必ずしも同感はしないが、参考にはなる。
漫画原作者の新人作家(投稿者)の才能を見分ける三つのポイント。新人さん限定だし原作者限定ですよ。1)得意分野を持っている。その方がとんでもなく詳しそうなジャンルを持っていることです。それを調べるノウハウを持っているだけでもいい。料理、お酒、ミステリ(トリック)、野球、海上保安、
2012-10-22 22:21:51ギャンブル、その他なんでも。この人はここの知識や含蓄が凄いな、と感じさせるものがあればOKです。世の原作作品もそういう「得意分野」に当てはまるものが多いですよね。でも、新人作家(投稿者)は意外とざっくりとした特徴の薄い作品で投稿される方も多いので気をつけてもいいと思います。
2012-10-22 22:25:22得意分野のある原作は、漫画家さんも思わず描きたいと思うケースが多いと思います。2)はっとさせるセリフが描けるかどうか。印象的なセリフ。かっこいいセリフ。通常の脳みそでは生み出せないようなセリフ。そういうものを出せれば、原作者としての価値は高まると思います。
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これはバトル物の王道パターンだが、それを最初にやった「七人の侍」つまり黒澤明は凄い。まさに、映画の教科書と世界で言われているくらいである。
(以下「あさりよしとお」のツィート)
絵のガルパン『七人の侍』『荒野の七人』について一言言っておくと、劇場版『ガルパン』って、大洗を助けに来る7校のお話しなのよね。 絶望の底から始まる物語。 対抗する強者集結のカタルシス。 戦いの中、次々と仲間が削られてゆく痛み。 その向こう側での勝利。 この構文で面白くない訳がない。
(以下「あさりよしとお」のツィート)
絵のガルパン『七人の侍』『荒野の七人』について一言言っておくと、劇場版『ガルパン』って、大洗を助けに来る7校のお話しなのよね。 絶望の底から始まる物語。 対抗する強者集結のカタルシス。 戦いの中、次々と仲間が削られてゆく痛み。 その向こう側での勝利。 この構文で面白くない訳がない。
モームの「世界の十大小説」のディッケンズについての部分で、モームはディッケンズの人物設定の手法をこう書いている。
「ディケンズが普通用いた人物を作り出す方法は、モデルの持つ性格上の特徴や癖や弱点を強調すると同時に、それぞれの人物に何かある一つの決まり文句ないしは一連の決まり文句を折りあるごとに使わせて、その人物の本質を読者に強く印象づけるという方法である。」
これは現代では特にある種のアニメなどで使われる手法で、ただし、それは「その人物の本質」とはあまり関係のない、「無理やり装着させた特徴」である。「とある」シリーズだとそれが極端化して使用されていて、臭みを感じる。なお、人物とは別としてもいいが、ロボットアニメだと、敵ロボットと味方ロボットの区別すらつかないほどワンパターンであり、エヴァンゲリオンの「使徒」などは特殊な例外だが、あれはロボットとも怪物ともつかない存在だ。
ちなみに、モームは「実在人物をモデルにして小説内人物を作る」のが小説の正道だという考えで、私はその考えに賛成しない。そういうやり方をする限り、ドストエフスキー的な人物や、バルザックのヴォートランのような人物の創造はできないと思う。
なお、「デイヴィッド・コパフィールド」の中の人物で、私は記憶にないが、ステアフォースという人物のキャラクターをモームは褒めていて、この人物の特徴をこう書いている。
「ディケンズは、この人物の持つ魅力、上品で優雅な態度、その友情、親切、あらゆる種類の人と折り合って行ける好ましい天分、その賑やかな性質、勇気、利己心、破廉恥、無謀、非情について語って、すばらしい感銘を読む者に与える」「この人物においてディケンンズは、その行くところがどこであれ、行った先々に喜びをもたらし、立ち去ったあとに不幸を残すという、私たちの大抵が経験して知っている例の型の人物を描いたのである」
こういう、陽性で社交的で周囲の人気者である人物が、実は利己的で残忍で破廉恥で無謀で非情だというのは何となく理解できる。実際、女性の不幸も幸福もこの種の人間がもたらすことが多いはずだ。その友情も親切も嘘ではないが、自分の欲望の追及と利己心のほうが本質なので、いざとなれば「破廉恥、無謀、非情」な行為を平気でやるのだろう。
実は私の身近にもそういう人物がいるのだが、その人生で女に不自由したことはなさそうで、自分の行為への反省は無く、自分の失敗や不運はすべて誰か他人のせいと本気で思っているようだ。
こうした「社交的なエゴイスト」というのは、社会で一番成功しやすいのではないかと思う。ひろゆきとかホリエモンとかガーシーなどもそれに近いようだ。まあ、そういう生き方は私の好みではないが、「小説のキャラ」には最適だろう。陽性の人間がエゴイストというのはあまり一般には信じられないかもしれないが、実際、「行った先々に喜びをもたらし、立ち去ったあとに不幸を残す」というのは、その人物のエゴイズムや無責任さの結果なのである。周囲が彼に好意を持つので、その不始末を厳しく追及しない。それに味を占めて、ますます無責任さが身上となるのである。これが「地下室の手記」の主人公のようなタイプのエゴイストだと、そもそも地下室から出ないから社会にはまったく迷惑をかけないわけだ。
「ディケンズが普通用いた人物を作り出す方法は、モデルの持つ性格上の特徴や癖や弱点を強調すると同時に、それぞれの人物に何かある一つの決まり文句ないしは一連の決まり文句を折りあるごとに使わせて、その人物の本質を読者に強く印象づけるという方法である。」
これは現代では特にある種のアニメなどで使われる手法で、ただし、それは「その人物の本質」とはあまり関係のない、「無理やり装着させた特徴」である。「とある」シリーズだとそれが極端化して使用されていて、臭みを感じる。なお、人物とは別としてもいいが、ロボットアニメだと、敵ロボットと味方ロボットの区別すらつかないほどワンパターンであり、エヴァンゲリオンの「使徒」などは特殊な例外だが、あれはロボットとも怪物ともつかない存在だ。
ちなみに、モームは「実在人物をモデルにして小説内人物を作る」のが小説の正道だという考えで、私はその考えに賛成しない。そういうやり方をする限り、ドストエフスキー的な人物や、バルザックのヴォートランのような人物の創造はできないと思う。
なお、「デイヴィッド・コパフィールド」の中の人物で、私は記憶にないが、ステアフォースという人物のキャラクターをモームは褒めていて、この人物の特徴をこう書いている。
「ディケンズは、この人物の持つ魅力、上品で優雅な態度、その友情、親切、あらゆる種類の人と折り合って行ける好ましい天分、その賑やかな性質、勇気、利己心、破廉恥、無謀、非情について語って、すばらしい感銘を読む者に与える」「この人物においてディケンンズは、その行くところがどこであれ、行った先々に喜びをもたらし、立ち去ったあとに不幸を残すという、私たちの大抵が経験して知っている例の型の人物を描いたのである」
こういう、陽性で社交的で周囲の人気者である人物が、実は利己的で残忍で破廉恥で無謀で非情だというのは何となく理解できる。実際、女性の不幸も幸福もこの種の人間がもたらすことが多いはずだ。その友情も親切も嘘ではないが、自分の欲望の追及と利己心のほうが本質なので、いざとなれば「破廉恥、無謀、非情」な行為を平気でやるのだろう。
実は私の身近にもそういう人物がいるのだが、その人生で女に不自由したことはなさそうで、自分の行為への反省は無く、自分の失敗や不運はすべて誰か他人のせいと本気で思っているようだ。
こうした「社交的なエゴイスト」というのは、社会で一番成功しやすいのではないかと思う。ひろゆきとかホリエモンとかガーシーなどもそれに近いようだ。まあ、そういう生き方は私の好みではないが、「小説のキャラ」には最適だろう。陽性の人間がエゴイストというのはあまり一般には信じられないかもしれないが、実際、「行った先々に喜びをもたらし、立ち去ったあとに不幸を残す」というのは、その人物のエゴイズムや無責任さの結果なのである。周囲が彼に好意を持つので、その不始末を厳しく追及しない。それに味を占めて、ますます無責任さが身上となるのである。これが「地下室の手記」の主人公のようなタイプのエゴイストだと、そもそも地下室から出ないから社会にはまったく迷惑をかけないわけだ。
谷川流の涼宮ハルヒシリーズは、アニメを見たのが1,2年前で、原作小説を古本屋で買って読み始めて1年くらいかと思うが、もちろん全作品は揃っていない。それどころか、同じ作品を何度も買っているのは、その作品タイトルが記憶できないためである。まあ「消失」だけは記憶できるが、それ以外は無理だ。従って、作品内容もほとんど覚えていない。ひどい場合は、同じ作品を半分くらい読んでから「あっ、これは前に読んだやつだ」と気づいたりする。
まあ、同じ作品を何度も楽しめるとも言えるから、ボケも悪いばかりではない。
で、「憤慨」の中に出て来る、キョンの書いた「恋愛小説」には、2度目も騙されてしまったのである。つまり、最初に読んだ時もあまり真面目に読んでいなかったので、これがいかにトリッキーな推理小説であるかが分からなかったわけだ。「恋愛小説」だという前提で読んだので、そうとしか思えず、その「推理小説」性を忘れていたので、二度も騙されたのである。
要するに、我々は「与えられた前提で思考する」ことが完全に習慣化しているために、実に騙されやすい存在になっているということだ。この場合は「恋愛小説」として提出されたら、そういう目でしかその作品を読まなくなるのである。これは人間性への鋭い問題提起だろう。
ちなみに、このキョンの小説のトリックは、日本の推理小説の傑作のひとつとされている(かどうかは知らないが、その年度の代表作だと思う。)「葉桜の季節に君を想うこと」と同じである。あの作品は、作中の事件自体よりも、作中で最後まで隠された「ある事実」によって読者をあっと言わせたのだが、キョンのこの「恋愛小説」がまさにそれと同じであり、ある意味では、これが推理小説の基本かもしれないと思う。つまり、「作者が『肝心の事実』を隠して話を進めれば、ミステリーになる」ということだ。
これを「叙述トリック」と分類してもいいが、推理小説全体がそうだと言ってもいいと思う。
まあ、同じ作品を何度も楽しめるとも言えるから、ボケも悪いばかりではない。
で、「憤慨」の中に出て来る、キョンの書いた「恋愛小説」には、2度目も騙されてしまったのである。つまり、最初に読んだ時もあまり真面目に読んでいなかったので、これがいかにトリッキーな推理小説であるかが分からなかったわけだ。「恋愛小説」だという前提で読んだので、そうとしか思えず、その「推理小説」性を忘れていたので、二度も騙されたのである。
要するに、我々は「与えられた前提で思考する」ことが完全に習慣化しているために、実に騙されやすい存在になっているということだ。この場合は「恋愛小説」として提出されたら、そういう目でしかその作品を読まなくなるのである。これは人間性への鋭い問題提起だろう。
ちなみに、このキョンの小説のトリックは、日本の推理小説の傑作のひとつとされている(かどうかは知らないが、その年度の代表作だと思う。)「葉桜の季節に君を想うこと」と同じである。あの作品は、作中の事件自体よりも、作中で最後まで隠された「ある事実」によって読者をあっと言わせたのだが、キョンのこの「恋愛小説」がまさにそれと同じであり、ある意味では、これが推理小説の基本かもしれないと思う。つまり、「作者が『肝心の事実』を隠して話を進めれば、ミステリーになる」ということだ。
これを「叙述トリック」と分類してもいいが、推理小説全体がそうだと言ってもいいと思う。
書いてみたい話があるのだが、それは「レ・ミゼラブル」のアンチテーゼのような内容である。ある罪人が脱獄した後改心して無数の人を助け、無数の命を救うのだが、或る日、彼の前にひとりの青年が現れる。その青年は、主人公が監獄を脱走する際に殺した役人の息子で、父の死後、辛酸をなめて育つが、その間常に主人公への復讐を忘れなかった。
主人公は、「犯した罪は、その後どれだけ善行を積んでも清算できない」と知って、青年に頭を垂れて殺される。そういうラストである。
つまり、倫理は論理的計算が成り立たない、ということだ。犯した罪に対し、罪の清算は不可能だ、というのがこの話のテーマである。
殺人が無数の人を救うこともあるし、ひとつの殺人が無数の不幸を呼ぶこともある。
主人公は、「犯した罪は、その後どれだけ善行を積んでも清算できない」と知って、青年に頭を垂れて殺される。そういうラストである。
つまり、倫理は論理的計算が成り立たない、ということだ。犯した罪に対し、罪の清算は不可能だ、というのがこの話のテーマである。
殺人が無数の人を救うこともあるし、ひとつの殺人が無数の不幸を呼ぶこともある。
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冬山想南
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