宮」と呼ばれる場所に滞在しておられましたが、病気に倒れてしまい、その際に「禅師」として入り込んだ道鏡によって非常に熱心な看病が行われたとされています。
看病のおかげかどうか、孝謙上皇の病気は治り、その「ご恩」に心打たれた孝謙上皇は、それ以降道鏡と様々な意味で関係性を深め、実質的な「寵愛」・「政治的重用」を受けるようになります。
「謎の僧侶」を特別扱いし始めたことに周囲は不信感を抱き、当時の淳仁天皇は事あるごとにそれに対する「箴言(注意)」を行いますが、孝謙上皇は指摘されるとむしろ逆上して怒りを爆発させたようで、続日本紀に「高野天皇、帝と隙あり」と明記されたように、淳仁天皇と孝謙上皇の関係性は一気に悪化していくことになりました。
なお、上皇は批判を受けるほどに一層道鏡へ入れ込むことになったのか、762年には淳仁天皇を差し置いて自らが国家的な決定を担うと主張し、淳仁天皇は祭祀などの儀式を行う形式的な存在でよいとするなど、次第にその「暴走」傾向が顕著になっていきました。
権力基盤の確立・称徳天皇と道鏡の時代
当時の実質的な政治のトップであり、独自の権力基盤を持っていた「藤原仲麻呂」が、道鏡と孝謙上皇の関係が深まることに懸念を感じ、自ら兵を率いてクーデターを起こすことを計画します。
クーデターにあたっては、当初は軍事力を有することから優勢かと思われた仲麻呂ですが、密告などにより孝謙上皇側に先手を打たれ、吉備真備などの官軍が征伐に派遣されたこともあり、本人を含む一族の大半が戦死する完全な失敗という結果に終わりました。
この仲麻呂の乱の終結後は、これまで政治権力を振るってきた仲麻呂陣営が処罰を受け流罪などになった人物も多く、元より上皇と仲が悪かった淳仁天皇も「仲麻呂側」の人物として淡路島に送られて謎の死を遂げるなど、孝謙上皇は自らの反逆者と思われる存在を次々に「消して」いきます。
結果として、孝謙上皇は実質的に再び即位(称徳天皇)する形でトップへと返り咲き、今まで以上に道鏡を寵愛することが出来る環境を手に入れる形にもなりました。
ざっくり言えば、当時の朝廷では政治面での「称徳天皇(孝謙上皇)」と仏教面での「道鏡」の二頭体制の構図が確立された。と言ってもよいでしょう。また、道教の弟である「弓削浄人」も朝廷で地位を上げるなど、「道鏡陣営」とも言える政治基盤も整えられていくことになりました。
なお、この時代には僧侶である道鏡が権力者として君臨し、様々な乱世を経験した称徳天皇も仏教に入れ込んだことから、鎮護国家を願って「百万塔陀羅尼(ひゃくまんとう・だらに)」を製作させたり、寺院の整備をより推進するなど、仏教色・仏教保護の色彩の強い政治が行われました。また、神社についても保護政策が展開されますが、仏を護る「護法善神」という形で「神仏習合」の形態を持つことが一層増えていきました。
「宇佐八幡宮神事件」による失脚
孝謙上皇(称徳天皇)からの寵愛によって時の権力者に上り詰めた道鏡ですが、その権力の失墜・失脚はあっけなく訪れます。
当時の構図としては、独身で皇子などもおらず、その上称徳天皇の意向で皇太子が決定されていない中、天皇が高齢になる中で次の天皇が誰になるのか。という宮中・朝廷の不安と疑念が渦巻く状況でした。
そんな中、769年(神護景雲3年)5月に道鏡の弟であり九州防衛のトップ「太宰帥」であった弓削浄人が、突如大分の宇佐八幡宮(当時は皇室からの信仰が非常に強い神社でした)の「ご神託」として、「道鏡を皇位につければ世の中は平和になる」というメッセージを平城京に送ったこと(一般には偽のご神託であるともされます)で、状況は一変します。
道鏡を寵愛して来た称徳天皇は、その「ご神託」を確認しようということで、和気清麻呂を派遣しますが、持ち帰った答えは「皇位継承は皇族の人間にすべし」といった内容であり、称徳天皇は激怒して清麻呂に「別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)」という醜い名前を付けて流罪とします。
しかしながら、激怒した称徳天皇も結果としては無理に道鏡を皇位に就けようとはせずに、10月にはむやみに皇位を求めてはいけない・自らが後継者を決定するといった詔を発表して、状況を鎮静化しようとします。
天皇は、翌年770年(宝亀元年)に崩御し、どのような経緯で決定されたかは諸説ありますがその「遺言」として白壁王を光仁天皇として即位させることになり、道鏡が皇位に就くという流れは完全に排除されます。
唯一の後ろ盾と言っても良い称徳天皇を失った道鏡は、大きな処罰を受けることはなかったものの、現在の栃木県にあたる下野国の薬師寺別当に実質的な配流(流罪)となり、まもなく772年に亡くなりました。
道鏡の評価について
下世話なものも含む様々な「道鏡伝説」は、奈良時代からそのすべてが伝わっていたというよりは、どうやら後世になって様々な尾ひれがついて無限に拡大していった「人物像」である可能性が高いとも言えますが、「日本三大悪人」になぞらえる解釈や、道鏡を「奇怪な僧侶」としてロシアのラスプーチンになぞらえるインターネット上の解釈も複数見られるなど、現代に至るまで「悪いイメージ」がつきまとう存在であることは否定できません。
一方で、歴史的な解釈としては「本当に道鏡は悪人だったのか?」という疑問が呈されることも近年やや増えており、一部では再評価の兆しや、特に宇佐八幡宮事件などについては学問的に様々な解釈が見られることも確かです。
そもそも、経歴を追っていく中でも、道鏡が何かを自らで大規模に粛清したとか、特定の存在を極端に弾圧したとか、誰かと共謀してまれに見るような凶悪な働きを果たした。といったような歴史に残る「具体的な悪行」は特に伝わっていないことは紛れもない事実です。
そういった観点を考慮し、本記事では様々な「道鏡解説記事」にありがちなセンセーショナルなエピソードなどをなるべく退けて、一般的に伝わる氏の経歴のみを淡々と解説しています。
まとめ
藤原仲麻呂の乱
藤原仲麻呂の乱(ふじわらのなかまろのらん)は、奈良時代(764年)に起きた叛乱。恵美押勝の乱(えみのおしかつのらん)ともいう。孝謙太上天皇・道鏡と対立した太師(太政大臣)藤原仲麻呂(藤原恵美押勝)が軍事力をもって政権を奪取しようとして失敗した事件である。
背景[編集]
藤原仲麻呂は、叔母の光明皇后の信任を得て、大納言・紫微令・中衛大将に任じられるなど次第に台頭し、孝謙天皇が即位すると、孝謙と皇太后となった光明子の権威を背景に事実上の最高権力者となった。天平勝宝9年(757年)3月、当時皇太子だった道祖王を廃位に追い込み、4月、ひそかに孝謙に勧めて、息子真従の未亡人粟田諸姉と結婚して仲麻呂の私邸に居住していた大炊王を皇太子に立てることに成功する。天平宝字2年(758年)8月、大炊王(淳仁天皇)が即位すると、大保(右大臣)に任ぜられ、恵美押勝(藤原恵美朝臣押勝)の姓名を与えられる。天平宝字4年(760年)1月にはついに人臣として史上初の太師(太政大臣)にまで登りつめた。
押勝は子弟や縁戚を次々に昇進させ要職に就けて勢力を扶植していったが、同年6月に光明子が死去したことで、その権勢はかげりを見せはじめる。さらに2年後には押勝と孝謙の間のパイプ役になっていた正室の藤原袁比良を失ったことも大きな打撃となった。同時期に孝謙太上天皇が自分の病気を祈禱によって癒した道鏡を信任しはじめたことで、押勝は、淳仁を通じて孝謙に道鏡への寵愛を諫めさせたが、これがかえって孝謙を激怒させた。天平宝字6年(762年)6月、孝謙は出家して尼になるとともに「天皇は恒例の祭祀などの小事を行え。国家の大事と賞罰は自分が行う」と宣言する。孝謙の道鏡への信任はしだいに深まり、逆に淳仁と押勝を抑圧するようになった。天平宝字7年(763年)9月には道鏡を少僧都に任じている。
天平宝字8年(764年)6月、授刀衛の責任者である授刀督を兼ねていた仲麻呂の娘婿藤原御楯が急死する。授刀衛は元々皇太子時代の孝謙上皇の護衛を司ってきた部隊であり、御楯の死によって上皇側が影響力を回復して掌握されていくことになり、その後の乱でも上皇軍の主力部隊として活躍することになる。
反乱計画[編集]
焦燥を深めた押勝は軍事力により孝謙と道鏡に対抗しようとし、天平宝字8年(764年)9月、新設の「都督四畿内三関近江丹波播磨等国兵事使」に任じられた。諸国の兵20人を都に集めて訓練する規定になっていたが、押勝は600人の兵を動員することを決めると、大外記高丘比良麻呂に命令の発令を指示した。押勝は都に兵力を集めて軍事力で政権を奪取しようと意図していた。このとき押勝は太政官印の確保に成功している[1]。9月5日には[2]、仲麻呂は船親王と謀議し、朝廷の咎を訴えようと図った。また池田親王はすでに夏頃より兵馬を集結していた。両親王ともに、仲麻呂が擁立した淳仁天皇の兄弟であった。
ただし、木本好信は孝謙側も授刀衛を掌握して権力掌握の動きを見せたために仲麻呂は「自衛」のために兵の確保を目指した可能性があるとした上で、元々日常の小事の決裁に関しては天皇の内印を求めず太政官印で処理しても良いことになっていた(『続日本紀』養老四年五月癸酉条)ことから、仲麻呂本人には元々反乱や権力奪取を計画する意図はなく、「自衛」のための小規模な兵士の増員も小事の範疇である考えて命令したものが、命令の発令前に公文書の審査を行う立場の比良麻呂はそれを小事の範疇とは考えなかったのではないか、としている[3]。
高丘比良麻呂は後難を恐れて、孝謙に動員計画を密告した。平素押勝に信頼されていた陰陽師の大津大浦も押勝の叛乱を知り、その旨を密告した[4]。また和気王からも反乱計画が伝えられた[5]。
戦乱[編集]
9月11日、重なる密告通知をうけた孝謙は少納言山村王を淳仁のいる中宮院に派遣して、皇権の発動に必要な鈴印(御璽と駅鈴)を回収させた(一説には淳仁天皇もこの時に中宮院内に幽閉されたという)。これを知った押勝は子息訓儒麻呂に山村王の帰路を襲撃させて、鈴印を奪回した。孝謙はただちに授刀少尉坂上苅田麻呂と授刀将曹牡鹿嶋足を派遣して、訓儒麻呂を射殺した[6]。
押勝はこれに対抗して中衛将監矢田部老を送ったが、彼も授刀舎人紀船守に射殺された[7]。
孝謙は勅して、押勝一族の官位を奪い、藤原の氏姓の剥奪・全財産の没収を宣言した。さらに三関の固関を行わせている。その夜、仲麻呂は一族を率いて平城京を脱出、宇治へ入ると、長年国司を務め、彼の地盤となっていた近江国の国衙を目指した。仲麻呂は近江国庁を本拠に東山道と北陸道の国々に兵士の動員をかけて反撃をする計画であったと考えられる。孝謙は当時造東大寺司長官であった吉備真備を召して従三位に叙して仲麻呂誅伐を命じ、ただちに追討軍を派兵させた。かつて朝廷の要職を歴任した真備だが、以降は権を握った仲麻呂のために久しく逆境にあった人物で、この年正月に70歳を迎えた老齢でありながら、在唐中に取得した軍学の知識を買われ任じられた。
仲麻呂の行動を予測した真備は、山背守日下部子麻呂と衛門少尉佐伯伊多智の率いる官軍を先回りさせて勢多橋を焼いて、東山道への進路を塞いだ。仲麻呂はやむなく子息辛加知が国司になっている越前国に入り再起を図り、琵琶湖の西岸から越前へ北進する。淳仁を連れ出せなかった仲麻呂は、自派の元皇族中納言氷上塩焼(新田部親王の子)を同行して「今帝」と称して天皇に擁立し、自分の息子たちには親王の位階である三品を与えた。また、奪取した太政官印を使って太政官符を発給し、諸国に号令した。ここに、2つの朝廷が並立したことになる。孝謙側は、仲麻呂を討ち取った者に厚い恩賞を約束するとともに、北陸道諸国には、太政官印のある文書を信用しないように通達している。
官軍の佐伯伊多智は越前に馳せ急ぎ、まだ事変を知らぬ辛加知を斬ると、授刀舎人物部広成らに固めさせた愛発関(近江と越前の国境の関所)にて、仲麻呂軍の先発隊精兵数十人を撃退した。辛加知の死をまだ知らない仲麻呂は、舟で琵琶湖対岸に渡り、愛発関を避けての越前への入国を試みる。だが逆風での難破寸前に渡湖を断念。上陸した塩津から愛発関の突破を再度図る仲麻呂軍だったが、佐伯伊多智にまたしても阻まれて、退却する。
南下して三尾(近江国高島郡・現:滋賀県高島市)まで退いた仲麻呂軍は古城に籠もると、攻め立ててくる討伐軍に対し必死で応戦する。
9月18日、討賊将軍に任ぜられた備前守藤原蔵下麻呂が増援に加わった討伐軍によって、海陸から激しく攻められた仲麻呂軍は、ついに敗れた。湖上に舟を出して妻子とともに逃れようとする仲麻呂は、軍士石村石楯に斬られ、その一家も皆殺しにされた。また氷上塩焼も同時に殺された。9月11日時点では仲麻呂の軍権と支配力は上皇を圧倒していたが、当初の揉み合いで訓儒麻呂・矢田部老らが不運に落命する。形勢も一変し、わずか1週間で窮死に追い込まれるという歴史的な転落劇となった。権力者の横死としては、嘉吉の乱・本能寺の変のように即決の不意打ちとも、鎌倉幕府滅亡のように一定期間の攻防を経てのものとも異なる、唯一異例のものである。
乱後[編集]
仲麻呂の勢力は政界から一掃され、淳仁は廃位され淡路国に流された。代わって孝謙が重祚する(称徳天皇)。以後、称徳と道鏡を中心とした独裁政権が形成されることになった。