「魔群の饗宴」を書いてから、その後に何か書きたいと思ってはいるが、まったくアイデアが出ない。まあ、単なる趣味だから無理に書く必要は無いが、まったく無為に日月を過ごすのも、少し気が飢える。もちろん、基本的にはあらゆる趣味は単なる時間つぶしだが、創作は、趣味の中では有益性が高いような気がするわけだ。誰かがその創作を読んで面白いと思えば、誰かの人生の一瞬間を充実させるメリットはあるのだから。
昔読んだ小説や未読の小説を読むのも面白い時間つぶしだが、何かを作っている時の充実感は、それとは少し色合いが違う。下手な創作でも、そういう充実感はある。
私は山田風太郎という作家を、作家としてより「観察者」として高く評価しているのだが、彼の小説自体は、読んだ後に「読書の充実感」が無いのである。つまり、それによって自分の人生に何かが加わったとか広がったという感じが無い。暇つぶしとしては実に優秀な小説ではあるが、人生の残りが少ない老人としては、「時間潰し」をしていられないという焦燥感があるから、彼の小説を虚心に味わうことができない。
そういう「時間つぶし」をするよりは、たとえばブログに雑文を書くほうがマシな気がする。それは、少なくとも「自分自身の発見」にはなるからだ。何かを書くことは、その問題(ネタ)自体を深く観照することであり、それは自分自身の脳(心)を観照することである。
甘い考えではあるが、ある瞬間に、何かの凄い発見をする可能性というのは、死ぬまで「可能性としては」あるわけだ。そういうワクワク感が、創作や思考作業にはある。それは、受動的な娯楽では得られないのだ。
昔読んだ小説や未読の小説を読むのも面白い時間つぶしだが、何かを作っている時の充実感は、それとは少し色合いが違う。下手な創作でも、そういう充実感はある。
私は山田風太郎という作家を、作家としてより「観察者」として高く評価しているのだが、彼の小説自体は、読んだ後に「読書の充実感」が無いのである。つまり、それによって自分の人生に何かが加わったとか広がったという感じが無い。暇つぶしとしては実に優秀な小説ではあるが、人生の残りが少ない老人としては、「時間潰し」をしていられないという焦燥感があるから、彼の小説を虚心に味わうことができない。
そういう「時間つぶし」をするよりは、たとえばブログに雑文を書くほうがマシな気がする。それは、少なくとも「自分自身の発見」にはなるからだ。何かを書くことは、その問題(ネタ)自体を深く観照することであり、それは自分自身の脳(心)を観照することである。
甘い考えではあるが、ある瞬間に、何かの凄い発見をする可能性というのは、死ぬまで「可能性としては」あるわけだ。そういうワクワク感が、創作や思考作業にはある。それは、受動的な娯楽では得られないのだ。
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