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森鴎外が坪内逍遥の「没理想論」を批判した文章の中に、創作物の中で否定されるべきものは理想ではなく「成心」だ、という趣旨の部分があるが、現代ではこの「成心」という概念はもはや知られていないと思う。要するに「当て込み」であるが、この「当て込み」も理解されないだろう。創作家が、読者に、意図的に何かの効果を及ぼそう(引き出そう)とすることである。たとえば「勧善懲悪」などが、その分かりやすい例だ。これが、創作物を下品にする。
私が「宇宙兄弟」を批判するのも、この作品がまさに当て込みで作られた作品の代表に思えるからである。電通的作品だ、感動ポルノだ、というのはそういうことだ。
どのような創作家でも当て込みがあるのは仕方がないのだが、問題はその度合いである。
まず、「何かを表現したい」という衝動があって、それを形にするのが創作の本道だろう。つまり、作者自身が、「こういうものを作りたい、描きたい」というのがあって、そこから、それを形にしていく作業が始まるわけだ。ところが、その時に、「こうしたら読者(作品の受容者)や編集者に受けるだろうなあ」という邪念があり、その意識が強いと、その作品は下品になる。これが「成心」であり、「当て込み」だ。
これも「宇宙兄弟」で言えば、ケンジの幼い娘が仕事に行くケンジに「かぺー」と声をかけ、それがどういう意味かムッタが悩む話があるが、この「かぺー」などが、まさに「作り物」という感じである。どこをどうしても、「頑張って」が「かぺー」になることは無いだろう。幼児には半濁音の発音自体が難しいはずで、「て」が「ぺ」になるのは不自然である。つまり、「これ、面白いでしょ」という作者の顔が見え透いて、気持ち悪いのである。これを「成心」「当て込み」と私は言っているのである。この種の事例はこの作品の中に無数にある。NASAの職員や宇宙飛行士の奇矯なキャラは、すべてその種の当て込みである。
ただし、その当て込みがしばしば成功し、ヒット作になるのである。これは馬琴の「八犬伝」がベストセラーになった事例が代表的だろう。で、馬琴自体は、「勧善懲悪」を素晴らしいことだと信じて書いたので、悪意は無い。読者もそれを喜んだ。しかし文学的な見地から見れば、それは作品の水準を下げる行為であったわけである。つまり、下品な作品になったのだ。いや、そういう意味では、「三国志演義」も「水滸伝」も「西遊記」も、すべて「当て込み」で書かれ、大成功した作品である。だが、それが書かれた土台には、作者が「こういう作品を書きたい。こういう作品が、自分にとっては面白い」という創作欲望が「当て込み」や「成心」より先にあったはずだ。(たとえば「オーバーロード」などがその代表だろう。作者が「こういうものが書きたい」という欲望が、その作品の「密度」と「作品世界の完全さ」を作ったわけだ。もちろん、作者の非人間的なほどの「ゲーム志向」は、しばしば不快な表現に至るわけで、受容者がその世界を好きになるかどうかは別物だ。私は、作者は「嫌な奴」だろうなとは思うが、作品の完成度の高さは認めるしかないと思う。)
この「当て込み」が批判されるのは、あくまで純文学的見地からの話だが、大衆文芸(漫画も含む)が、下品になるのもまた「当て込み」のためなのである。純粋に作者が書きたいと思って書いたのか、「読者に受けるため」に書いたのかは、やはり作品に出て来るわけだ。手塚治虫のような大作家でも、純粋に自分が書きたいと思って書いた「火の鳥」などと、他の作品の間にはやはり「品位の差」があるのである。
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