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#9   生の微分

 

ある本の中で、「死を意識することで、瞬間を別の瞬間に結び付けていた意味の環が壊れ、個々の瞬間が永遠の影を宿すようになる」というような言葉があった。なるほど、我々の生を連続させていたのは、実は意味というものだったのだと気づかされた言葉である。それに、死の意識が、我々を永遠に結びつけるという、この逆説は面白い。連続することが実は有限を作るのであり、連続しないもの、立ち止まるものこそが永遠なのである。意味とは一つの解釈でしかなく、それが我々の生を惰性の中に流していく。そして、やがて本物の死が来る。しかし、立ち止まって死を考えれば、我々の生はそこで微分されるのである。(微分とは、次元を変換して眺めることと解して貰いたい。)

人間は自分の生の時間を引き延ばすのにあらゆる努力をしてきた。しかし、せいぜいが五十年の命を八十年程度に延ばしただけである。だが、時間の密度を変えることで有限の生はいくらでも無限に近づいていくのではないだろうか。いや、それ以前に、死という「ゼロ」に比べるなら、一瞬も永遠に等しいのではないだろうか。今自分が生きている一瞬の価値を我々は本当には知らないのである。般若心経の「諸法空相」とは、あらゆる事象を「空」という相、フェイズにおいて見ることだが、これは生という有限数をゼロで割ることでもある。すなわち、時間の止まった永遠の相のもとでは、瞬間は永遠に等しい。これがファウストの「時よ止まれ、お前はあまりに美しい!」という言葉の意味ではないか?

 







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#8   隠すこと

 

女性が性について書いた文章を読むのは男性にとって気恥ずかしいものである。それにどういうわけか、女性にとって性愛というものは人生の第一義的なものらしく、性について発言したがる女性がやたらに多いのである。たとえば、「風の谷のナウシカ」のような名作アニメについてまで、「主人公ナウシカが中性的に描かれており、ここには性が隠蔽されているからけしからん」という意見がフェミニストの女性から出たりするから驚いてしまう。彼女たちはおそらく、ミッキーマウスとミニーマウスのベッドシーンまで見なければ気がすまないのだろう。要するに、性を隠蔽するな、性的関心を恥じるな、と彼女たちは主張しているのである。

女性の性に対するあっけらかんとした態度に比べて、男性の性に対する態度は、もっとうじうじしたものである。昔はその逆だったような気がするが、それは社会が男性中心の社会だったからで、女性の発言が抑圧されていただけだろう。つまり、女性にとってエロスは至上のものであるのに対して、男にとっては性は「エロ」でしかないから、性に対してはどうしても及び腰になってしまうのである。エロスとエロの間の違いは大きい。

しかし、この点では私は男の態度が正しいと思っている。性は隠すべきもので、明るみに出せばその魅力も魔力も失い、ダンスのようなスポーツか、動物の交尾以上のものではなくなる。文化の大きな要素が隠すことであり、それが「秘すれば花」ということだ。







 

#7   季節と日本人

 

日本人の季節感を決定したのは「枕草子」だろうと思われるが、「源氏物語」にしても季節感と物語の結びつきは非常に強い。この両者の後世に与えた影響は大きい。もちろん、「枕草子」以前から人々は歌の中に季節の風物と、それに寄せる思いを詠んできた。「枕草子」の功績は、それを散文として書くことで人々に改めてそれを意識させ、その重要性を感じさせたところにあるのである。おそらく紫式部が「枕草子」を読んだ時の「技痒」は大変なものだったに違いない。嫉妬、羨望すら覚えただろう。それが「紫式部日記」の中の有名な清少納言批判になっているのではないか。もちろん、中宮定子派、中宮彰子派という政治的立場もあったはずだが。

日本人の生活は季節との関わりを抜きにしては考えられない。といっても、それはこれまでの話で、冷暖房付きの家に住み、ハウス栽培の,季節感の無い野菜を食べて育った今の日本人が季節を感じるのはせいぜい通勤や通学の間に道を歩く時間だけのことである。しかもその間すら、周りの風物を眺めることすらせず、若者も大人もひたすら携帯電話でなにやら忙しげに話している。

あなたが最後に空を眺めたのは、いつだろうか。夕焼けや虹のかかった空に感嘆の眼差しを向けたのはいつのことだったか。クーラーの風ではなく、自然の風にうっとりとなったのはいつだったのか。そうした喜びはけっして小さなものではないはずなのだが。

 

 









#6   学生運動と近親憎悪

 

中野翠は私の好きなコラムニストの一人だが、彼女に一つだけ気に入らない所がある。政治を感情で語る所である。もともと本人も言っているように政治には詳しくないらしいのだが、大学生の頃、学生運動を少しやっていたらしく、「民青」に対して異常な嫌悪感を持っているようなのである。我々から見れば民青も革マルもその他も同じ左翼だが、彼らにとってはそれこそ不倶戴天の敵みたいなのである。そのため、たとえば「思ひ出ぽろぽろ」のような作品(高畑勲のアニメだ)に対しても、「民青セーンス」とやっつけ、それで批評したつもりになっているようなのだが、読む方はなにしろ民青そのものを知らないのだから途方に暮れてしまう。どうやら、民青のヴ・ナロード(人民の中へ)的な手法や感覚の偽善性に我慢がならん、ということらしいのだが、書き方が冷静でないので、それがなぜいけないのかよく分からない。

思うに、学生運動をしていた人間というものは、体制よりも同じ左翼の他派閥を激しく憎むという点に共通した特徴がある。それがいわゆる内ゲバとなったりして彼らに同情的であった世間の人間たちからも愛想を尽かされることになるのだが、彼ら自身には、その点についての反省がまったくない、というのも興味深いところである。彼らのそうした心性や行動が、まさしく体制維持にとっては好都合であり、学生運動が長く続かなかった一つの原因であるのだが、かつての左翼青年たちは今、その事をどう思っているのだろうか。

 








 

#5   消えた本

 

本というものは買っておくべきものである。そして、できるだけ捨てないほうがいい。というのは、出版物には寿命があるからである。子供のころ読んで面白かった本をもう一度読んでみたいと思っても、既に書店の棚には無い、というのはよくある事である。

おそらく今の人々はドーデーなど読まないだろうし、彼の「タルタラン・ド・タラスコン」などというユーモア小説の存在も知らないだろう。べつにそれが名作だというわけではない。「最後の授業」などで一時期有名だった彼の人気に便乗して訳されただけの二流三流の作品だ。しかし、昔読んだ本には、その頃へのノスタルジーがまといついており、他のどんな本にも得られない「自分だけの」感情の記憶があるのである。そしてそれは、あるいはどんな莫大な金を使っても二度と手に入れられないものかもしれないのだ。プルーストのように、自分の後半生を自分の前半生の記憶を思い出し、(フィクションの形でだが)記録することに費やした人間もいる。

たとえ新しい翻訳が出ていても、昔の翻訳でなければいけないのである。「赤毛のアン」は多くの人が訳しているが、村岡花子の訳以外は考えられないという人は多いはずだ。「白鯨」は今では阿部知二訳しか書店には見あたらないが、私は、自分が子供の頃読んだ、名前の知れない翻訳者の訳のほうが優れていたと思っている。それが錯覚でも、私にとってはそうなのだ。だから、本はけっして捨ててはいけないのである。







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