「魔群の狂宴」を書き終えて、一休みしている状態だが、何かを作り上げることは、その出来不出来は別として、やはり或る種の充実感は与えてくれる。
で、次にまた何か書きたいのだが、やはり脚本だろうか。私は描写が苦手だから、脚本のように「事件」と必要な「説明」だけで済む形式がいいようだ。
で、書きたいものは、「ファウスト」かなあ、と思う。つまり、「願望充足」の作品だ。精神においてはまさに「なろう小説」であり、内容も「異世界転生」物だが、神や悪魔が出て来ることで、重厚感がある。
要するに、「ファウスト」とは、「何でも可能だとしたら、お前はどんな人生を望むか」ということである。現代では金力と権力がその力を与えてくれるのだが、その力でまともな人生を送っている人間は少ないように見える。つまり、下種にしか金力や権力が与えられていない。まともなのはロシアのプーチン大統領くらいではないか。
「悪霊」のスタヴローギンなども、その力を無為にしてしまった男だ。
あるいは、あえて苦手な「描写」の訓練をしながら「小説」を書くということも悪くはない。
井伏鱒二の「さざなみ軍記」のように、すべて現代語で歴史小説を書くという手もある。あの要領で、平家物語をリライトするわけだ。まあ、これも小説ではなく脚本でもいい。あえて外来語も使うわけだ。
あるいは、異世界転生だが、「平家物語」の世界に転生する、というのはどうか。つまり、フィクションの世界に転生するわけだ。
「ファウスト」の話に戻る。
「何でも(どのような人生でも)可能だ」としたら、科学者や研究者になる人間はいないだろう。彼らは、その仕事に充実感を覚えるからやっているのだが、「何でもできる、可能だ」となれば、そういう地味な仕事を自分でやる気にはならないと思う。まず、国王になるのが普通だろう。そして、男ならあらゆる美女を国の内外から集め、ハーレムを作るだろう。
では、そういう人生が面白いか、と言えば、最初の数ヶ月くらいだけではないか。国王の無為の生活も、貧乏隠者の小さな庵の中の生活も「自由である」という点では同じなのである。王侯の豪華な食事と隠者の貧しい食事に、どれほどの違いがあるか。国一番の美女の女陰と自分の右手とどれだけの違いがあるか。国王が退屈のあまり戦争をしようが、人民のために土木工事をしようが、どちらも暇つぶしでしかない。
我々が真面目に仕事をするのは、だいたい「それ以外の選択肢が無い」からで、それに不満はあっても、仕事をしていればそれなりの充実感はあるだろう。では、何でもできるなら、何をやるのか。すべてが暇つぶしになるのであれば、自分の思いのままにならない賭け事などにむしろ暇な時間の大半を投入するのではないか。これが、大金持ちが馬鹿なギャンブルで散財する理由である。彼らは、すでに使いきれないほどカネはあるのである。つまり、彼らがギャンブルをするのは金儲けのためではなく、「勝利」の快感のためなのである。その勝利は勝利が確実ではないために快感となるのだ。ギャンブルの勝敗(結果)までも思いのままになるなら、彼らはギャンブルへの興味を無くすだろう。それが「全能である」ということの空しさだ。「空なるかな空なるかな、空の空なるかな」である。
とすると、「ファウスト」の結末は既に見えている。では、それを書く意味はあるか。
やはり「さざなみ軍記」的な内容の小説にするか? さすがに、知識があまりに無さすぎる。とにかく、主人公は全能ではないこと、努力によって少しずつ向上していくこと、できるだけ「説明」を避け、「描写」をすること。これらを心掛け、或る種の「リライフ」の話を考えてみたい。ただし、自分自身の人生のリライフではなく、「在り得たもうひとつの人生」を生きる話だ。まあ、(何度も作られた種類の話だが)70歳の人間が16歳の身体に戻って生き直すだけでもいいのではないか。
とりあえずの構想だが、現在70歳である人間の意識が、その70年の記憶だけを所持して16歳の身体にタイムリープするというのはどうか。つまり、その男はこれから54年間の未来の出来事の知識だけ持っているわけだ。だが、現実にはただの高校一年生だ。とすると、彼は何をやるか。おそらく、学校の勉強を真面目にし、いい大学に入ろうとするだろう。そして、国会議員から総理大臣になることを目指すのではないか。私ならそうする。そして、2019年から2020年の新コロ詐欺で世界のDSと戦うだろう。勝利か敗北かは、どうでもいい。この話のいいところは、70歳の時点で新コロ詐欺と戦うという年齢設定の良さである。総理大臣が70歳というのは自然だ。もちろん、私の知らない事柄はすべてすっ飛ばして書くのである。
で、次にまた何か書きたいのだが、やはり脚本だろうか。私は描写が苦手だから、脚本のように「事件」と必要な「説明」だけで済む形式がいいようだ。
で、書きたいものは、「ファウスト」かなあ、と思う。つまり、「願望充足」の作品だ。精神においてはまさに「なろう小説」であり、内容も「異世界転生」物だが、神や悪魔が出て来ることで、重厚感がある。
要するに、「ファウスト」とは、「何でも可能だとしたら、お前はどんな人生を望むか」ということである。現代では金力と権力がその力を与えてくれるのだが、その力でまともな人生を送っている人間は少ないように見える。つまり、下種にしか金力や権力が与えられていない。まともなのはロシアのプーチン大統領くらいではないか。
「悪霊」のスタヴローギンなども、その力を無為にしてしまった男だ。
あるいは、あえて苦手な「描写」の訓練をしながら「小説」を書くということも悪くはない。
井伏鱒二の「さざなみ軍記」のように、すべて現代語で歴史小説を書くという手もある。あの要領で、平家物語をリライトするわけだ。まあ、これも小説ではなく脚本でもいい。あえて外来語も使うわけだ。
あるいは、異世界転生だが、「平家物語」の世界に転生する、というのはどうか。つまり、フィクションの世界に転生するわけだ。
「ファウスト」の話に戻る。
「何でも(どのような人生でも)可能だ」としたら、科学者や研究者になる人間はいないだろう。彼らは、その仕事に充実感を覚えるからやっているのだが、「何でもできる、可能だ」となれば、そういう地味な仕事を自分でやる気にはならないと思う。まず、国王になるのが普通だろう。そして、男ならあらゆる美女を国の内外から集め、ハーレムを作るだろう。
では、そういう人生が面白いか、と言えば、最初の数ヶ月くらいだけではないか。国王の無為の生活も、貧乏隠者の小さな庵の中の生活も「自由である」という点では同じなのである。王侯の豪華な食事と隠者の貧しい食事に、どれほどの違いがあるか。国一番の美女の女陰と自分の右手とどれだけの違いがあるか。国王が退屈のあまり戦争をしようが、人民のために土木工事をしようが、どちらも暇つぶしでしかない。
我々が真面目に仕事をするのは、だいたい「それ以外の選択肢が無い」からで、それに不満はあっても、仕事をしていればそれなりの充実感はあるだろう。では、何でもできるなら、何をやるのか。すべてが暇つぶしになるのであれば、自分の思いのままにならない賭け事などにむしろ暇な時間の大半を投入するのではないか。これが、大金持ちが馬鹿なギャンブルで散財する理由である。彼らは、すでに使いきれないほどカネはあるのである。つまり、彼らがギャンブルをするのは金儲けのためではなく、「勝利」の快感のためなのである。その勝利は勝利が確実ではないために快感となるのだ。ギャンブルの勝敗(結果)までも思いのままになるなら、彼らはギャンブルへの興味を無くすだろう。それが「全能である」ということの空しさだ。「空なるかな空なるかな、空の空なるかな」である。
とすると、「ファウスト」の結末は既に見えている。では、それを書く意味はあるか。
やはり「さざなみ軍記」的な内容の小説にするか? さすがに、知識があまりに無さすぎる。とにかく、主人公は全能ではないこと、努力によって少しずつ向上していくこと、できるだけ「説明」を避け、「描写」をすること。これらを心掛け、或る種の「リライフ」の話を考えてみたい。ただし、自分自身の人生のリライフではなく、「在り得たもうひとつの人生」を生きる話だ。まあ、(何度も作られた種類の話だが)70歳の人間が16歳の身体に戻って生き直すだけでもいいのではないか。
とりあえずの構想だが、現在70歳である人間の意識が、その70年の記憶だけを所持して16歳の身体にタイムリープするというのはどうか。つまり、その男はこれから54年間の未来の出来事の知識だけ持っているわけだ。だが、現実にはただの高校一年生だ。とすると、彼は何をやるか。おそらく、学校の勉強を真面目にし、いい大学に入ろうとするだろう。そして、国会議員から総理大臣になることを目指すのではないか。私ならそうする。そして、2019年から2020年の新コロ詐欺で世界のDSと戦うだろう。勝利か敗北かは、どうでもいい。この話のいいところは、70歳の時点で新コロ詐欺と戦うという年齢設定の良さである。総理大臣が70歳というのは自然だ。もちろん、私の知らない事柄はすべてすっ飛ばして書くのである。
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