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興味深いツィートや記事のリツィートや転載が多いのでよく「利用」している某漫画家のツィートだが、私はこの漫画家のデビュー時から知っていて、私には少しも面白く思えない漫画を描いていた。その後、まったくメジャーにならないが、現在まで漫画家を続けていられるのは、根性だけは凄いと思う。
で、私が彼の漫画に感じた「面白くない」という気持ちを分析すると、それは端的に「ユーモアセンスが無い」に尽きると思う。優れた漫画家のほとんどは、シリアスな作風の人間(たとえばつげ義春など)でも、たまにユーモアを入れることがあり、その時には冴えたユーモアセンスを発揮するものだ。「李さん一家」のラストの「で、その一家がその後どうなったかというと」「今でも隣にいるのです」の強烈なズッコケ感は有名で、多くの漫画家に模倣されたものだ。
ただし、ユーモアが知性のレベルを示すと結論づけるのは短絡であり、他者を馬鹿にすればそれだけでユーモアだとされる「現代の笑い」が低レベルな笑いであることは言うまでもない。
結論としては、ユーモアが低レベルな漫画家は大物になれない、ということだが、たとえばゆうきまさみのようにデビュー時はさほど冴えたユーモア感覚が無くても(というより、笑いが楽屋落ち的で嫌みでも)、一部のマニアにはウケ、長年のうちにそのユーモア感覚が進化して優れた漫画家になる例もある。楽屋落ちというのは、作品世界をメタ視点で見る姿勢だから、しばしばかなり嫌みになるのである。たがみよしひさなどがその例だろう。

(以下引用)絵のコピーはできなかったが、要するに「銀河皇帝」が和風のお大尽の衣装を着ているのが「面白いだろ?」ということである。まあ、低レベルのユーモアである。


自分で描いておいてバカみたいですが、30年以上昔描いた『エルフ・17』の銀河皇帝の衣装を久々に見て「くす」とか笑ってました。この原画もヤフオクで落札されましたので、もうすぐ我が家を旅立ちます。





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日本画、特に版画の複製など容易だろうと前に書いたが、現在の複製技術を応用すれば、画学生などでも大家の模倣は簡単にできるのではないか。まあ、さすがにコピー機で転写するともいかないだろうが、転写した絵を下敷きに版画の台木に掘る技術くらいはあるだろうということだ。版画など、同じ絵が何百枚も流通しているのだから、ラッセンの絵と似たようなものだ。

(以下引用)


 
 
偽版画なぜ拡散…日本画価格下落で経営難 鑑定書なく目利き頼み© 産経新聞社 偽版画なぜ拡散…日本画価格下落で経営難 鑑定書なく目利き頼み

 日本画の大家、平山郁夫らの絵画を基にした版画の偽作が見つかった事件は、関与を認めた大阪府の画商が人気の高い大家の偽作を大量に流通させ、市場で値崩れを起こす事態まで招いていた。美術関係者らは長年、偽作が流通した背景について、鑑定書がなく、真贋(しんがん)を目利きだけに頼る版画特有の事情を指摘する。さらには、偽作の制作を容易にする技術の向上、取引市場の移り変わりなど複雑な時代背景も浮かんでくる。(吉沢智美)

偽版画なぜ拡散…日本画価格下落で経営難 鑑定書なく目利き頼み© 産経新聞社 偽版画なぜ拡散…日本画価格下落で経営難 鑑定書なく目利き頼み

 需要落ち込み

 「いつの世も偽作は存在する。普通は画商が見つけるなどして歯止めがかかるものだが、今回はあまりにも長きにわたり流通してしまった」。東京都内の美術関係者は険しい表情で語る。

 平山郁夫、東山魁夷(かいい)、片岡球子(たまこ)、有元利夫-。偽作版画は、大家や人気作家の名が並ぶ。これまでに、大阪府の50代の男性画商が一部への関与を認め、約8年前の平成25年ごろから、奈良県の工房に制作を依頼していたことがわかっている。

 美術関係者によると、25年前後、日本画を取り巻く情勢は厳しかった。20年のリーマン・ショック以降、取引価格は大きく下落。23年の東日本大震災を経て、需要はさらに落ち込んだ。

 美術関係者は「資金力がなく、著名作家の作品を仕入れることができない画商は経営が厳しいだろう」と証言する。大阪の画商が関与した偽作は、いずれも人気が高く、日本画が値崩れする情勢の中でも比較的高値で取引されている作家のものだった。業界関係者によると、東山の版画は高額なもので900万円、平山の版画も250万円ほどで売買されているという。

 ある画廊経営者は「味をしめて、偽作を流通させ続けたのだろう」と話す。

業界特有の事情も

 偽作の大量流通を長年、許した背景には版画特有の事情も浮かぶ。日本では、版画専門の鑑定機関などは存在しない。芸術作品の取引などで本物であることを証明する「鑑定書」もないまま、売り買いされているのが現状だという。

 問題を受け、日本現代版画商協同組合(日版商)や美術商らが立ち上げた臨時偽作版画調査委員会の事務局は「どのような方法で鑑定するかを模索するところから、始めなければならない」と実情を明かす。

 現状では、画商らは作品のカタログや真作と見比べながら真偽を判別。関係者は「きちんと鑑定できる人がいないことで、偽作が売り続けられたのかもしれない」と推察する。

 一般客と画商らを結ぶ売買の舞台となる百貨店などの事情を原因に挙げる声もある。関係者によると、百貨店などにはかつて、美術品を見る専門担当者らがいたが、長引く不況で、こうした人員を育成することが困難に。結果的に「画商との信頼関係を頼りに作品を取り扱うしかなくなってきた」(関係者)という。

 近年、技術の進歩などにより偽作はより容易に制作できるようになっているという。美術関係者は「今後も長い期間、偽作が見抜かれず流通するリスクはある」と話した。

     ◇

 実際に偽作を制作したとされる奈良県の工房の男性経営者が、産経新聞の取材に応じ「(流通させるとは思わず)他の用途で使うと想像していた」などと語った。

 男性は「摺師(すりし)」として40年以上にわたり、さまざまな作家の複製版画の制作に携わってきたという。ただ、仕事量が激減。20年ほど前から修復の仕事も引き受けるようになったとしている。

 大阪の画商と知り合ったのは、その頃で、最初は修復の仕事をもらっていたという。偽作の依頼が来たのは8年ほど前。「修復で『ええ仕事するな』と見込まれたのではないか」と推察する。

 「絶対に迷惑をかけないから」と言われ、東山魁夷や平山郁夫らの複製版画を作った。1作品を制作するのには約2カ月を要し、年5~6点ほどの依頼があったという。

 約2年前まで依頼が来ていたとし、これまでに制作したのは、少なくとも東山ら4人の作家で「800枚だ」と証言した。

 男性経営者は「『こんなもの何に使うのか』と思っていたが、売るとは思わなかった。よい仕事があれば受けるのは当然。(大阪の画商の)言葉を信じたのに…」と話した。(田中一毅)



真木太郎は、私が日本一のプロデューサーだと思っている人物で、有名無名の名作アニメの多くにその名前が出ている。プロデュースする作品を選ぶ、その目の確かさが凄い。
おそらく、子供のころから優れた大衆的映画に接するだけでなく、その育った家には、映画関係の資料が無数にあったのではないか。



(以下引用)

新東宝映画『鋼鉄の巨人(スーパージャイアンツ)』全作や『地獄』の脚本家で、TV『水戸黄門』の印籠シーンの基本パターンを作った脚本家の宮川一郎氏 asahi.com/showbiz/tv_rad が、アニメ映画『この世界の片隅に』の真木太郎プロデューサーの実父とは知らなかった。ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE
小田嶋隆のツィートである。
立川談志を神格化する人は多いが、噺家としてよりも、「落語論者」として評価されている面が大きい気がする。
彼の落語は一度、途中までしか聞いたことがないが、枕が長くて、その内容もつまらなかった記憶がある。本などで見るその落語論も、さほど感心はしないが、「落語はこのままだと絶滅する」という意識は、他の落語家にはあまり無かったと思われるし、その後の落語の衰退を見ると、その点では落語界にとって貴重な存在ではあったと思う。
ただし、落語の本質を「人間の業の肯定である」としたことはまったく感心しない。「業」という仏教語で意味ありげに見せているだけである。
落語とは単に「聞き手を笑わせる芸」でしかない、と覚悟するのが本当の落語家だろう。そして、そういうはかない、時として他人の軽蔑の対象になる商売を一生の仕事として選んだことは落語家の業ではあっても、落語そのものの本質ではない。人が転ぶだけでも笑いは生まれるし、その笑いと落語の笑いに本質的な差はない。幼児でも子供でも笑うレベルのものを、いかに磨き上げるかというところに落語家の苦悩があり、「業」があるのである。


(以下引用)

もっとも、昭和の一般人がどんな気持ちで談志師匠の落語を聴いていたのかを、私が正確に知っているわけではない。あの人のマクラの中で開陳される高飛車な断言に、私が個人として辟易していたということです。天下一品の語りの芸を、クソ生意気なマクラが台無しにしてる感じでしたよ。




私は「ビッグバン説」と「進化論」は昔からほとんど信じていないのだが、科学者の間ではそれが定説なのだろう、と思っていた。しかし、後者に関しては、科学者の間でも「終わった学説」とされているようだ。まあ、下で引用するような「数学的確率」を根拠にするのはどうかと思うが、ほかにも進化論否定の根拠はあるのだろう。
なお、ビッグバン説も進化論もユダヤキリスト教的発想だな、と私は思っている。だから「西洋文明による世界侵略」の支柱となっていたのではないか。前者は、或る日突然に宇宙が生まれた、というのはまさにエホバによる天地創造そのものであり、後者は、「選民」である白人種は世界を支配するのが当然である、ということで、「文明的進化論」がそこにはある。

(以下「in deep」から転載。)

ダーウィンの進化論に関しては、「この世に、分子生物学が登場して、基本的に終わった」とする見方は科学界にはわりと強く、以下の記事では、米イエール大学のコンピューターサイエンス学の教授が寄稿した文章をご紹介しています。

分子生物学に葬られるダーウィンの進化論
投稿日:2019年10月9日

かなり長い記事をご紹介しているのですが、いわゆる、進化論の「不可能性」は、数の上からはっきりしており、それは、1980年代にフレッド・ホイル博士なども何度も指摘していますが、上の記事でご紹介しましたデービッド・ゲランター教授の文章の一部を抜粋してみます。

2019年5月のデービッド・ゲランター教授の寄稿文より

ランダムな 150の連鎖のアミノ酸の配列がそのようなタンパク質を作成する可能性はどのくらいだろうか。DNA の無意味な配列は本質的にランダムだ。

ランダムな配列にランダムな変更を加えると、別のランダムな配列が得られる。

したがって、目を閉じて、20個のビーズボックスから 150個のランダムな選択を行い、選択した順序でビーズをつないでいく。そこから、有用な新しいタンパク質が生まれる確率はどのくらいか。

実際には、以下の数値は、現実的に新しいタンパク質が作成される場合よりも小さな組み合わせとなっているが、それでもこのようになる。

各連鎖の 20個のアミノ酸の連鎖から、個別に選択される可能性のある 150個の連鎖の総数は「 20 の 150乗」だ。これは 10 の 195乗とほぼ同等の数となる。ちなみに、宇宙には 10 の 80乗の原子しかない。これだけ多くのポリペプチドのうち、どのくらいが有用なタンパク質になるのだろうか。

(略)

これらの計算からは、ランダムな 150 の配列から、有用なタンパク質が生まれる可能性は「完全にゼロ」だと言える。1000回の突然変異でも、1万回の突然変異でも、100万回の突然変異でも、ランダムな配列の選択から新しいタンパク質が生まれる可能性はまったくない数値となる。

フレッド・ホイル博士は、これに関して、以下のように述べて科学界から反発をくらっていましたが、数字的には「あり得ない」ことをこのように表現していました。

ホイル博士の言葉より

「(最も単純な単細胞生物がランダムな過程で発生する確率は)がらくた置き場の上を竜巻が通過し、その中の物質からボーイング 747 が組み立てられるのと同じくらいだ」

「(単機能のたんぱく質が、アミノ酸が偶然組み合わさって生成される見込みは)太陽系全体に埋め尽くされた目隠しされた人たちが同時にルービックキューブを解くくらいあり得ない」 (The Blind Watchmaker)

これらの話で皮肉なのは、「科学や生物学が発展しなければ」進化論も存続し得たのですけれど、生物に関しての分子生物学や遺伝子構造の驚くべき緻密さが明らかになるにつれて、ダーウィンの理論は現実には(その理論の中のひとつも)通用しなくなっています。

どこをどう見てみても「不可能性」しか見えてこない。

それでも、今もなお科学の根底に進化論を据え置かなければならないあたりに、学問界という存在のいろいろを感じます。

「じゃあ、どうして地球の生物にはこんなに多様性が満ちているんだ!」

ということに関しては、

「それはおそらく永遠にわからない」

としか言えないのではないでしょうか。

あるいは、

「在るから在る」

とか。

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